ゲヘナの愛する裁判長 作:このアカウントは削除されました
権利とは?
その言葉で何を連想するだろうか。
生まれながらに保証される人権。認められる代わりに背負わされる義務。よく分からない難しい哲学的問い。そして、それらは法律に記載されているような気がする。
権利と義務は不可分である。権利を保障してもらうには義務を課され、義務を強いるなら権利を主張できる。
しかし、その発生起源は異なる。
義務は、分野によって意味が異なる。宗教的・道徳的・法律的。ここでは専ら〝法律〟に限って説明しよう。
義務は国家治安上の要請に基づく。こう説明すると納得する者もいれば物足りない者もいる。事実、義務は権利のためにあるとも理解できる。公共の福祉。
公共の福祉とは、国家という集団ゆえの要請だ。例えば、〝知る権利〟というのがある。『誰かの邪魔なく知りたいことを何事も知ることができる権利』。しかし、同時に〝プライバシーの権利〟もある。『何事も自分のことを知られないでいる権利』。集団である限り〈知る権利〉と〈プライバシー権〉は矛盾することになる。どちらかが他者の権利を侵害してしまうからだ。
なら『権利』というものを制限するしかない。それが義務となる。
つまり〈義務〉とは、〈国家〉という母体に〈権利〉という種を蒔いた結果の子である。
本題に戻ろう。
権利と義務は親子関係である。義務は権利から産まれた。ならば、権利は何から産まれた?
イェーリング著『権利のための闘争』抜粋。
「世界中の
ドイツ語〝Recht〟は、〈権利〉と〈法〉を同時に示す。【権利】は主観的〈Recht〉であり、客観的〈Recht〉は【法】。
主観的ということは、個々人で違うということ。農民の権利感覚と軍人の権利感覚は異なる。具体的なそれらを纏めて一般化したのが【法】と言える。〈法〉もまた〈権利〉の子なのだ。そして、その〈権利〉は、個々人が闘い抜いた結果、国家共同体が手にしたものだ。
そう、〈権利〉とは先人達が闘い勝ち取って、万人に認められるようになったものだ。
その結果は、人権宣言に見られる。
世界人権宣言第一条。
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」
そう、人は、生まれながらにして自由。自由権を持つ。
さらに、ここで再び『権利のための闘争』から引用しよう。
「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」
自由は権利。ヒナちゃんが権利侵害を告訴しないのはなぜか? 簡単だ。激務と義務感による麻痺で正常な判断ができていないのだ。そう考察した。これは負のスパイラルで、そのままどんどんと激務へと追いやられていく。
私はそんなヒナちゃんを見たくない。やはりゲヘナを変えなければならない。原作を改変しても、世界が滅亡しなければいいのだ。ヒナちゃんの幸せこそ私の幸せ。だから、原作改変こそ救済の道。
なのに、なのに……どうしてこうなっているのだ……。
「癒やしが欲しい……」
ぽつりと言う。書記官兼調査官が顔を上げる。目が合う。彼女は何事もなかったかのように視線を落とす。無視して書類仕事へ戻ってしまう。
「癒やしが欲しい」
「……」
「癒やしが欲しい」
「あ、これ反応しないと繰り返すやつだ」
「癒やしが欲しい」
書記官が嫌そうに顔を上げる。
「で? そんな格好で癒やしが欲しいって言われても説得力がないですよ?」
「そんな格好ってどんなだ?」
「風紀委員長の顔写真がプリントされた毛布に包まり、風紀委員長の抱き枕を抱え、風紀委員長の香りがする敷布団に顔を埋め、風紀委員長の声を録音した音源をイヤフォンで聴き、風紀委員長LOVEのパジャマを着て、壁には風紀委員長の写真が一杯の、格好です」
法務執行部部長の執務室である。裁判所長官室。ヒナちゃんがプリントされたマグカップもあるし、デフォルメされたアクリルキーフォルダーもある。書記官の言う通り、机の前にはヒナちゃんLOVEの布団が敷かれている。ヒナちゃんの抱き枕はオモテウラあり。
「どうだ? 羨ましかろう」
「いえ、決して」
一応言うが、盗撮はしていない。許可を貰って撮った写真。それを加工してプリントしている。匂いだって、ヒナ吸いした時の嗅覚を頼りに再現しただけ。声もバイノーラルで環境も整備して録音して貰ったやつだ。不許可の売買は行っていない。自分で用意して、自分で使用している。法には触れていない。ヒナちゃんはこの部屋を知らないだろうが……。
「というか仕事して下さい」
「布団から出たくない」
「じゃあ寝ながらでもいいので判子でも押して下さい。…………ここに書類置きましたから」
書記官が布団の前に書類の束を置く。嫌々ながら一番上の書類を手に取る。
午前中にあったヒナちゃんと万魔殿の裁判。その訴状と答弁書を見比べる。
きっかけはいつも万魔殿。特に議長の羽沼マコト。その思いつき。どこから取り寄せた情報かは知らないが、ヒナちゃんの労働状況を見て訴訟を起こしている。マコトの主張は以下。
〈風紀委員会は万魔殿の下部組織だ。その組織で違法労働が行われていては万魔殿の評判に傷がつく。よって、名誉毀損で訴える! キッキッキッキッ!〉
謂わばただの嫌がらせ。当然だがこんなことで訴えられるほど司法は甘くない。届けられた時点で却下できる。こちらも嫌がらせに付き合うほど暇でもない。そもそも【風紀委員会】が【
そこで、万魔殿は一計を講じる。と言っても、そのまま違法労働で訴えるだけだが。〈組織の長が違法労働を容認しているということは、風紀委員会そのものが違法労働の巣窟なのではないか?〉。それが万魔殿が最終的に考え出した訴状。マコトに助言したものの存在が見え隠れする。誰かは知らないが余計なことを。
対して、風紀委員会もとい長である風紀委員長・空崎ヒナちゃんは、〈そもそも風紀委員長が違法労働をした事実はない〉として否定している。答弁書はおそらくヨコチチハミデヤンが書いたのだろう。ヒナちゃんの文体ではない。
総じて、今回の争点は〈風紀委員長が違法労働しているかどうか〉。他組織の万魔殿がヒナちゃんの違法労働の有無を争っている。時間外労働。
普通、違法労働の訴訟は違法労働を強いられている側が違法労働を強いてる側へ訴える形が多い。本人じゃなくても仲間が慮って代わりにする。あるいは本人が病気で家族が訴える。ゲヘナでは今までそれらしかなかった。しかし、今回例外ができてしまった。
ここで現在のゲヘナ学園における政治状況を説明しよう。
ゲヘナは三権分立制を導入している。行政府であり軍事を司る風紀委員会。立法府たる議会を内包する学園代表組織の
政治制度は、議院内閣制。風紀委員会は万魔殿の信任で成り立っている。そこを勝手に「下部組織」と呼ぶのは間違っている。万魔殿の議会に風紀委員会不信任決議権があるように、風紀委員会も万魔殿内にある議会の解散権がある。下部組織とは言えないだろう。
とはいえ、万魔殿はゲヘナの生徒会。ゲヘナのトップ組織であり、生徒会長である議長は学校の代表者と代わりない。キヴォトスの『学校』は前世で言う〈国家〉。言うなれば『議長』は〈国家元首〉である。
ここまで説明して疑問に思われた方もいるだろう。立法府である万魔殿と行政府である風紀委員会は仲が悪い。これは原作通り。しかし、前世の議院内閣制ではなかなかない状況。決して一般的なねじれ国会とかそういうものではない。信任された内閣成立後の選挙で野党が圧勝したという訳でもない。現状の万魔殿にはマコトの勢力が過半数以上と少数の野党と無所属が在籍している。
今の状況の理由。誤解を恐れずに前世の用語で喩えると、軍事国家。
民主主義であるのだが、ゲヘナ学生は政治に興味がない。投票率が低い。自ずと議会は民意を反映していない。このままでは独裁者を生む。事実、誕生した歴史がある。
その反省が議会内でもある。マコトを議長に、ヒナちゃんを風紀委員長にして、行政と立法の均衡を保とうとしている。それが今の空崎ヒナちゃん政権が成立している背景。
時々、マコトの嫌がらせにヒナちゃんが武力行使をする。ゲヘナあるいはキヴォトスでは日常茶飯事。あまり気にしてはならない。そもそも武力行使で議長を黙らせることができるため、風紀委員長に選ばれたとも言える。不良どもへの牽制にもなる。議会で承認された予算の7割が治安維持に使われる。
また、キヴォトスの常識と前世の常識は異なっている。
キヴォトスでは銃は一般に流通している。前世某国よりも日常に位置する。更に身体の頑丈さ。銃弾一発爆弾一個くらいでは外傷なし。人によるが所感、怪我をしても治癒速度が前世の2~10倍以上。死者蘇生もあり得る。いや、流石に冗談だが。……冗談であってくれ。
射撃場も出入り制限している所は見たことがない。つまり、キヴォトス人の戦闘能力は139くらい。下手すると前世の一個師団を一人で楽勝に壊滅させることができる。もちろん補給があればの話。
閑話休題。
そんな訳で、万魔殿は立法府。正確には万魔殿内の議会に立法権がある。
立法府は最終的な予算決定権を持つ。風紀委員会の予算案を尽く却下する(ここはマコトを尊重して議論される)。そして、万魔殿で勝手に作成した予算案を議会に通して可決(しかし、不信任決議案は却下する。これはヒナちゃんを風紀委員長の座に置くため)。権力均衡を維持する努力が垣間見える。
その他、ちまちまとした書類仕事を増やす法律や余計な行動を取らせる騒動。特に法律に関しては風紀委員会にとって面倒事。一度施行された法案を無効にする手続きは、法務執行部を介して行われるようになっている。手順は、立法府に対して訴訟し、違憲審査を法務執行部に請求する。さらに面倒臭いことに現在の法務執行部では最終法廷のみしか違憲立法審査権を行使できない。つまり、三審制を導入しているゲヘナでは、少なくとも3ヶ月かかる。その間、その法律は有効。ままならない。
ヒナちゃんの負担を減らすために創り上げてきた法務執行部が逆にマコトに利用されて、ヒナちゃんを妨害している。その事実が重くのしかかる。
今回の訴訟へ話を戻そう。
つまり、風紀委員会の仕事量は万魔殿が増やしており、ヒナちゃんが時間外労働を秘密裏に行っていたのは万魔殿に原因がある。わかりやすく言えば、違法労働を強いてる側が違法労働を強いられている側へ違法労働の件で訴えているのだ。常識的に考えて異常な事態である。個人的な感想を言わせてもらうと、普通逆でしょ。
理不尽な訴訟。却下できなかったのか。
却下したかった。しかし、問題は風紀委員会にあった。
答弁書を見る。ヒナちゃんの、というかヨコチチハミデヤンの意見が書かれていた。答弁書としてはちゃんとしたものが書かれている。原告よりまともだ。しかし、反証としては弱い。証拠は行政官であるヨコチチハミデヤンの証言だけ。タイムテーブルがあるのならば決定的証拠となるのに提出しなかった。これはヒナちゃんが答弁書を書いていないと判断した材料であり、きな臭さを感じる要因だ。
つまり、ヨコチチハミデヤンは隠したい事実があるのだ。それがヒナちゃんの違法労働だけでないのは確かだ。あの行政官がヒナちゃんの意見を聴く前に答弁書を書いたのだ。違和感がある。ヒナちゃんなら「違法労働がなかった」と主張するのではなく、『違法労働の原因は万魔殿にある』とするだろう。いや、それもヒナちゃんらしくない。どちらかというと、法廷に姿を現さなかっただろう。何もせず出席しない。訴訟の内容的には賠償金だけで済む。ヒナちゃんは風紀委員長だから給料も多い。賠償金くらい払った方が時間を無駄にせずに済むと考えるはず。民事裁判自体に面倒臭さを感じているのだろう。そう考えると、今回ヒナちゃんが法廷に現れたのは意外だった。おそらくだが、ヨコチチハミデヤンの違和感に気が付いたのだろう。仕事を増やすな。
だいたい、風紀委員会は弛んでいる。ヨコチチハミデヤンとかイオリとかチナツとかは優秀だが、他の委員はヒナちゃんに負んぶに抱っこ状態。普通の不良なら対等に戦えるのだろうが、ここはゲヘナ。普通が少ない。それも要因でヒナちゃんが激務に晒されている。ヨコチチハミデヤンが好き勝手してもバレないくらいに。
補足だが、風紀委員会及び所属する風紀委員には時間外労働が認められている。バンバンしてもらって構わない。しかし、条件がある。戦闘はOK、事務はNG。よって、今回の訴訟における労働の定義は、事務作業にあたる。
「裁判長。風紀委員会からタイムテーブルがメールで届きました」
書記官がパソコンを持ってこちらに来る。頷いて受け取る。礼を言ってから添付ファイルを開く。ファイルは複数ある。全て開いて並べて比較できるようにする。確認したいような確認したくないような。
「さてと、鬼が出るか蛇が出るか…………」
「そんなただのタイムテーブルですよね?」
「そうして油断していると、刺されるぞ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
確認すると、頭の中が真っ白になった。終わった。
「どうかしましたか?」
「……………………………………見ろ」
書記官が覗く。しばらくして読んでいると彼女の目が点になる。
「えっと…………事務作業が8時間に収まっていますね」
「恐ろしいことに平均ジャスト8時間」
「出勤が朝の5時。退勤が夜の28時……ほとんど戦闘ですね」
「最悪なのはその一日だけしかなくてな。他の日は退勤から次の出勤まで3分切っているんだよ。カップ麺すら作れない」
「休日は…………事務作業はせず、犯罪者の取り締まり…………。ワーカーホリックですね」
「頑丈なキヴォトス人とて、これは過労死する」
「でも、一応、被告側が裁判で勝てる内容ですね。事務作業は時間内、目立つのは戦闘ばかり。ですよね、裁判長」
「よく見ろ、ここ。一部修正されているのが判る。ほら、前の時間と矛盾が生じているだろ? こちらの資料には戦闘開始と戦闘終了が書かれている。体力測定で計ったヒナちゃんのタイムは車よりも速い。しかし、体力測定で手抜きしたとして移動時間を見ても書類作業の時間と被っている。こんな短時間でこの移動は無理だ。おそらく書類作業を少し前にズラして定時までに終わらせているように見せているんだ。最悪全ての事務作業時間がオーバーしている可能性も出てきた…………」
「え……ホントだ。つまり、証拠改竄ですか?」
もう涙なしでは語れない。これは見逃すべきか、それとも裁判官として責務を実行すべきか。何が正しいかは判っている。判っているが、胃が痛い。
「もうヤダ…………」
窓の隙間から吹き込む春風。冷たい硫黄の慣れた香り。幼稚園の頃見た疲れのない無邪気な笑顔。それを再び見られる日は来るのだろうか?
これにて、プロローグ、閉廷
作者は『権利のための闘争』を読みましたが、半分も理解しておりません
ご了承ください