それでも青は色褪せず ~Wrath of Set~   作:白桐

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「――まあ、あんまりいい噂は聞かねえなぁ」

 

 

 酒屋の主人である犬の獣人の市民から返って来た言葉は、あまり良い内容とは言えなかった。

 

 ――D.U.区内外郭地区、【シャーレ】オフィスビル付近にて。

 

 "私"は情報提供をしてくれた店主に感謝をし、いくつかの酒缶を購入して店を出た。

日はすでに傾き、頭上の茜色は昏い群青へと変わろうとしていた。

 

 学園都市キヴォトスでは学生主体の街と言うこともあり、当然ながら煙草や酒類の規制は厳しい。

故にコンビニでの販売は禁止され、行政から認可の下りた専門店にて取り扱われる。

幸いにして"私"自身はそういった嗜好品に依存せず、付き合いの際にしか口にすることはないため、そこまで困ったことにはなっていなかった。

 

 "私"は芳しくない情報収集の結果に苦笑を零しつつ、

ひとまずシャーレの執務室へと戻るべくその歩道を歩き始めた。

 

 アビドスでの問題が思いの外長期化するだろうと判断した"私"は、

身支度を整える為に一度シャーレに戻ることを決めた。

そのついでにアビドス以外から送られてきた嘆願書に関係した情報収集を行っているわけなのだが、やはりアビドス以外もなかなか根深い問題を抱えているということだけは分かった。

 

 

「……何してるんですか、先生」

 

 

 そんな時、ふと声を掛けられる。

"私"がそちらへと振り返れば、そこには昏い長身のシルエットが立っていた。

顔は見えない――そう言えば、黄昏の語源の一説に「誰そ彼?」というものがあるんだったか。

そんな暢気なことを思いながらも、"私"はその低く抑揚のない声を聞いてすぐに誰なのかを把握した。

 

 

「こんにちは、アキ。いや、もうこんばんはの時間かな?」

 

「そうですね」

 

 

 影の人型が一歩前に出ると、ようやくその顔の全容が明らかとなる。

先日出会った時のように切れ長の目は強い威圧感を与え、

そんな警戒心に満ちた強張った表情でこちらを見る梔子アキの姿がそこにあった。

 

 

「もしかして仕事の帰りだったりする?」

 

「ええ、まあそんなところです」

 

「あ、そうなんだ。ちなみに何のバイトしてたの?」

 

「……誘導尋問とか手慣れてます?」

 

「いや、そういうつもりはないよ。ただ興味があるだけで」

 

 

 そう言って笑えば、やはり不機嫌そうに彼女は表情を歪めた。

あまり良く思われていないのは分かっていたが、これはなかなかに手強い。

警戒心を解くために気安い感じの会話の切り口を用意したわけだが、少々突拍子がなさ過ぎたかと"私"は反省する。

 

 しかも次の瞬間、彼女はこちらへと大股で歩いてきた。

そしてそのままの勢いで"私"のネクタイを掴むと、乱暴に自身の下へと引き寄せたものだから驚いてしまう。

結果として私は彼女の肩口へと顔をぶつけそうになり――。

 

 

「狙われてますよ、先生」

 

 

 周囲の音が消える――まさに空気が一瞬で冷え込むようなあの感覚と共に"私"は目を見開いた。

耳元で告げられたその情報に身動き一つ取れなくなったこの姿は、

目の前の少女の姿と併せれば恫喝されているように見えるかもしれない。

 

 しかし現実はその真逆であった。

 

 

「先生の後ろにある酒屋の建物の影に一人。向かいの雑居ビルの屋上に狙撃手(スナイパー)が一人」

 

「……なんとか出来る?」

 

「問題ありません」

 

 

 "私"がそう問えば、アキは短くそう答えた。

 

 

「合図をしたらシャーレに全力で走ってください」

 

「分かった」

 

 

 了解を示せば、彼女は右太ももにあるレッグホルスターから静かに拳銃を引き抜いた。

その銃口を"私"の体に沿うようにしてゆっくりと構え――。

 

 

「――今!」

 

 

 瞬間、彼女は"私"と立ち位置を入れ替えるようにして前に飛び出ると同時に、"私"の背を強く押した。

その勢いに"私"は今度こそ転倒しそうになるが、それも何とか堪えてシャーレの入口へと駆け出した。

そしてそれと同時に背後から拳銃の銃声が数発響き、男の呻き声のような短い悲鳴が響く。

 

 ――状況を確認したいが、背後を振り返る余裕などない。

 

 

「頭下げて!」

 

 

 ――刹那、甲高い銃声。

 

 それは恐らく狙撃銃によるものだろう。

しかし自身の体に痛みや衝撃の類は感じなかった。

 

 気が付けばアキが自身と並走しており、向かいのビルと"私"を隔てる盾の役割に徹していた。

自身に被害はない――もしかするとアキが銃弾をその身を以て防いでくれたのかもしれない。

そう思うと自身よりも彼女への心配が勝るのだが、それを思うとほぼ同時に腰を強く掴まれて体が浮く。

そして次の瞬間、景色が加速するように流れ、気が付けばシャーレの自動ドア前に"私"は放り投げられていた。

 

 

「早く入って!」

 

「っ、ありがとう!」

 

 

 自動ドアが開くと同時に、"私"は転がるようにしてロビーへと飛び込む。

そのまま素早く受付カウンターの影に隠れると、しばらくして耳をつんざくような重い金属音が響き渡った。

それは恐らくアキの持つ狙撃銃の銃声だろう。

 

 しばらく"私"が物陰で待機していると、自動ドアが開く音と共に足音が近づいてきた。

 

 

「もう大丈夫ですよ。まさかシャーレにまで突撃してくるなんてことはないでしょうし」

 

 

 物陰から立ち上がれば、アキが愛銃である狙撃銃の銃口を下に向けて構えたままやって来た。

 

 

「今のは?」

 

「……派手に動きすぎです」

 

 

 不機嫌さと苛立ちを隠すことなく、はっきりと彼女はそう言った。

 

 

「とりあえず連邦生徒会には連絡して下さい。所属不明の組織に襲われているって」

 

「やっぱりそうしなきゃダメかな……?」

 

「下手すれば誘拐されてましたよ」

 

 

 狙撃銃に装着したスリングを肩に引っ提げながら険しい表情でそう言う彼女に、

"私"は逆らうことなど出来なかった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 結果、"私"とアキはそのままシャーレに宿泊することとなった。

"私"は普段から大量にやってくる業務の関係上、寝泊りすることに抵抗はない。

むしろここを第二の住居とすら思っている。

 

 その点、アキが"私"の為に時間を浪費することになった点は、非常に申し訳ないことをしたと反省せざるを得ない。

しかし彼女曰く、アビドスにある自宅に戻る手間が省けて助かる――とのこと。

むしろ彼女が不満に思っているのは、ヘイローのない脆弱な存在である"私"が一人で歩き回っていたということだった。

 

 特にそれはシャーレの執務室を見た際のことである。

一段落ついて仕事をしようととした際に彼女も部屋を見る訳なのだが、

部屋の一部がガラス張りであることは特に彼女の逆鱗に触れたらしい。

「狙撃されたらどうするんですか」と言い寄られた"私"は、予備で使っていたノートPCだけを回収して窓のない別室で仕事をすることになった。

 

 その際、呆れと苛立ちを表情に浮かべていたアキだったが――もしかすると意外と心配性なのかもしれないと"私"は思った。

しかしそれを口にすれば「アビドスでやらなきゃいけないことがあるでしょ」と、苛立ったように言われる。

対策委員会の面々をことを想ってのことなのだろう。やはり彼女はとても優しいなと"私"は思った。

 

 

『――なるほど、事情は把握しました』

 

 

 電話の相手――七神リンに先ほどの事情を話すと、返ってきたのは相変わらず事務的な感情のない返事だった。

"私"がその相変わらずの淡白さにくつくつと苦笑する。

首席行政官兼連邦生徒会長代理という立場故に常に気を張っているが、その実は年相応の少女と変わらないことを"私"は知っていた。

リンちゃんと呼べば「誰がリンちゃんですか」と不機嫌そうにしながらもちゃんと返してくれる。意外とノリも良い。

 

 

『先生、危ないことをするのなら、せめて生徒の一人くらいは付き添わせておいてください』

 

「シャーレの部員は随時募集してるけど、なかなか集まらなくてね……」

 

『……とにかくヴァルキューレに周辺のパトロールをさせます。

明日の朝、そのままアビドスに行かれるのですよね? であれば護衛を付けます』

 

「あ、それなら大丈夫。アビドスの子が助けてくれたから、そのまま同行してもらう。すっごい強い子だから大丈夫」

 

『……梔子アキですか』

 

 

 まさか彼女の口からその名前が出るとは思わなかったと言うのが"私"の本音であった。

「よく分かったね」と少し驚く"私"に、リンは言葉を続ける。

 

 

『アビドスですごい強いと言えば彼女ですから……であれば、明日の護衛は彼女に任せます。

私の名前を出せば"快く"引き受けてくれるはずです』

 

「ありがとう」

 

 

 通話を終えて、"私"はスマートフォンをデスクに置くとアキへと視線を移す。

彼女は長机の上で愛銃の分解整備をしていたが、その作業を止めてこちらを見ていた。

 

 

「七神リン、ですか?」

 

「うん、そうだよ。それと明日、リンちゃんがアビドスまでの護衛をアキに任せたいって言ってたけど……大丈夫?」

 

「……あれの頼みなら仕方ありませんね」

 

 

 しかしその言葉とは裏腹に、アキの表情はどこか硬い。

 

 

「知り合い?」

 

「……顔見知りなだけです」

 

 

 アキの顔が広いと言うのは理解しているつもりだったが、

どうやら予想していた範囲よりもそれが広いと言うのがここで分かった。

アビドスの外で仕事を獲得するために、方々の勢力とコネクションを結んできたのは伊達に上級生ではないと言うことか。

 

 だがその表情から察するに、あまり良い関係ではなさそうだが。

 

 

「そう言えばご飯は食べた?」

 

「食べた後に先生と会ったんですよ。と言うか――」

 

 

 切れ長の鋭い彼女の目が、睨むようにして"私"へと向けられる。

 

 

「――なんで"カイザーコーポレーション"を調べていたんですか?」

 

 

 それは先ほど以上に冷たい声色だった。

何かを探るような、それでいて疑心と警戒心の張り詰めた剣呑な雰囲気。

 

 ――間違いない、この言葉は警告だ。

 

 

「いろいろ調べてたらある企業に辿り着いてね。そこから大本を辿っていったら……ね?」

 

 

 しかし迷うことはなく"私"は正直にそれを告げた。

 

 ――カイザーコーポレーション。

 

 それはこのキヴォトスで様々な事業を展開している大企業である。

PMC、銀行経営、リゾート開発、インフラ開発、コンビ二営業、兵器の販売――と、その内容は多岐に渡る。

それこそ企業ロゴである黒いタコの足のように。

そして暗い噂が絶えず、生徒や住民たちがその詐欺の被害に遭っているとのことで。

 

 "私"が調べていたのが、まさにその暗い部分であった。

実はアビドス高校以外の学園の生徒からの嘆願書も届いており、その中であったのが詐欺などの金銭トラブルである。

アビドスの一件もあったが、どうしても気になりそれとなくシャーレ近辺の住人に挨拶がてら話をしていたのだが――結果が先刻の襲撃だった。

 

 それを告げると彼女は溜息をついた。

 

 

「……やるならもっと上手くやってください。カイザーPMCのことは当然知っていますよね。

実質連中の私兵部隊で、今回みたいに狙われるかもしれないんですよ」

 

「本当に助かったよ。心配してくれてありがとう」

 

「心配していません。こっちとしても下手に動かれると邪魔なんですよ」

 

「……アキのやってることの邪魔になったってこと?」

 

「ええ、まさに」

 

「アビドスの為?」

 

「自分の為です」

 

 

 そう言いながらアキはこちらから視線を外し、愛銃の手入れを再開する。

 

 

「アビドスの問題を解決しようと頑張ってるみたいですけど、本当に解決できると思っていますか?」

 

「助けてほしいって言われたからね」

 

 

 もちろん、短期間での借金全ての返済は不可能である。

 

 しかしその為の導線を作るのが、"私"の思い描く未来図だった。

あくまで生徒主体で動き、様々な制度を利用して資金繰りをする。

あるいはアビドスで行える事業展開などを企画し、長期的かつ安定したインバウンドの確保。

それによる現状の利息分の返済で手一杯という状況を打破し、

少しでも対策委員会の面々が学生らしい青春を謳歌できるようにさせたい――。

 

 

「いっそのこと、アビドスを諦めて転校した方が現実的だとは思いませんか?」

 

 

 だが目の前のアビドス高校の生徒は、はっきりとそう言った。

対策委員会の面々とは対照的な、そんなネガティブかつ現実的な思考に"私"は少し驚く。

 

 しかし同時に、"私"はそこで彼女の本音が尻尾を出したと確信した。

それを窘めるでもなく否定するでもなく、"私"は「そうかもしれないね」と一度頷いて見せる。

 

 

「確かにそれが一番現実的かもしれない。

対策委員会の皆が借金をしているわけではないからね」

 

「先生って生徒の相談も受け付けてるんですよね。なら、私からも先生に相談してもいいですか?」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 "私"がそうやって頷くタイミングで、彼女は狙撃銃を組み終える。

そして、再び視線をこちらへと向けた。

 

 

「――アビドス高校を廃校にする手続きを手伝ってほしいんです」

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

「現在のアビドス高校在校生の、転学先について口添えや仲介を頼みたいんです。

ですが今すぐにと言う話じゃありません。やるべきことが終わってから、徐々に」

 

 

 梔子アキははっきりとそう言い切った。

この場に対策委員会の面々がいたら――恐らく大変なことになっていただろう。

いや、あるいはいつかは彼女らにも話すのだろうか。

 

 

「どうしてそういう考えになったのか、聞いてもいいかな?」

 

 

 笑みを崩さないこと意識してそう問えば、アキは頷いて言葉を続けた。

 

 ホシノたちから聞いていたアビドスの借金の返済状況の悲惨さが、再び彼女の口から語られる。

総額九億円超の借金は、現状の返済能力では三百年以上掛かると言われている――それは実質不可能な金額で。

 

 普通の学園生活なんてする暇はほとんどなく、借金返済の為にバイトなどをひたすら続ける。

それは異常であり、本来の学生の生活ではないとアキは断言した。

 

 他の自治区で仕事をしている彼女だからこそ、なおさら異常に思えたのだろう。

キヴォトスにある他の学園都市がどのような校風かはまだ分からないが、

対策委員会の面々が送る学園生活については、少なくとも"私"も普通ではないと思っていた。

本来であれば日中は勉学に励み、放課後は部活だったり学友と街中で遊んだり――。

 

 だが、今のアビドスの状況がそれを許さない。

 

 

「そういった普通をする力は、もうアビドスにはないんです。

入学してきたあの子たちには感謝している。だけど、だからこそアビドスと一緒に死んでほしくはない」

 

「なら、どうして借金の返済を手伝っているの?」

 

「……利息分の返済の力になればと。まさか今年、一年生が入って来るとは思わなくて。

それくらいの思い出作りくらいは必要でしょうから」

 

 

 そう言ってアキはこちらから視線を逸らす。

 

 嘘を付いている――と言うより、事実かも知れないが、どこか後ろ暗い感情を抱えているのだろうと"私"は判断する。

しかし追及したとしても答えてはくれないだろう。

その声色は淡々としたものであり、明らかに教えるつもりはないという意思表示そのものであったから。

 

 ならばと、"私"は会話の切り口を進展させて変えていく。

 

 

「仮にアビドスを廃校にした後は……アキはどうするの? それとホシノは?」

 

「ホシノにも新しい道を見つけてほしいと思っています。

いつまでもあんな砂漠に縋ってないで、前を見てほしいと思っていますから。

私は……ゲヘナとかいいかもしれません。風紀委員会にはコネもあるので」

 

 

 「そもそも三年生だから手遅れですけど」と、アキは自嘲気味に薄い笑みを零した。

 

 

「これが私の相談したいことです。先生、私と彼女たち、どちらが正しいですか?」

 

「その考えは理解できるよ」

 

 

 "私"は即答する。アキの考えは決して間違いはない。

アビドス高校の状況ははっきりと"私"も異常な状態だと思っている。

 

 だが、それはあくまで客観的に見た場合である。

そこに在校生たちの感情は考慮されておらず、

その不安定な要素を共に組み上げると話はまた変わってくる。

 

 

「だけどあの子たちは絶対にアビドスを諦めない。

まだ短い期間しか顔を合わせて話はしていないけど、

それでも必死になって楽しく借金返済の為に頑張ってる。あの子たちの会議、見ていて面白いよ」

 

 

 ――例えばシロコ。

 

 真顔で銀行強盗を提案する。

しかも監視カメラの位置や逃走経路まで用意すると言う徹底ぶり。

さすがにこれは"私"も止めた。

 

 ――例えばノノミ。

 

 スクールアイドルを作って、アビドスを有名にしようと提案。

その対象は一年生の二人であり、断固として拒絶した彼女らは抗議の声を上げ続けた。

 

 ――例えばセリカ。

 

 提案されたのはマルチ商法だが、

浅学と言うか純粋であることから騙されていることが判明。

面々からは温かい目で見られ、後で防犯セミナーを開こうと皆で決意した。

 

 

「あと、ホシノは――」

 

「どうせどっかの学園のバスをバスジャックして、生徒を脅迫して転校させろとか言ったんじゃないですか?」

 

「ははっ、正解だよ」

 

「あいつがムードメーカーするなんて悪夢みたい……」

 

 

 アキは呆れたように溜息をついた。

 

 

「それで意外なのが、それで堪忍袋の緒が切れたアヤネがちゃぶ台返しをするんだ。

一年生だけどしっかりとダメなものはダメって言うし、はっきりと意見も言ってくれる」

 

「暢気なんですね」

 

「すごく楽しいよ」

 

 

 屈託のない笑みを浮かべて言えば、彼女は黙り込んだ。

 

 

「アキのその願いについてはある程度の準備や口利きも出来ると思う。

何と言っても生徒のお願いだからね。全力を尽くすよ。

だけど、生徒たちが望まない進路を強制することは出来ない。これは分かってるよね?」

 

「……はい」

 

「だからもっとあの子たちのことを知ってほしい。それに一人で頑張るより、皆で頑張った方が楽しいよ」

 

「それが現実逃避だとしても?」

 

「無駄なことなんて一つもないよ」

 

 

 "私"は断言する。

楽しいことも辛いことも。それらは確かに日常的な些細なことでしかないのかもしれないが、

本人の性格や思想の形成に確かな影響を与えてくれる。

そしてその積み重ねこそが人を成長させるのだ――"私"はそう信じている。

 

 特に学生の送る青春であればそれはなおさらで。

 

 

「あと他の自治区で仕事をしているのなら、あの子たちも連れて行くとかどう?

もしかしたら、そこで本当にやりたいことを見つけられるかもしれない。

そうやって進路を決めるのなら、私は何も言わないよ」

 

「……それは、たしかに」

 

「ねえアキ。自分が悪者になる必要なんてないんだよ」

 

 

 その言葉を受け、アキの表情が微かに動く。

やはり彼女もそこに思うところがあるのは確かなようだった。

確かに合理的な判断だが――少々性急で、そこにいる者たちの感情が考慮されていない点はよろしくない。

だからこそ、時間を掛けるべきことだと"私"は思う。

 

 

「とりあえず連絡先交換しておかない? 何かあったらいつでも相談に乗るから」

 

「……分かりました」

 

 

 粛々と行われる連絡先交換の際に、"私"は彼女の顔を見る。

こちらから逃げるように逸らされた瞳は暗い――どこか寂し気で、それは光の届かない深海の暗闇を思わせた。

 

 無事に翌日を迎えた"私"は、アキにジープでアビドス高校まで送ってもらうこととなった。

ちなみにアキは朝から仕事があるらしく、そののまま現地へと向かっていた。

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