――との穏やかな日々が積み重なるにつれて、私の心の中にあった焦燥感は、いつしか別の感情へと姿を変え始めていた。
元の世界へ帰りたいという気持ちは変わらない。まどかの笑顔を、もう一度見たい。それが私の原動力だったはずだ。
けれど、もし帰れたとして、私に何ができるのだろう。魔法の力を失った今、ただ絶望を繰り返すだけなのではないか。その考えが、重く胸にのしかかる。
そして何より、この――のいる世界を離れることに、言いようのない寂しさを感じ始めている自分がいた。
「……もし、元の世界に帰れなかったら……私はどうなるのかしらね」
ある日の夕食後、ぼんやりと窓の外を眺めながら、私は独り言のように呟いた。
隣で洗い物をしていた――は、手を止めて私の方を見た。
その時は、ずっとここにいればいい
あなたの言葉は、あまりにも自然で、そして温かかった。
「……あなたは、それでもいいの? 私みたいな、得体の知れない存在が、ずっとあなたのそばにいても」
私の問いに、彼は少し困ったように笑って、そして言った。
君は得体の知れない存在なんかじゃない。俺にとっては……元から、大切な人だ
その言葉に、私は何も言い返すことができなかった。顔が熱くなるのを感じて、慌てて俯く。
大切な人。その響きが、私の心の奥底をくすぐった。
(私も……あなたのことを……)
言いかけて、言葉を飲み込む。まだ、それを口にする勇気はなかった。
***
季節は巡り、この世界に来てから一年が経とうとしていた。
元の世界へ帰る方法は、依然として見つからない。最初の頃の必死さは薄れ、私も――も、心のどこかで半ば諦めのような気持ちを抱き始めていたのかもしれない。
それでも、――は時間を見つけては情報を探し続けてくれていたし、私も時折、彼に付き合って一緒に色々な場所へ足を運んだ。
それはもう、目的のためというよりは、二人で過ごすための口実のようになっていたのかもしれない。
「このまま、あなたと一緒に暮らすのも…悪くないかもしれないわね」
そんな言葉が、ふと口をついて出たことがあった。
――は驚いたような顔をして、そして、とても嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、私の胸も温かくなった。
このまま、この穏やかな日々が続けばいい。そんな風に思うようになっていた。
***
その日、私はいつものように――の帰りを待っていた。
夕食の準備を終え、リビングで本を読んでいると、不意に空気が揺らぐのを感じた。
(…何…?)
それは、魔力を感じたわけではない。けれど、何か異質なものが近づいてくるような、そんな予感。
胸騒ぎがして窓の外を見る。空は茜色に染まり、いつもと変わらない夕暮れの風景が広がっている。
気のせいだろうか。そう思った瞬間、目の前の空間が淡い光を放ち始めた。
「!」
咄嗟に身構える。けれど、今の私には戦う術がない。
光が収まると、そこには…信じられない光景が広がっていた。
「……まどか?」
そこに立っていたのは、眩いばかりの光を纏い、優しく微笑む少女。その姿は、私が知る鹿目まどかでありながら、どこか違う、神々しいオーラを放っていた。
――の部屋にあった「アニメ」のDVDや漫画で見たことがある。全ての魔法少女を救済するという、概念となったまどかの姿。円環の理、だったかしら。
まさか、それが目の前に現れるなんて。
「ほむらちゃん…久しぶり」
懐かしい声。ずっと聞きたかった声。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
「……ど、どうして……まどかがここに……?」
彼女は、全ての魔法少女の運命を書き換えた存在のはず。こうして実体を持って、私個人の前に現れるなんて……きっとありえないことだ。
彼女は静かに説明を始めた。次元の歪みが生じ、ほんのわずかな時間だけ、この世界に干渉できるようになったのだと。そして、私を元の世界に帰すために来たのだ、と。
「やっと……やっと会いに来れたよ、ほむらちゃん」
その言葉が、私の心の奥深くに突き刺さった。
堪えていた何かが、堰を切ったように溢れ出す。視界が急速に滲んで、まどかの優しい笑顔が揺らいで見えた。
「まどか……っ!」
声にならない声が漏れる。
気がつけば、私はまどかに向かって駆け出していた。魔法少女だった頃のような俊敏さはないけれど、それでも必死に。
そして、その温かな光を放つ体に、力の限り抱きついた。
「うっ……ううっ……まどか……! まどか……!」
しゃくり上げるような嗚咽が止まらない。どれだけこの瞬間を待ち望んだだろう。どれだけ、この温もりに触れたかっただろう。
何度も、何度も時間遡行を繰り返して、それでも守れなかったたった一人の友達。私の全てだった存在。
「会いたかった……! ずっと……ずっと、会いたかった……!」
子供のように泣きじゃくる私を、まどかは何も言わずに、けれど力強く抱きしめ返してくれた。
その腕は、概念となった彼女のものであるはずなのに、不思議とあの頃のままの温かさを感じさせた。
「うん……うん、私もだよ、ほむらちゃん。ずっと、ずっと会いたかった……」
背中を優しく撫でてくれる手に、私はさらに強くまどかの服を握りしめた。まるで、この温もりを二度と離さないとでも言うように。
どれくらいそうしていただろうか。少しずつ嗚咽が落ち着いてきた頃、まどかはそっと私の肩を押し、顔を覗き込んできた。その瞳は、慈愛に満ちていた。
「ほら、顔を上げて、ほむらちゃん」
促されるままに顔を上げると、まどかは泣き腫らした私の顔を見て、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、私が何度夢に見たことだろう。
「それじゃあ、元の世界に帰ろっか、ほむらちゃん」
その言葉に、私の心は激しく揺さぶられた。
帰れる。元の世界に。まどかのいるべき場所に。
ずっと望んでいたはずなのに。
それなのに、私の足は床に縫い付けられたように動かなかった。
隣にいる――の顔が脳裏をよぎる。彼と過ごした、穏やかで温かい日々が。
「……どうしたの? ほむらちゃん、嬉しくないの……?」
私の反応が予想と違ったのか、まどかは不思議そうな顔をしている。
「っ、ううん……嬉しいわ!嬉しい、けど……」
言葉が続かない。
「……少し、考えさせてほしいの」
やっとの思いで絞り出した言葉に、まどかは驚いたように目を見開いた。
「え……?」
無理もない。私がこんな反応をするなんて、彼女だって思ってもみなかっただろう。
「……ごめんなさい、まどか。でも……今の私には、すぐには決められないの」
まどかは、私の葛藤を察してくれたのだろう。すぐにいつもの優しい笑顔に戻って、頷いた。
「うん、わかった。ほむらちゃんの気持ち、尊重するよ」
そして、少し申し訳なさそうに付け加えた。
「でもね、私がこの世界にいられる時間は、そう長くないの。一週間後……もう一度ここに来る。それまでに、決めてほしいんだ」
一週間。それが、私に与えられた猶予。
「っ……わかったわ」
頷くことしかできなかった。
まどかの姿が光と共に消えると、部屋には私一人だけが残された。
足の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
(どうしよう……どうすればいいの……?)
頭の中が真っ白だった。
元の世界か、この世界か。
まどかか、――か。
どちらかを選ばなければならない。その事実が、重く私にのしかかってきた。
その時、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。――が帰ってきたのだ。
私は慌てて立ち上がり、何でもない振りをしようとしたけれど、きっと顔は酷く強張っていただろう。
私の異変にすぐに気づいた――が、心配そうに声をかけてくる。
私は、あなたにまどかが現れたことを話した。
一週間後に、元の世界に帰るかどうかの答えを出さなければならないことも。
あなたは黙って私の話を聞いていた。そして、全てを聞き終えると、静かに私にどうしたいのか尋ねてきた。
あなたの声は、いつもと変わらず穏やかで、けれどその奥に、微かな緊張が滲んでいるように感じられた。
「私……わからないの……」
正直な気持ちだった。
元の世界に帰りたい。でも、この世界を離れたくない。
そんな矛盾した想いが、私の中でせめぎ合っていた。
ほむらが一番望む方を選んでほしい、どっちを選んでも、応援する……あなたはそう言った。
その言葉は優しかったけれど、私には少しだけ、寂しそうに聞こえた。
(本当に…それでいいの…?)
あなたの本心がどこにあるのか、私にはわからなかった。
***
その日から、私の苦悩の日々が始まった。
最初の数日は、まだどこか現実感がなかった。
けれど、カレンダーの日付が一つ、また一つと減っていくのを見るたびに、胸を締め付けるような焦燥感が募っていく。
夜は特に酷かった。布団に入っても意識は冴えわたり、天井の木目を数えるうちに夜が白み始める。
ようやく訪れる浅い眠りの中では、まどかと過ごした懐かしい日々や、――と重ねた穏やかな時間が断片的に現れては消え、その度に私はうなされて目を覚ました。
食事も喉を通らない日が増えた。――が心配して、消化の良いものを作ってくれたり、私の好きなものを用意してくれたりするけれど、口に運んでも味がしない。
無理に飲み込もうとすると、鉛を飲み込むように重く感じられた。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には隈がくっきりと刻まれている。
そんな私を見て、――は何も言わず、ただ黙って私のそばにいてくれた。あなたが淹れてくれる温かいお茶の湯気が、部屋の静けさの中で唯一の慰めのように感じられることもあった。
けれど、そのあなたの変わらない優しさが、かえって私の胸を鋭く締め付けた。まるで、重い枷をはめられたような息苦しさ。あなたは、私の選択を尊重すると言ってくれた。
その言葉に嘘はないのだろう。でも、その言葉の裏に隠されたあなたの本当の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうだった。
あなたに相談しようかとも思った。何度も、喉まで出かかった言葉があった。
「どうしたらいいと思う?」
「あなたは、どうしてほしい?」と。
でも、その度に、私は言葉を飲み込んだ。彼に「どちらがいいか」なんて聞けるはずがない。そんな問いは、あまりにも酷で、あなたを困らせるだけだとわかっていたから。
あなたはきっと、最初と同じように君の望む方を選んでと言うだろう。そして、どんな選択をしても、変わらず私を応援すると。
それはわかっている。あなたの優しさも、誠実さも。
でも、そのあまりにも完璧な答えが、今の私を余計に追い詰めることも知っていた。
本当は、あなたに引き止めてほしいのかもしれない。
「行かないでくれ」と、そう言ってほしいのかもしれない。
でも、そんな我儘を彼に言わせる資格が、今の私にあるのだろうか。
彼は、私が元の世界に帰ることを心のどこかで望んでいるのかもしれないし、逆に、このままそばにいてほしいと願っているのかもしれない。
そのどちらも、私には彼の口から直接聞く勇気がなかった。あなたの本心を知ることが、怖かったのだ。
だから私は、一人でこの重すぎる選択と向き合うしかなかった。
リビングのソファに座り、窓の外を眺める時間が増えた。
季節は移り変わり、木々の葉の色も少しずつ変化している。
この世界で過ごした一年。短いようで、けれど私の心には深く刻まれた日々。
――と交わした何気ない会話。一緒に作った食事の温かさ。隣で眠る彼の寝息。その一つ一つが、愛おしい記憶として蘇ってくる。
同時に、まどかの笑顔が脳裏を焼き付いて離れない。彼女を救うためだけに繰り返した時間。彼女のいない世界など考えられなかった、あの頃の私。
どちらも、私にとってかけがえのないもの。
選ぶということは、どちらかを捨てるということ。その事実が、ナイフのように私の心を抉った。
「……どうすればいいの……分からない、分かんないわよ……」
誰もいない部屋で、何度そう呟いただろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、運命の日は、もうすぐそこまで迫っていた。