■
「…………」
「…………」
「…………」
カレーを囲む人間史上、最も浮かない顔をしているのが俺たちだった。
会話は一切無く、かちゃかちゃとスプーンと食器がこすれる音だけが響いている。
心なしかスプーンですくい上げたカレーも、普段よりずっと味気ないように感じた。
そうして無言で食事を進めていると、ふと舞香が言葉を発して。
「やっぱりお兄様の料理は美味しいですね」
「……アタシも半分くらい手伝ったんだけどね」
「やっぱりお兄様はルー選びがお上手ですね」
「ルーはアタシが適当に選んだヤツ」
「やっぱりお兄様はお米の炊き方が他とは違いますね」
「レンチン米だけど?」
「…………」
「…………」
見たことがないくらい険しい顔つきで、舞香がカレーを口に運んだ。
それに対面するかなたも無表情で、しかし視線は舞香に向けたまま水を飲んでいる。
二人に挟まれた俺はというと、食べる手を動かすことすらままならなくなっていた。
今すぐ逃げ出したくなる衝動に襲われたが、そもそもこの状況を引き起こしたのは俺だ。だったら、俺が二人の中を取り持つべきなのだろう。というか俺が何とかしないと、舞香もかなたもどうなるか分かったものじゃない。
そのことを認めた俺は、観念して口を開いた。
「…………その」
「はい」
「何」
「二人の、紹介を……共通の知り合いの俺が、する」
「分かりました」
「さっさとして」
俺の生存本能は、完全に取り付く島がなくなったかなたよりも、まだ弁明の余地をくれる舞香を選んだ。
「舞香はもう知ってると思うけど、彼女はお前と同じクラスの……」
「楠見かなた、ですよね? お名前は既に存じ上げております。素行不良の問題児として三後では有名ですから。私が知りたいのは、お兄様ともあろうお方が何故、彼女のような人間と友人関係にあるのかということです。ましてやお兄様が家に招くほど親密な関係になっているのは、一体どういうことでしょうか?」
「……こいつはただの友達だよ。夏の終わり頃に知り合って、それから」
「ただのご友人? その程度の関係でお兄様はご自宅に彼女を招き入れ、一夜を共に過ごそうとしたのですか? 家族の一員である私のことは何が何でもその日のうちに自宅へ返すというのに、なぜ楠見かなたは許されるのですか? お兄様にとって、楠見かなたは私よりも優先するべき人間なのですか?」
「いや、まあ……それは……」
「……あはっ」
言い淀む俺の隣で、不意にかなたがそんな笑いを零す。
一瞬、舞香の振る舞いに思わず噴き出したのかと思ったが、どうやらそうではないみたいだった。
そうでなければ、あんな他人を見下すような顔はしていない。
「何がおかしいのですか、楠見かなた」
「いやいや、こんなの笑わない方が無理でしょ。だってあの片桐のお嬢様が、まさかこんな重度のブラコン拗らせてる変態だなんて思わなかったもん。学校じゃいかにもな感じでお高く止まって、生徒やセンセーからもチヤホヤされてる優等生のくせにさ。ホントはそいつらのことなんかどうでもよくって、頭の中は大好きなお兄ちゃんのことだけしか考えてなかったんでしょ?」
「いけませんか?」
「
「いけませんか?」
「………………え、ヤバっ、キモ……」
それは単なる煽りではなく、本心から漏れた言葉みたいだった。
「私がお兄様のことを慕っているのは事実ですから。他人からどう揶揄されようとそれを否定するつもりはありませんし、そもそも否定ができません。ですので、蔑みたければどうぞご自由になさってください。尤も、その程度で私がお兄様への愛が冷めることなど決してありませんが」
「ちょっと……こいつ何とかしてよ。アンタの妹なんでしょ?」
「俺が何とかできるような奴だと思うか?」
もちろん、今までさんざん止めるように言ってきた。
最初の頃は、俺なんかに構っていても意味が無いから、という理由が主だったが、今ではもう少し周りの目を考えろ、もう高校生なんだから節度を弁えてくれ、等の真っ当な理由が大半を占めていた。
だが、舞香は止まらなかった。それどころか俺が一人暮らしを始めたせいで、エスカレートしてしまっているようにも思う。二週間ほど前なんか、一緒に風呂に入りたいと言い出してきた始末だ。その際には持ちうる全ての力を使ってなんとか回避できたが、あと一歩力及ばなければ、あやうく浴槽に連行されるところだった。
今日だってそうだ。友人が泊まると言えば、さすがに遠慮すると思ったんだが。
「とにかく、これが俺の妹の舞香だ。その……仲良くしてやってくれ」
「できると思う?」
「お兄様がどうしてもと仰るのであれば、必要最低限の関係は築くよう努めますが」
「………………」
「………………」
未だに険悪な視線を交わす二人だったが、ここまで来て説明を放棄するわけにもいかない。
一度水を口に含み、喉を潤すついでに諸々のことを呑みこんで、俺は改めてかなたに向き直った。
「……じゃあ、かなたに舞香のことを説明する」
「今ので大体分かったけどね。要はメンヘラとブラコンが合体した化け物でしょ?」
「そこまで言うな。確かに行き過ぎてるところはあるが、自慢の妹なんだ」
「ふーん?」
「俺なんかより勉強もスポーツもできるし、芸術にも明るくて……特にピアノが上手い。コンクールだっていくつも入賞しているし。演奏だけじゃなくて、調律まで完璧にこなせるのが凄いところだな」
「……ねえ、ちょっと」
「人望だってある。俺に比べて友人も多いし、父の知り合いからの評判もいい。贔屓目も入ってるかもしれないが、見た目だって平均より上じゃないか? とにかく、俺みたいな奴とは大違いで、これからを皆から期待されている、よく出来た妹だよ。もちろん将来は片桐グループの代表を継いでもらう予定だ」
「アンタもめちゃくちゃシスコンじゃねーか!」
耐えきれないといった様子で、かなたが声を上げながら机を叩いた。
「いや……舞香に比べれば、そこまで重症じゃないだろ」
「比べる対象がイカれてるだけで、アンタも充分ヤバいから」
「でも舞香がよく出来た妹なのは事実だし、舞香の人となりを見れば誰だって俺みたいになるはずだ」
「急に早口になんのが一番キモい」
「なんだと……?」
「……ふふっ」
そうやってかなたを威嚇する俺の隣で、ふと舞香がそんな笑みを零す。
一瞬、俺達のやり取りに絆されたのかと思ったが、どうやらこちらもそうではないみたいだった。
そうでなければ、あんな勝ち誇ったような顔はしていない。
「これで分かりましたね、楠見かなた。私とお兄様との間に、貴女が入る余地など微塵も残されていないことが。言葉を選ばずに申し上げるなら、貴女はお兄様に相応しくないどころか、お兄様の品位を落としかねない低俗な女なのですよ。本来ならば家の者に排除させるのですが、今の私はお兄様に褒められて機嫌がいいのです。今すぐこの場から立ち去るのであれば、これまでの不躾な言動と振る舞いは不問と致しましょう」
「こいつ……っ! ただのブラコンのくせに偉そうに……!」
「さあ、出口はあちらですよ。そして貴女が帰ったあとは、お兄様と私の二人だけ……ふふっ。ねえ、お兄様? 今夜は久しぶりに同じベッドで眠りませんか? 今日はなんだか、お兄様の温もりをより感じたいのです。楠見かなたのような女には決して手に入ることのない、お兄様の優しい抱擁を……」
「舞香は日を跨がないうちに帰るんだぞ。駅まで送っていくから、家に連絡を入れておくように」
「なぜ……?」
きょとんと首を傾げながら、舞香が俺の顔を覗き込んだ。
「親父が心配するだろ。俺の家に泊まるなら猶更」
「で、ですが……私たちは家族でしょう? 何を心配することがあるのですか?」
「家族だから心配なんだよ。母さんが今はいないから、親父も心細いんだ。それに俺みたいに家を出て行った奴についていたら、舞香の印象も悪くなる。……お前が大事なことには変わりないんだよ。分かってくれ」
「そんな……」
まるでこの世の終わりのような表情を浮かべながら、舞香が俯いて言葉を漏らす。
……そこに追撃するようで心苦しいが、重ねて話を続けた。
「それにもう時間も時間だから、予定通りかなたは泊めていくよ」
「な……っ!? なぜですか!? なぜ楠見かなたのような女に、そこまでお兄様が!」
「へへっ。残念だけど、アンタの愛しのお兄様はアタシみたいな方が好みなんだってさ。さっきアタシのことを低俗とかどーとか言ってたけど、それだとお兄様が低俗好きの変態さんってことを自分で認めることになっちゃうよ? お兄様の品格を落とすのは、アタシとアンタのどっちだろうね? 今すぐ訂正した方がいいんじゃない?」
「いや、お前が低俗なのは……他人のことをサイフ扱いしてる時点で……」
「結局アンタはどっちの味方なんだよ! ハシゴ外すんじゃねーよ妹さんのもアタシのも!」
むしろ俺からすれば、かなたも舞香も少なくとも味方ではなかった。
「そんな……! お兄様が私以外の女と同じベッドで一夜を共にするなど……っ!」
「なんでアタシまでコイツと添い寝希望してる前提なんだよ」
「お兄様との添い寝はいらないと? 楠見かなた、貴女はその価値観まで異常なのですか?」
「急に真顔になんないでよ気持ち悪いなあ……。いいよ別に。無理言って押し掛けてるのはこっちだし、アタシは床で寝る。今日取ってきたぬいぐるみでも枕にすれば、何とか寝られるでしょ」
「いや、来客用の布団がある。舞香が勝手に自分で使う用に持ってきたやつだけど」
「え、それ使って良いの? ラッキー。ブラコンも使いようだね」
「よくありませんが!」
ついに堪えきれないといった様子で、舞香は勢いのまま立ち上がった。
「そもそも楠見かなたが私の服を着ていること自体、私は納得できていないのですが!?」
「着替えも無かったんだから仕方ないだろ。脱いだ服もう一回着ろっていうのも、女子には酷だろうし」
「気ぃ利かせてくれるのは嬉しいんだけどねー。でも、こんなとやかく言われるんだったら、アンタの服借りときゃよかったかも。胸のサイズ合ってなくて息苦しいし、妙にやらしいところに穴開いてるし」
「こ、の……! そんな破廉恥な恰好でお兄様を誘惑するなんて、下賤な女……!」
「アンタの服だっつってんだろ」
かなり真っ当なかなたの反論だったが、舞香は当然ながら納得がいっていないようで、ぐぎぎ、と歯を食いしばって彼女のことを睨んでいた。だがそれも一瞬のことで、すぐに俺の方へ視線を向けると、ともすれば初めてかもしれない、叱責めいた口調で続けた。
「お兄様、なぜこのような女を家に招いたのですか!?」
「……まあ、色々あったんだよ」
「色々では納得できません! きちんとした理由を説明してください!」
頬を膨らませながら、舞香が俺をじっと見つめてくる。
……そんなこと言われても、なあ。
ちらりとかなたの方を向いてみると、彼女は俺のことを睨み続けたまま、けれど少しだけ不思議そうな顔で俺の言葉を待っていた。きっと彼女も、やけに簡単に俺がかなたを家に泊めることを承諾したのを、頭の片隅で不思議に思っていたのだろう。それで不安に思っているのなら、かなたのためにもきちんと説明するべきだと思った。
「……何ジロジロ見てんの。言っとくけどアタシはアンタがいいって言ったから……」
「いや。お前のせいにするつもりじゃない。自分で説明する」
頭の中で言葉を組み立ててみると、思っていたよりもすんなりと形になった。
それは多分、俺がかなたに自分のことを少しだけ重ねているからなんだと思う。
「……まず、初めに。これは俺の個人的な判断として聞いてほしい」
「それはアタシに言ってるの? それとも妹さん?」
「二人ともだ。別に間違っていても構わないし、訂正もしなくていい。俺が勘違いしていたってことで聞いてくれればいいし、後で勝手に笑い話にしてくれればいい。俺がやりたくてやったことだから、どう思われてもいい」
少し長くなってしまったかもしれないけれど、そう言葉を置いて改めて舞香へと向き直る。
「舞香」
「はい、お兄様」
「どうして俺が家を出たか分かるか?」
「それは……」
一瞬、舞香は少しだけ悲しそうな顔になった。
そんな表情で言葉を渡させるのも酷だと思ったから、その続きは俺から話した。
「家に帰りたくなかったからだよ。親父は俺のことを嫌ってるだろうし、俺もそんな家に帰るのは窮屈だったんだ。だから、家を出て一人暮らしすることにした。もう二度と片桐の家には関わらない……とまでは言わない。母さんも舞香もいるし。でも、親父がいるうちは戻らない。親父も大変だろうから、邪魔したくないんだ」
「お兄様……」
「だけど、それって別に珍しいことじゃないだろ。家族と顔を合わせたくなくて、家じゃない方が落ち着ける奴なんて、世の中結構いるんだよ。それこそ俺は偶然そういう奴だったし、俺の友達も偶然そういう奴だったくらいには」
「……まさか、楠見かなたもお兄様と同じ境遇だと仰りたいんですか?」
「少なくとも俺にはそう見えた」
かなたは何も話さなかった。ただ、じっと黙ったまま俯くだけ。
だけど俺の言葉を否定しているようには思えなかった。
「俺の思い違いだったら、それでいいんだ。ただ俺が勝手に思い込んだまま恰好をつけようとして、恥を晒しているだけだから。だけど、もし本当にかなたがそういった奴だったとして、誰でもいいから頼りたいと思っていたとしたら……それを見放すような真似はしたくなかった。それは俺自身に対する裏切りだと思ったから」
「だから、楠見かなたをここに招いたのですか?」
「俺には偶然、金も場所もある。家族と離れたい気持ちも、ほんの少しだけなら共感できる。寄り添うことはできないかもしれないけど、少なくとも窮屈な思いはさせないよう努力はできる。だから、かなたを泊めることにした」
勝手な話だということは理解している。問題の根本を解決する方法ではないということも。
ただあの時、もしかなたの言葉を振り払ってしまったら、彼女がどこかに行ってしまいそうだった。
俺はそうなってほしくなかった。上手く言語化できないけど、それはなんだか嫌だった。
なんて思えるくらいには、俺もかなたのことを気にかけているらしかった。
「……勝手だよね、ホント」
今まで黙っていたかなたが、そうやって言葉を落とす。
「アンタの変な思い込みで親近感抱かれて、アタシは今アンタに憐れまれてるってことでしょ? ……何だよそれ。ただ、アンタの自己満足を押し付けられてるだけじゃん。アンタにとって、アタシはそこまで惨めな奴に見えたってこと? 助けないと、って思われるほどアタシってかわいそうなヤツだったの?」
「そこまで言うつもりはない。だけど、助けたいとは思った。力になりたいとも」
「……そういうのを上から目線って言うんだよ、バカ」
何も言い返せなかった。傲慢で独りよがりな言葉だということは、理解していたから。
だけど今伝えた言葉の全ては俺の本心だったし、そこに後悔はなかった。
「違うなら違うでいいんだ。否定するために本当のことを言わなくてもいい。ただ俺が間違っていただけで済むなら、それに越したことは無い。こんな俺に愛想が尽きたなら、帰っても構わない。……駅までは送るから」
「……いいよ、別に。今更帰るのも面倒だし。今日はアンタのとこ、泊まってく」
「なら、よかった」
「ま、そこのブラコンお嬢様が許すならの話だけど」
そうやって言葉を渡された舞香は一度、小さく息を吐いてから。
「今日は帰ります」
「……は?」
困惑する俺をよそに、立ち上がって帰る準備を始めた。
「楠見かなた」
「……何」
「私はあなたのことを認めたわけではありません。下賤で、低俗で、お兄様には決して相応しくない女……。ですが、そんな貴女を助けたいと思ったお兄様の意見を、私は尊重します。拠り所のないあなたを家に上げたお兄様に感謝し、せめて家事の手伝いくらいはしてお兄様の厚意に報いることですね」
「アンタまでアタシのこと見下すつもり?」
「今更でしょう?」
「……ははっ、そーだね。それもそっか」
初めて、舞香の言葉にかなたが笑みを零した。
「私はあなたのご家庭の事情など知りませんし、知りたくもありません。ですがたった今、私はお兄様から貴女のことをそのように聞きました。であればそれが今現在、私が知る楠見かなたの全てです」
「あっそ。勝手に決めつけるところはお兄様そっくりだね」
「……何とでも言いなさい」
不満そうに舞香は応えたが、それ以上かなたに言葉を浴びせることはしなかった。
やがて身支度、といっても荷物を纏めるだけの簡単な作業をして、舞香が俺に向き直る。
「では私はこれで。お兄様、また近いうちにお会いできるのを楽しみにしておりますね」
「いや、駅まで送るよ。時間も遅いから、何かあったら大変だし」
「いいえ、結構です。少し離れた場所に家の車を待たせているので、問題はありません」
「え、今までずっと……? 運転手さんにちゃんとありがとうって言いなよ……?」
「もちろんです。では、失礼いたしますね」
恭しく一礼をしてから、舞香は玄関から出て行った。
扉の閉じる音が鳴った後、しばらく俺とかなたとの間に沈黙が流れる。
……あんな話をしておいて何だが、やっぱり気まずいものは気まずいもので。
どんな言葉で切り出そうかと迷っている俺よりも先に、彼女が口を開いた。
「……お皿、どうする? アタシ洗おうか?」
「え? ああ……なら、頼んでもいいか? 俺は布団出してくるから……」
「ん、わかった」
短く答えてからかなたが食器を片付けて、洗い物を始める。
水道から流れる水と食器の重なる甲高い音を背中で聞きながら、俺はテーブルを片付け始めた。
■
「妹さん、帰らせて本当によかったの?」
電気を消してしばらくすると、ふとかなたからそんな言葉を渡された。
振り返ると、床に敷いた布団から携帯の明かりが漏れているのが見える。
「お前だってそのつもりだっただろ」
「でも、あんな悲しい顔させるつもりなんてなかった」
「そうでもしないと聞かないんだよ、舞香は」
「……ワガママなヤツ。誰に似たんだろうね?」
面白く無さそうにかなたが言った。
「ねえ」
「……何だ」
「アンタはさ、アタシにどうなってほしいわけ?」
「どう、って……それを決めるのはお前だろ。俺が口出しすることじゃない」
「だけど、助けたつもりならそれ相応の責任ってのがあるんじゃないの?」
「それは……」
言葉に詰まる。
この方法が本当に正しかったのかと言われると、それを肯定できる自信はない。
だけど、それが間違っているとも思えなかった。少なくともあの時、かなたを助けられるのは俺しかいないと思ったから。それからのことは何も考えていなかったし、彼女を通して何か崇拝的な理想があったわけでもない。
俺はただ、彼女に自分と同じ気持ちを味わってほしくなかっただけだ。
「面倒なヤツ」
「すまない」
「でも、アンタのそういうとこは嫌いじゃないかも」
「……なら、よかった」
漏れていた携帯の明かりが消える。少しの衣擦れの音があった後、またかなたが話を始めた。
「ま、助かったのはホントだよ。こんなにゆっくり寝られるの、久しぶりだもん」
「そうなのか?」
「うん。いつも家は騒がしかったから。夜遅くまでリビングの電気はついてるし、自分の部屋で寝ようとしても隣の部屋でうるさくされるし。……賑やかなんだよ、ウチは。帰りたくないと思えるくらいに」
「……そうか」
「でも、今日は静かに寝られそう。怒鳴り声もモノ投げる音も、母さんの変な声も聞こえてこない……」
それ以上のことをかなたは話さなかった。俺も、それ以上のことを聞くつもりはなかった。
やがて身じろぎをする音が聞こえたけれど、すぐにそれは収まる。
他に音もないせいで、彼女が息づかいが鮮明に聞こえた。
「ね、まだ起きてる?」
「ああ」
「……あの、さ。そーまって、アタシのことどう思ってるの?」
「どういう意味だ」
「答えてよ」
しばらく考えると、自ずと答えが口から漏れた。
「俺と同じか、あるいは俺よりも窮屈な思いをしてる奴……だな。また上から目線ってお前は言うかもしれないけど、だからお前の力になるべきだと思った。お前の気持ちにも、少しだけなら共感できると思うから」
「ふーん……」
「だけどさっきも言った通り、これは俺の勝手な想像だよ。お前に俺の勘違いを押し付けているだけかもしれない。でも、お前を見放して後悔するくらいなら、勘違いしたまま後で恥をかいた方がずっとマシだ」
「これだけ話しておいて、まだ勘違いで済ませる気?」
ともすればかなたは、今までの中で一番、真面目な調子で話しているかもしれなかった。
「アンタはさ、もっとアタシのこと知りたいって思わないの?」
「知りたくないわけじゃない。だけど、話させるのも違うと思う」
「家に連れ込んでおいて、こうやって同じ部屋で一緒に寝てるのに、まだアタシから信頼されてないとか思ってるワケ? 自分で言うのも何だけど、アタシがこんなに誰かのこと信頼するのアンタくらいしかいないし、もしかするとアンタが初めてかもしれないのに」
「そうやって言われるのは、嬉しい……けど」
「けど、何」
しばらくの間があってから、俺は一つ一つ丁寧にかなたへ言葉を渡した。
「お前のことはもっと知りたいよ。何が好きで、何が嫌いかとか、俺は何も知らないから。でも、だからって自分から踏み込むのは違う気がする。……強制したくないんだよ。今日だってそうだ。お前に貸しを作りたいから泊めたわけじゃない。信頼されるためにお前を助けたわけじゃないんだよ、俺は」
「……そんな打算的な自分がイヤだから?」
「それもあるかもしれないな。だけど一番は、お前に窮屈な思いをさせたくないからだ。俺と同じ思いをしてほしくない。それが俺にできることだし、それくらいしか俺にはできないから」
かなたからの返答はなかった。
だけどそれは諦めではなく、俺からの言葉を待っている沈黙に思えた。
それなら、俺は。
「……だけど、もし」
「もし?」
「もしもお前が俺のことを信頼してくれて、お前のことを知りたい、っていう俺の言葉を覚えててくれるなら……お前の好きな時に、自分で思いついたことを適当に話してくれればそれでいい。会話の間を持たせるためでも、何でもいいから。そうやって会話を重ねていくうちに、お前のことが知れたら、それでいい」
「あっそ。もういいよ」
少しの衣擦れの音がして、かなたが俺に背中を向けたことがわかった。
「愛想が尽きたか?」
「……だったらこうしてアンタの隣で寝てない」
「そうか」
呆れたような、小さく息を吐く音が聞こえる。
それから少ししたあとに、かなたがまた。
「……アンタってさ、もしかしてアタシのこと相当好きでしょ?」
「どうだろうな。居心地は悪くないし、話して新鮮な気持ちにはなる」
「そっか。……ふふっ。それならいいや」
会話はそこで終わって、かなたの息遣いが聞こえてくるだけになる。
しばらく経たないうちに、俺の意識も沈んでいった。
■
窓から差し込んでくる朝の陽ざしに照らされて、自然と目が覚める。
「やっと起きた」
体を起こすと、既に目を覚ましていたかなたは、しかし布団には横たわったままで携帯を触っていた。ぼんやりとした頭で彼女のことを見つめていると、すぐに彼女が立ち上がって、俺に手を差し出してきた。
起き抜けの頭ではその意図がまだ分からなくて、差し出された手に自分の手を置いてみる。
「お手じゃねーよ」
「痛……」
頬を軽く叩かれて、ようやく意識がはっきりしてくる。
「アタシ、もう帰るから。電車賃寄越せって言ってんの」
「朝っぱらからそれなのか、お前……。というか、朝食は?」
「駅前にコンビニあったでしょ? あそこで何か買うから、その分のお金もちょうだい」
「……お前なあ」
「アタシのこと助けてやる、って言ったのはアンタでしょ。ほら、アタシが餓死したらどーすんの」
そう言われると俺は、何も言い返せなかった。
かなたが差し出した手に一万円札を置くと、彼女は満足そうにそれをポケットへ詰め込んだ。
「……顔、洗ってくる」
「どうぞー」
俺の家なんだけどな、ここ。
戻ると、かなたは既に昨日取ったぬいぐるみを纏めて、ここを出る準備を終えていた。
「駅まで、送っていく」
「いいよ別に、一人で帰る。そこまでさせる気はないし」
「いや、ついでに俺もコンビニで飲み物買うから。それならお前も借りだとは思わないだろ」
「……アンタって、ホント自分勝手だね」
そんな会話を交わしてから、俺たちは家を出た。
駅前のコンビニに着くまでそこまで時間はかからなかった。今住んでいる家は駅からが近いが、駅に乗ってから都心までが遠い。日や時間によっては電車に座れなくて車内での時間が億劫に感じることもあるが、それでもこのあたりは治安もいいし静かな町なので、選んで正解だと思えた。
店内に入ると、かなたがカゴを取って真っ先にパン売り場のほうへと向かっていく。
「アタシ、朝はパン派だから」
メロンパンをカゴに放り入れたかなたが、そんな風に話した。
「……?」
「だから、アタシ朝はパン派」
「ああ、そうか。……いや、別に買うもの制限するつもりはないけど、なんで、急に」
「アタシのこともっと知りたいって言ったのはアンタでしょ」
それはまあ、そうだけど。
……でも、そうだな。覚えていてくれたなら、嬉しい。
「で、アンタの飲み物は? 会計一緒にしてあげる」
「俺の金だろ……。あの、あれだ。いわゆる普通のイチゴ牛乳。てかイチゴのやつならなんでも」
「……アンタってさ、意外と甘党だよね?」
「ダメか?」
「別にそうは言ってないじゃん」
個人でもよく買うやわらかいペットボトルのイチゴ牛乳を、かなたの持っているカゴに入れる。
セルフレジで会計を終わらせてから電車の時間を確認すると、電車はもうすぐ到着するみたいだった。
そのことを教えようとかなたに振り返ると、彼女は既にメロンパンの包装を開けていて。
「……そろそろ電車来るぞ」
「は? ちょっ、もっと早く言えって! あー、えっと、そのー……!」
「挨拶とか礼はいいから、とりあえず乗り遅れる前に行ってこい」
「そーする! じゃ、またね、そーま!」
「ああ」
駅に向かって走り出すかなたに手を振ってから、俺も来た道を戻った。
途中で理由作りのために買ったイチゴ牛乳を開けたところで、携帯が震える。
画面にはかなたからのメッセージが表示されていた。
『そーま』
『昨日はありがとね。助かったわ』
返信のために足を止めたところで、続けざまにメッセージが送られた。
『妹さんにも服と布団のこと、ありがとうって伝えといて』
『それと今度は借りて面倒なことにならないよう、ちゃんと自分の持ってくから』
『もしくはアンタが適当に買っといて』
いつも通りの調子で俺をこき使おうとする彼女に、今は少しだけ安心する気持ちがあった。
『俺に服選びのセンスなんてないぞ』
『なんでもいいよ。エッチな奴じゃなかったらアンタの好きなヤツ着てあげる』
『ジャージでいいか?』
『意気地なし』
『じゃあ、今度服選びに行くか』
『アリ』
なんて次の集まりの予定が流れで決まったところで、ふと。
『というか、また泊まりに来るつもりなんだな』
『ダメ?』
『別にいいけど……もしかして俺、お前に溜まり場を提供することになったか?』
『ぬいぐるみ置く場所確保しとけよ~』
なんてメッセージのあとに、また例の指を指してくる猫のスタンプが送られてくる。
そうして会話も終わって、開けたイチゴ牛乳を一口飲んだところで、ようやく気が付いた。
『お前、制服うちに干したままじゃないか?』
『あ』
……月曜日、舞香に持っていかせよう。
■