この世界で最も愛おしいものは何かと問われた時、私は決まってこう言う。
それは自分の姉である―――と。
誰も恨まず全てを愛した姉。
嫌いになる要素など一つも存在せず、皆が憧れを抱いた。そんな姉が私の誇りだった。
だからこそ、許せなかった。
姉を裏切り、平然と殺めた男がどうしようもなく憎い。
嘗て姉はその男を信頼していた。或いは信頼以上の情を寄せていたのかもしれない。それにも拘らず、その男は姉を切り捨てたのだ。
憎悪は日に日に膨れ上がり―――。
膨れ上がった憎悪は己の魔力へと変換される。
―――ついにあの男を殺す時が来たのだ。
☆
月明かりに照らされる中、二つの人影は異様に揺らめいていた。
一人は男、一人は少女だった。
男は閉口していたが、やがて口を開いた。
「さて、お前も既に耳にしているだろうが、鶫誠士郎は一条楽抹殺に失敗した。挙句、我々を裏切った。」
「はい。」
少女はその事実に首肯する。
嘗て少女と鶫誠士郎は先輩と後輩関係だった。二人はビーハイブで一、二を争うほどの実力者であり、同時に良好な関係を築いていたが、今の彼女に鶫に対する同情などない。
裏切ったのならば嘗ての仲間でも敵である―――と、氷河のように凍結された心で切り捨てていた。
「そこで一条楽抹殺の任務はお前に譲渡する。ただし、速やかに殺すことを推奨する。」
「推奨………とはどういうことですか?」
少女は怪訝そうに聞く。
「奴は……一条楽は徐々に魔力を増幅させている。この調子だと嘗て『神童』と呼ばれていた頃に戻ってしまう。そうなれば、お前でも手がつけられなくなる。」
「成る程。」
少女は納得したように頷いた。
その首肯を確認し、クロードは瞳を鋭くさせる。
「分かっているとは思うが、失敗すればどうなるか分かってるな?」
獣たちを振りあがらせるような鋭い声。その声は刃物を突きつけられてるようだった。
もうじき夏が訪れるにも拘らず、あたりはいっそう寒く感じられた。
少女は一瞬動揺したが、すぐに平静を取り戻す。
「もちろん心得ています。失敗者には死を。」
「そうだ。失敗は許されない。」
失敗を犯すなどまず有り得ない。
鶫誠士郎と一条楽の戦闘は使い魔の目を通して一通り見ていたが、彼女は一条楽に手を抜いていた。それが結果的に命取りとなった。
要は慢心せず、最初から殺す気でかかればいいのだ。少女の心には殺さない選択肢など何処にもない。答えは「殺す」の一つに定まっている。
「では、任務は任せたぞ。小野寺春。」
「はい、クロード様。」
☆
気温が三十度近くの日々が続き、人々の服装も袖のある物から半袖へと移り変わっていく。
今日は湿気が六十パーセントを超え、じめじめとしている。
「湿気うぜえ。」
楽は恨みがましく言う。
ただ暑いだけなら良い。夏というのはそういう季節だから致し方ない。それに夏の日差しによる暑さならクーラーなりタオルなりで、暑さの対処法はいくらでも存在する。
ただ、湿気というのはクーラーやタオルを使ってもじめじめ感と肌のベタベタ感を払拭できない。つまり一条楽(もしくは他にもいるかもしれない)からしてみれば、湿気というのは敵である。
第二次世界大戦中、「ぜいたくは敵だ」という風潮があったが今の心情的には「湿気こそ真の敵だ」と声を大にして言いたいくらいだった。
ただ、不快感は別に湿気だけではなかった。
どうも、先程から隣にいる偽の恋人が落ち着きない態度をとっていた。こちらをチラチラみたり「ヒッヒフー。」とラマーズ法の呼吸をしたりしている。明らかにおかしい。
「おい、千棘。大丈夫か。なんか変だぞ。」
すると千棘は肩をビクリと震わせ、おろおろした態度を見せる。
「お、おい。本当に大丈夫か?」
すると、千棘は何か言わなければと思ったのか口を開いた。
「べ、別に大丈夫なんだけど!アンタに心配されるようなことは何一つないんだけど!そもそも何?私の表情伺っていたとかホントにキモいんだけど。やめてくんない。マジキモい。アンタこそ大丈夫?病院行った方が良いんじゃない?」
矢継ぎ早に喋っていく。
それも楽を非難する言葉ばかりだった。
「と、とにかく何でもないからーーーッッ!」
そう言って足早に去って行く。
「な、何だったんだ。」
要は何でもないと本人は言ったのだろうが、何でもないにしては様子がおかしい。おかしすぎる。
「俺、なんかしたっけ。」
記憶を探ってみるが、特に何かをした覚えはない。
「うーん」と唸りながら黙考していると………。
「楽様ーーーーーーーーッッ」
「ぐおッ!た、橘か!?」
背後から勢いよく抱き付かれる。
「お前、こんな人通りで………。」
「あっ!てことは密室ならOKということですわね!?」
―――話、聞けよ。
嘆息。
そういう問題ではない。そもそも女子が不用意に男子にハグするなんてのは危険な行為だ。男という生物は皆、獣みたいなものだ。女性に接近されて男の本能がむき出しになる者もいるのだ。
幸い、一条楽は動揺する程度で収まっているが………。
「橘。お前はもう少し周りの視線を気にするべきだ。今、俺は他の男どもから殺意を向けられてるんだが。」
周りの視線が痛い。特に男性からの視線は痛かった。
「まあ!さすが楽様!人気者ですわね!」
「話聞いてたか?」
話は………聞いてないようだった。
☆
―――ろくに目を合わせることすら出来なかった。
昨日、楽が落とした写真を千棘は拾った。そこに写っていたのは楽と見知らぬ少女だった。
ただの落し物で、それを楽自身に渡せば、それで済む話―――の筈だった。
しかし、違和感があった。
―――この少女は本当に見知らぬ女性なのだろうか。
何処かで会ったような気がした。遥か昔ではあるけど初めて見る顔ではない。何となくだが、そう思った。
そして、何より楽はこの少女のことをどう思っているのだろうか?
時々、楽は千棘でも他の誰でもない、遠い「何か」を見る時がある。それが何かは分からないが、この写真の少女と何か関係があるのだろうか?
この写真をただの写真と認識していれば思い悩むことはなかっただろう。
しかし、ただの写真と認識することは出来なかった。
写真の中にいる少女に問いかける。
―――貴女はだれなの?
☆
その後、万里花は日直の仕事があるとかで先に行ってしまう。
楽は結局、一人で登校することになる。
「ったく、千棘のヤツどうしちまったんだよ。」
頭から切り離そうとしても気になってしまう。
再び「うーん」と唸りながら考え込む。しかし、歩くペースだけは落とさずに学校へと向かってゆく。
「ん………?」
足をピタリと止める。
どこからか魔力の匂いを漂わせていた。
「どこだ?」
気づけば周りには人がいない。人払いをしているところから敵がターゲットにしてるのは楽であることが分かる。
意識を集中させる。封印が徐々に解かれているせいか、魔力の流れには敏感になりつつある。
刀の柄を握る。いつでも抜刀できるよう身構える。
すると、ダンッ!と何かが放たれる。素早く抜刀し、「それ」を切り裂いた。正体は魔力を付与した弾丸、魔弾だった。
「お前は………」
楽は俯いていた顔を上げ敵の正面を見据える。
「誰だ………!」
瞳がルビーのような輝きを放つ。鬼の力を解放したのだ。
「クソッ」
敵は今の一撃で楽を仕留めようとしたらしいが、それは失敗に終わる。
そのことが彼を妙に焦らせている。
男は筋肉質で大柄な体躯をしている。現在、彼は全身を魔力強化している。楽の鬼の力に対抗するためだろう。
そもそも鬼とは人間の数倍以上の運動神経を有している。そのため敵に回った時は非常に厄介な相手となる。それに限らず、古来から人々の恐怖の対象でもあった。
つまり、鬼の力を解放していない状態での不意打ちは男にとって最大のチャンスだった。それを逃してしまえば戦闘は近接戦へと持ち込まれる。
無論、近接戦が苦手なわけでもないだろうが、人間と鬼という隔たりがあることは否めない。筋肉質で大柄、魔力強化という面を含めても鬼に対抗できる人間は
「オオオオォオオオオォオオオオォッッ!!」
男は駆けだす。踏み込んだ足は地面を抉り、それが加速のバネとなり一気にブースト。
だが、これは余りにも無謀な行為だと男は分かっていた。今の自分はヤケだ。冷静さを欠いている。
しかし、何かをしなければいけない。何かをしなければ………。
男は勢いよく拳を振るう。魔力強化した男の拳は鋼鉄よりも硬い強靭さを誇っていた。
しかし、楽はそれを躱すでもなく剣を振るうでもなく、前進して素手で受け止める。
「な………っ」
男は驚愕する。
渾身の一撃だった。にも拘らずあっさりと止められた。
「ひ………ッヒイイィイイ!」
まさか、素手で防がれると思ってなかったのだろう。男は目の前の少年に恐怖し、その場を立ち去った。
「あ、おい。待て!」
楽は彼を止めようとしたが逃げ足が速いのかその場には楽だけが取り残された。
「な、なんだったんだ?一体」
☆
男は何とか逃げ延びた。彼が今いるのは人気のない森だ。
逃げ延びたが「任務」は失敗である。任務前に一条楽の実力は並だ、と聞かされ慢心していたが、明らかに自分の実力以上だった。
彼と戦うには余りにも無謀だ。
「どうやら失敗したようだな。」
「く、クロード様」
ゴクリと息を飲んだ。
彼からは異様な威圧感が放たれていた。
「貴様の屑っぷりには私も悩まされたものだが、こうも屑だとは思わなかったぞ。」
「ひ、ィ、ぁ」
クロードから放たれる威圧感はまるで蛇に締め付けられてるような感覚だった。首元にいつ蛇の牙がうずめられるか分からない。
「失敗者に与えるものが何か覚えているか?」
「し…っ………しィしっぱいしゃや………あ」
あまりの恐怖に意識が途絶えそうになる。
「おっと言語が不明瞭になってるな。代わりに私が言おう。『失敗者には死』だ。今回、どういった処罰にするか私なりに考えたが………。」
すると、クロードは男に指差した。
「お前の体内には超小型のプラスチック爆弾が埋め込まれている。」
「ひィぁああああああっ!!?」
「では、さよならだ。」
そう言ってクロードは男の前から立ち去って行く。
数秒後―――。
そこに残ったのは墨のようなものだけだった。