最初の数日は、警戒を解かなかった。
彼は私に最低限必要なものを用意してくれ、食事も部屋の前に置いてくれるだけで、私に無理に話しかけようとはしなかった。
その距離感が、今の私にはありがたかった。
彼は仕事に出かける前に、「何かあったらこれで連絡してほしい」と、スマートフォンの使い方を教えてくれた。緊急の連絡先として、彼の番号が登録されていた。
「……お節介ね」
そう言いはしたものの、見知らぬ世界でたった一つの繋がりを与えられたことに、少しだけ安堵している自分もいた。
体調が少しずつ回復してくると、私は部屋の中を観察するようになった。
本棚には、彼が言っていた「魔法少女まどか☆マギカ」の関連書籍やディスクが並んでいた。その中には、私の姿が描かれたものも。
それを手に取ってみる。本当に、私はこの物語の中の存在だったというの……?
「信じられないわ……」
けれど、ページをめくるうちに、そこに描かれている出来事が、私の記憶と奇妙に一致することに気づかされる。
ワルプルギスの夜との戦い、まどかとの出会い、繰り返した時間……
「どうして……こんなことまで……」
――は、どこまで私のことを知っているのだろう。
彼が帰宅すると、私はつい、そのことを問いただしてしまった。
「あなた……私のことを、どこまで知っているの?」
彼は少し驚いた顔をしたが、正直に答えてくれた。アニメで描かれた範囲のことは知っている、と。私がまどかを救うために、何度も時間を繰り返したことも。
「……そう。なら、話は早いわね。私がどれだけ必死だったか、あなたには想像もつかないでしょうけど」
皮肉めいた口調になってしまうのは、仕方のないことだった。私の孤独な戦いを、娯楽として消費されていたのかもしれないという事実に、言いようのない屈辱感を覚えたから。
彼は何も言わず、ただ黙って私の言葉を聞いていた。その沈黙が、かえって私の心をざわつかせた。
彼、――は、私の辛辣な言葉にも表情を変えず、ただ静かに耳を傾けていた。その態度が、かえって私の苛立ちを増幅させる。
「何とか言ったらどうなの? 私の戦いを、ただの『物語』として楽しんでいたんでしょう?」
感情的になっている自覚はあった。けれど、抑えられなかった。私の絶望も、苦しみも、全てはこの男にとって消費されるコンテンツに過ぎなかったのかもしれない。そう思うと、腸が煮えくり返るようだった。
彼はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
彼の言葉は、私の予想とは少し違っていた。確かに「アニメ」として見ていたけれど、それは決して軽んじていたわけではない、
むしろ私の生き様に強く心を打たれたのだと。
まどかを守るために全てを捧げる姿に、尊敬の念すら抱いていたと。
「…綺麗事を言うのね」
素直に受け止めることはできなかった。それでも、彼の言葉の端々に滲む誠実さが、私の心の棘を少しだけ和らげたような気がした。
信じるかどうかは、君次第。
でも、俺は君の力になりたいと思っている、それは本当だよ。
彼の真っ直ぐな視線から、私は目を逸らした。
***
それから数週間、私と――の間には、ぎこちないながらも少しずつ変化が訪れていた。
あなたは変わらず私に気を遣い、元の世界へ帰る方法を探し続けてくれた。図書館で埃っぽい古文書をめくったり、夜遅くまでパソコンに向かって情報を検索したり。その真摯な姿を見ていると、あなたの言葉を信じてもいいのかもしれない、と少しずつ思えるようになっていた。
「……そんなもの、見つかるわけがないわ。時間の無駄よ」
そう言いながらも、あなたの隣で古びた書物のページをめくるのは、不思議と苦ではなかった。
あなたは時折、私に「アニメ」の中の出来事について尋ねてきた。
それは、あなたが純粋に疑問に思ったことだったり、あるいは、私が少しでも過去の記憶と向き合えるようにという配慮だったのかもしれない。
最初はぶっきらぼうに答えていた私も、いつしか、ぽつりぽつりと当時のことを話すようになっていた。まどかとの思い出、戦いの日々、そして、救えなかったことへの後悔。
「……何度繰り返しても、結局、私はまどかを救えなかった……」
そう呟いた時、あなたは何も言わず、ただ静かに私の隣に座っていた。その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも心に沁みた。
一緒に食事をする回数も増えた。
最初は部屋で別々に食べていたけれど、あなたが一緒に食べないかと誘ってくれたのだ。
「……別に、構わないけど」
素っ気なく返事をしながらも、誰かと食卓を囲むという行為が、こんなにも温かいものだったのかと、今更ながらに気づかされた。
あなたが作る料理は、決して手の込んだものではなかったけれど、なぜか美味しく感じた。
テレビで流れるニュースやバラエティ番組。ずっと見ていなかった私にとってはどれも目新しく、時折、あなたにそれが何なのか尋ねることもあった。あなたは面倒くさがらずに、丁寧に教えてくれた。
「この世界は……平和なのね」
ある日、夕食の席でそう呟くと、あなたは少し驚いたような顔をして、そして小さく頷いた。
もちろん、問題がないわけじゃないけど……君がいた世界に比べたら、ずっと平和かも。
彼の言葉に、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。そう、ここは平和なのだ。魔女もいない。戦いもない。ソウルジェムが濁る心配もない。
(それなのに、私は何を望んでいるの…?)
元の世界へ帰ること。それは、まどかを救うため。でも、今の私に何ができる?
魔法も使えない、ただの無力な少女が。
***
そんなある日、彼が仕事で少し帰りが遅くなると連絡があった。
私は一人で夕食を済ませ、ぼんやりとテレビを見ていた。ふと、窓の外を見ると、綺麗な月が出ていた。
吸い寄せられるようにベランダに出る。ひんやりとした夜風が心地よい。
見上げる月は、私がいた世界の月と同じように、静かに輝いている。
(まどか……あなたは今、どうしているの…?)
会いたい。もう一度、あの笑顔が見たい。
でも、もし帰れたとして、私はまた同じ絶望を繰り返すだけなのではないか。
そんなことを考えていたら、不意に涙が溢れてきた。
「……う……っく……」
声を殺して泣いた。この世界に来てから、初めて流す涙だったかもしれない。どれくらいそうしていただろうか。ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
慌てて涙を拭い、部屋に戻ろうとした時、ベランダのドアが開いた。
「……――?」
そこに立っていたのは、心配そうな顔をした――だった。
彼の優しい声に、堪えていた感情が再び込み上げてくる。
「……なんでもないわ……目にゴミが入っただけ」
強がってみたけれど、声は震えていた。
彼は何も言わずに近づいてくると、そっと私の肩を抱いた。
「……っ!」
驚いて身を固くする私に、彼は大丈夫だと囁くように言った。
彼の腕の中は、思ったよりも温かかった。そして、なぜかとても安心した。
「……帰りたいの……でも……帰れないかもしれない……」
嗚咽混じりに、本音がこぼれ落ちる。
「元の世界に帰る方法が……見つからなかったら……私は、どうすればいいの……?」
彼は私の背中を優しく撫でながら、静かに言った。
大丈夫。もし帰れなくても、君は一人じゃない。自分がいる。
その言葉が、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように感じられた。
この人の隣なら、もしかしたら…。そんな淡い期待が、心の片隅に芽生え始めていた。
***
その夜を境に、私と――の関係は、また少し変わったように思う。
以前よりも、自然に会話ができるようになった。彼が時折見せる不器用な優しさに、私の心も少しずつ解かされていくのを感じていた。
「あなたって…意外と不器用なのね」
彼が夕食の準備で玉ねぎを切って涙ぐんでいるのを見て、思わずそう言ってしまった。
彼は顔を赤くして、うるさいとぶっきらぼうに返してきたけれど、その顔は少しも怖くなかった。
むしろ、微笑ましくさえあった。
元の世界へ帰る方法は、依然として見つからない。焦りがないわけではない。けれど、それと同時に、この穏やかな日常が失われることへの怖れも感じ始めていた。
(私は……どうしたいんだろう……)
答えの出ない問いが、私の胸の中でぐるぐると回り続けていた。