俺の恋人、メンヘラインキュバスなんだが? 作:キージェンエグゼ
俺は警備塔の中にいた。リヴィには、今日の早朝に見送りしてもらった。別れ際の、あの悲しそうな顔を思い出すと、胸の奥がきゅっと締め付けられる。たった一週間の任務だ。何も起こらず、無事に終わることを祈るばかりだ。できるだけ早く帰りたい——そんな想いを胸に、目の前に広がる白銀の景色を見下ろす。
ここは神奈川。最初の異世界との同化災害で、ほぼ全域が異世界に呑まれてしまった地。かつて921万人いた住民のうち、約75パーセントが死亡、あるいは行方不明。日本の歴史上、最悪の災厄。……そして、俺の母親も、その日にいなくなった。心のどこかでは、まだ生きているかもしれないと、淡い期待を抱き続けている。
「ユウヤ、元気なさそうやな」
ふいに声がして、振り返ると同僚のショウイチが立っていた。同期で、関西出身の男。いつも陽気で、職場の空気を和ませるタイプだ。おもむろにポケットからタバコを取り出し、火をつける。
「お、おい。職務中の喫煙は……」
「バレへんバレへん。どうせ隊長もどっかで吸うとるって」
塔の中にいるのは、俺とショウイチを含めて4人だけ。タバコの煙が、ゆるやかに空気の中を漂ってくる。普段は気にしないその匂いに、不思議と惹かれてしまうのは——やっぱりリヴィの影響かもしれない。
出発前、リヴィが俺に手渡してきたタバコの箱を思い出す。
『俺が寂しかったら、これを吸って』
ヴェルヴェット・ラズ。高級タバコで、ラズベリーの甘い香りが特徴的だ。普段は吸わない俺でも、こうして彼のことを思い出すと、ふと火をつけてみたくなる。
「なんや、お前もタバコ吸うんか?」
「ああ、まあ。そんな気分になってきた」
「前まで吸ってなかったのに、なにがあった?」
……何があった、か。全部リヴィのせいだ。いや、リヴィのおかげなのかもしれない。
「うーん、恋人の影響かな」
俺がそう答えると、ショウイチの目が見開かれた。口にくわえていたタバコが外れそうになる。
「嘘やん……ユウヤに恋人? 今日エイプリルフールちゃうよな?」
「本当だよ。ってか、ライター貸してくれ」
「しゃーないな」
ショウイチが百円ライターで火を貸してくれる。タバコに火をつけると、途端に甘い匂いが辺りに広がる。
「あっま。なんやこの匂い。デザートか思うたわ」
その反応が可笑しくて、俺は小さく笑った。肺の奥に、リヴィの匂いが広がる。あいつの肌、髪、寝息。すべてがこの香りに包まれている気がして、ほんの少しだけ安心する。
「恋人が好きなんだよ。だから、俺もこの匂いが好きなんだ」
「惚気か? ええぞ、最後まで聞いたるわ」
まったく。ショウイチのこういうところ、昔から変わらない。けれど、こうして話を聞いてくれるのはありがたい。
「恥ずかしいんか? ええって、どうせ暇やし話してくれや」
観念して、俺はリヴィとの出会いから、ここまでのことをぽつぽつと話し出した。
「へえ、そんな出会い方したんか。なんやおもろいなぁ」
ショウイチは2本目のタバコに火をつける。煙がゆるやかに上がって、白い天井に消えていく。
「それにしても、魔族やろ? 大丈夫なんか? なんやこう……性格ヤバそうとか」
俺は少し黙った。けれど、それを隠す理由もない。
「まあ……正直、ヤバいっちゃヤバい」
「やっぱりな。で、どんな感じに?」
俺は少しだけ息を吐いてから答えた。
「……すげえ構ってくる。あと、めちゃくちゃ嫉妬深い」
「そら魔族やしな。けど、それで惚れるってのもなかなかやな」
「惚れたっていうより、気づいたら一緒にいたって感じだな。リヴィって……放っといたら壊れそうでさ。危ういというか、寂しがりというか」
「なるほどな。守りたくなる系やな」
ショウイチは頷きながら、吸い終えたタバコを金属製の灰皿に押し付ける。
「そういうの、昔からお前の弱点やもんな」
俺は思わず笑ってしまった。たしかにそうかもしれない。
塔の外は変わらず雪が降り続けている。白銀の世界。何もかもを静かに包み込んでいく、音のない世界。
「なあ、ユウヤ」
「ん?」
「そのリヴィって子、お前のことめっちゃ好きなんやろ?」
「ああ……たぶん、世界で一番好きだって言ってた」
「そら……ちゃんと守ってやらなあかんな」
ショウイチの言葉が、静かに胸に響いた。タバコの煙が、リヴィの残り香のように肺の奥に沁み込んでいく。遠く離れていても、あいつの気配がそばにあるような気がする。
(絶対、無事に帰る……)
俺はそう心の中で誓いながら、静かにタバコを指先から離した。白銀の世界にそれが落ちていく。リヴィが待つ家へ、俺は必ず帰る。その約束だけは、どんなことがあっても守り抜くつもりだ。