空は、鉛色の絵の具をぶちまけたように重く垂れ込めていた。
かつてそこに在ったはずの希望の色は、もうどこにも見当たらない。
風が吹き抜けるたび、崩壊したビルの骨組みが軋み、乾いた塵がまるで世界の最後の涙のように舞い上がる。
暁美ほむらは、その荒涼とした風景の中に立っていた。傍らには、あなたがいる。
何度、この絶望を繰り返しただろう。あなたと共に、鹿目まどかを救うために。同じ時間を、同じ苦しみを、数えきれないほど。そのたびに、ほむらの心はすり減り、ひび割れ、そしてついに砕けてしまった。
最後のループ。
まどかは、自らの意志でキュゥべえと契約した。ワルプルギスの夜を、圧倒的な力で打ち破った。
そして、そのあまりにも強大な希望は、同量の絶望へと転じ、彼女を最悪の魔女へと変貌させた。救済の魔女、クレームヒルト・グレートヒェン。その慈悲はあまりに広大で、地球そのものを包み込み、そこに存在する全ての生命を、穏やかな「無」へと誘った。
世界は、終わった。
ほむらの左腕の盾は、もう光を放つことはない。
時を巻き戻す力は、きっとまだ残っている。けれど、彼女はそれを使おうとはしなかった。
隣に立つあなたの存在を感じながら、ただ、虚空を見つめていた。
瓦礫の山と化した都市。生命の息吹は完全に途絶え、ただ、空に浮かぶ巨大な影だけが、そこに途方もない絶望が存在することを証明していた。
ほむらは、その影――クレームヒルト・グレートヒェンを見上げる。
涙は、もう出ない。悲しみも、怒りも、焦燥も、全てが燃え尽きた灰のように、心の底に沈殿している。
「…………」
声にならない吐息が、ほむらの唇から漏れた。
全てが無に帰したこの世界で、意味のある言葉などあるのだろうか。
ただ、あなたの静かな呼吸だけが、この死の世界にかすかな生の証を刻んでいた。
ほむらは、あなたの気配を強く意識する。
共に戦い、共に絶望し、そして共に、この終末を迎えた協力者。
あなたがいなければ、とっくの昔に心が完全に壊れていたかもしれない。あるいは、あなたもまた、ほむらの存在によって、かろうじて「個」を保っているのかもしれない。
彼女は、ゆっくりと歩き出す。あてもなく。
あなたもまた、無言でそれに続く。
食料も、水も、いずれは尽きるだろう。魔法少女としての力も、いつまで維持できるかわからない。だが、それでもよかった。もう、守るべき日常も、救うべき運命も、何もかもが消え去ったのだから。
まどかが救済の魔女となり、全てを無に帰してから、どれほどの時が流れただろう。時計はとうに意味をなさず、太陽の昇降だけが単調な時の経過を知らせる。
「もう、何もかもどうでもいいと思っていたけれど…」
ある時、ほむらはぽつりと呟いた。視線は、崩れたビルの残骸に向けられたまま。
「あなたが隣にいると、少しだけ、息ができる気がするの」
言葉を交わすことは稀だった。だが、その一言一言が、静寂の中で重く響く。
夜になると、冷たい風が容赦なく吹き付ける。
見つけ出したボロボロの布に二人でくるまり、互いの体温を分け合う。それは生存本能から始まった行為だったが、いつしか互いの存在を確かめ合うための、切実な儀式となっていた。
「こんな救いようのない結末……」
あなたの寝息がすぐそばで聞こえる。その穏やかさに、ほむらは時折、罪悪感にも似た感情を覚えた。
「でも……あなたと二人なら……これも一つの答えなのかもしれないわね」
目を閉じると、過去のループの記憶が断片的に蘇る。まどかの笑顔、キュゥべえの冷酷な瞳、そして、ワルプルギスの夜の絶望。その全てが、今のこの静寂へと繋がっている。
ある夜、あなたが悪夢に魘されているのに気づいた。微かに震えるその肩に、ほむらはそっと手を伸ばす。
「大丈夫……ここにいるわ」
低い声で囁きながら、その体を強く抱きしめた。あなたの震えが、まるで自分のことのように伝わってくる。
「あなただけは、私が離さない……離してたまるものですか」
その言葉は、誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせているようでもあった。この温もりだけが、今のほむらをかろうじて「個」として繋ぎ止めている。
あなたの指が、おずおずとほむらの背中に触れ、やがて強く掴んだ。言葉にならない感情が、その指先から伝わってくる。ほむらもまた、あなたの背中に腕を回し、その存在を確かめるように抱きしめる。
互いの鼓動が、壊れかけた世界の静寂の中で、痛々しいほど鮮明に響き合う。
どちらからともなく、顔が近づいた。吐息がかかるほどの距離で、ほむらは自嘲するように呟く。
「ねえ、それは……ただの欲望?それとも……なんて、もうどうでもいいわね。だってこの世界には……私たちしかいないのだから……」
唇が重なる。焦燥と、諦観と、そしてほんのわずかな渇望が入り混じった、乾いたキス。それでも、その瞬間、確かに二人の間には、言葉では言い表せない激しい何かが迸った。
離れた後も、互いの額を寄せ合ったまま、しばらくの間、荒い息を交わす。あなたの瞳が、暗闇の中で揺らめきながらほむらを捉えている。その奥にある感情を、ほむらは読み解こうとはしなかった。ただ、それが自分に向けられているという事実だけで十分だった。
唇が触れ合うのは、ほとんど必然だった。
どちらからともなく、引き寄せられるように。
それは決して甘美なものではなく、むしろ焦燥と、どこか諦めに似た感情が入り混じった、乾いたキスだった。だが、その刹那、確かに二人の間には、言葉では言い表せない激しい何かが通い合った。
離れた後も、互いの額を寄せ合ったまま、しばらくの間、荒い息を交わした。
あなたの瞳が、暗闇の中でほむらをじっと見つめている。
その奥に宿る感情を、ほむらは正確に読み取ることはできない。
ただ、それが自分に向けられた、強い何かであることだけは分かった。
数日後の夕暮れ。クレームヒルト・グレートヒェンの巨大な影が、地上をゆっくりと飲み込んでいく。その圧倒的な絶望の前では、どんな言葉も虚しい。
不意に、あなたがほむらの手を取った。その手は微かに震えていたが、何かを決意したような力が籠っていた。
そして、あなたは言った。掠れた、けれど確かな声で。
好きだ
その言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも純粋で、ほむらの心臓を鷲掴みにした。
「好き……?」
ほむらは、虚を突かれたようにあなたを見つめた。
世界が終わって、全ての価値観が崩壊したこの場所で、そんな言葉に一体何の意味があるというのだろう。
ふっと、ほむらの口元に自嘲と、それからほんの少しの戸惑いを滲ませた笑みが浮かんだ。
「……今更よ」
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「本当に、今更だわ。何もかも手遅れで、もう救いなんてどこにもないのに。それでも……あなたは私にそんな言葉をくれるのね」
あなたの瞳は、真っ直ぐにほむらを射抜いている。後悔も、憐憫も、そこにはない。ただ、ひたむきな想いだけが映っていた。
「馬鹿ね、あなたも。こんな世界で、そんな言葉に何の意味があるっていうの……」
それでも、その言葉が、凍てついたほむらの心に、小さな火を灯したことは否定できなかった。
「だけど……ありがとう」
ほむらは、ゆっくりとあなたの頬に手を添えた。
「その言葉だけで、私はまだ……もう少しだけ、立っていられる気がするわ」
そう言って、ほむらはあなたの唇に、自分のそれを静かに重ねた。
今度のキスは、前回とは違っていた。
絶望の味は変わらない。けれど、その奥底に、ほんの僅かな、灯火のような温かさが確かに感じられた。
それは、世界でたった二人きりになってしまった者同士が、互いの存在を肯定し合うための、最後の、そして最も切実な誓いにも似ていた。
「もう、何も望まない」
唇を離し、ほむらはあなたの瞳を見つめながら囁いた。
「ただ、こうしてあなたの傍にいられるなら……それが私の、最後の願いよ」
荒廃した世界。空には絶望の魔女。
それでも、この瞬間、ほむらの心には、確かな温もりが満ちていた。あなたがいる。
ただそれだけで、この終わった世界にも、まだ微かな意味が灯っているのかもしれないと、そう思えたのだ。
「これが私たちの結末。あなたと二人きりの、静かな終末……悪くないわ」
そう言って、ほむらはもう一度、あなたの唇を優しく塞いだ。