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翌日の朝はどんよりと曇っていた。 最もゴッサムのことだから曇っている日の方がはるかに多く晴れ渡った日が続くのは珍しい。それも雨雲ではなく高化学スモッグの雲だからなおのこと悪い。
曇天の空の下、エンジンをかけ俺たちはゴッサムを後にした。
こいつの体調を見ながら、パーキングエリアで休んではまた車を走らせる。どこに行くかを決めているわけではない。ただナビを見ながら道なりに走らせる。暖かいリゾート地に向かうか、大陸を横断してしまっても良い。
いつのまにかとっぷりと日が暮れていて、 俺たちは満天の星空の下を走っていた。 ゴッサムの空の下ではけして星など見ることができない 。暗闇と静寂。 街のあかりと騒音にかき消され姿を失っていた風景が見えてくる。 ―それはどこまでも美しい。
世界はゴッサムの外側にもある。 だが 俺たちはずっとゴッサムという狭い都市で 長いあいだ生き続けた 。 人はたまりゴミが集積し、星は地に落ち、 騒音と欺瞞と毒物と悪意と、都市に集積する最も醜いものを集めた愛すべき我らがゴッサム。群衆にとって 生きにくい、 だが俺たちにとっては生きやすかった我らが故郷。
まだほんの100キロも離れていないというのに、どこかひどく遠くに感じられた。 きっとこの星空のせいだろう。
今日は 次のパーキングエリアで車内泊する以外他に泊まる場所はないようだ。
座席を倒しブランケットをかぶる。
「 …バッツィ」
隣からそう声が聞こえた。
再び車を走らせ 3日後に海辺の街へと着いた。
ここでしばらく泊まることになるようだ。 ジョーカーの体調が最悪に悪い。 さすがに無理をさせすぎたか。
海辺のこじんまりとした白い家に老夫婦が住んでいた。 俺は老夫婦を射殺し海へと捨てた。どうせ老い先短い身だ。 せいぜい寿命が3〜4年縮んだ程度だろう。
だから俺たちが使ってやる。ありがたく思うんだな。
ベッドに横になったジョーカーはくたりとして動かない。 呼吸に合わせて胸がかすかに上下する。
全くこいつは、人間とは到底思えないような容姿をしている。
ビスクドールのように白い肌、日に透けた緑色の髪はビロードのような光沢を持っている 。 淡い色の瞳は蛍石のような色をしていた。
ただこうやって眠っている姿は精巧にできた人形のように見える。
本来ならば この悪目立ちしてしまう外見は覆い隠すべきだろう。
肌をフェイクタンで染め髪を染色すれば多少目立つ外見だとしてもそこまで人目を引くことはないだろうが …そうしてしまうのはおしいと思う。
案外こう言った田舎町というのは 人が少ないゆえに噂というものが広がりやすい。しばらくここに滞在するつもりでいるから、人に会えば適当な理由をつけておく必要がある。ベタだが病気で色素が欠乏していると言っておくか。
元々住んでいた老夫婦は高齢ゆえ住むことができなくなり、代わりに俺たちが住むことになったとでも伝えておこう。 嘘ではない。
夕方になって ジョーカーは目を覚ました。
「 何か食うか?」
棚の中を漁ると缶詰のミートソースが出てきた。
「 …パスタにでもするか」
「ん」
缶詰のミートソースはあまり美味しいとは言えなかったがまずいということもない。
ジョーカーは半分残した。
それでも随分と食べれるようになったと思う。
食事が終われば窓辺に座ってじーっと外を見ている。
「…」
耳を澄ましているようだった。
「ここからは海が近いんだ。 明日一緒に行ってみるか」
「…ん」
短くとも返事が帰ってくるようになった。 意思疎通は 今までのことを思えばはるかにやりやすくなった。 いずれ元のジョーカーに戻るだろう。
「おやすみ 」
そう言って俺は口づけを落とした。
空は灰色、 灰色の海。 砂浜と波ばかりが白い。
俺はジョーカーの手を引いて歩いた。 ゆっくりとしたスピードで、時にはあゆみを止めながら。
砂の上でかがみ込んでしまった ジョーカー に一瞬焦りの感情が生まれる。
「 …どうした?」
ジョーカーは砂浜に落ちていた白いかけらを拾い上げた。
「 …骨…」
「 それは骨じゃない貝殻だ 」
ジョーカーが俺を見上げる。 手に持ったそれは、なるほど確かに骨のように白い。
まるでジョーカーは大事なものを抱えるように 貝殻をぎゅっと握りしめた。 うつろな目をして思い詰めたような表情で貝殻を眺める。
「…行くぞ」
そう言って俺はジョーカーの手を引いた。 海鳴りの音がする。
家に帰ってから こいつはけだるそうに 窓辺にもたれかかり貝殻を握りしめていた。 海の方をずっと眺めている。やはり 体力が落ちきっているから ほんの少し歩いただけで疲れてしまったのかもしれない。
「ジョーカー 」
そう呼んでも振り返る様子はない。
俺は隣に腰かけた。 ジョーカーはほんの少し身をすくめ俺の方にもたれかかってくる。ジョーカーの体温がわずかに感じられその呼吸音が聞こえた。 髪にそっと触れる。パラパラと砂が落ちた。 …風呂に入れてやるか…そう思って こいつの方を見ればいつのまにかうつらうつら と眠っている。
日は だんだんとくれて 灰色の空は色すら失われてしまう。俺にもたれかかったまま寝てしまった ジョーカーを抱えベッドに向かった。細い体は大して 重みも感じない。
回復には時間がかかりそうだ。
その翌日も俺はジョーカーを連れて海辺を歩いていた。
海風は強く昨日よりも肌寒い。こいつの細い体は風に飛ばされてしまいそうだ。
俺は強くこいつの手を握りしめた。
砂浜でまた急に かがんでしまった ジョーカーを俺は見る。 昨日と同じ光景だ。
「 …どうした?」
昨日と同じやり取りを繰り返す。
「 …骨…」
「それは骨じゃない貝殻だ 」
ジョーカーは黙って俺の方を見た。その表情は物言いたげに口元が歪んでいて ただまっすぐ こちらを見ていた。
「いいや…これは骨だ」
そう言って ジョーカーは貝殻を見つめた。
「それは骨じゃない貝殻だ 」
俺は同じやり取りを繰り返す。
しゃがみ込んで貝殻をぎゅっと握るジョーカーの姿が目に映る。
… 今のこいつに何を言っても同じか。 俺はため息をついた。
家に帰りこいつを風呂に入れる。 ビロードの髪をすいて、ドライヤーをかける。髪質は柔らかでシルクのような光沢の髪の毛は美しい。本人に自覚があるのかないのかは分からないが やはりこの外見はあまりに人を惹きつけてしまう。 俺は髪を撫でた。
ジョーカーは昼間 拾ってきた貝殻とその前の日に拾ってきた貝殻を組み合わせて カチカチと音を立てている。
…一体何をやっているのだろう。
最もこいつに聞いたところでまともな答えが返ってくるとは思えないが。
昨日 家に帰ってきてから 窓辺でぐったりと寝てしまったことを思えば、意識を保っているだけ 体力は回復してきているのかもしれない。
ジョーカーを抱え上げベッドへ運ぶ。
「おやすみジョーカー」
そう言って俺はこいつに口づけた。
その翌日もやはりジョーカーを連れて浜辺を歩く。
ほんの少しずつ 少しずつではあるが体力が回復してきている。
無理はさせない程度に散歩に連れ出すのは良いかもしれない。
ジョーカーはその日も変わらず貝殻を拾った。
「…骨…」
昨日と同じやり取り。 俺は一言 、
「…好きにしろ」
と言った。
確かに 白い貝殻とこいつに渡した指の骨は似ている。 一体どこまで判断力が回復しているのかわからないが、無理にそれを否定する気も、もう起こらなかった。おそらく骨と貝殻の見分けがついていないか、あるいはついていたとして貝殻を骨に見立てているのだろう。現状でどちらが正しい判断かは分からないが、 こいつがしていることを否定する理由は特にない。
否定せずに好きにさせている方が回復は早いだろう。
俺が言った言葉を肯定の意味で捉えたらしく、ジョーカーは他にも貝殻を拾い始めた。 やがて 手に持ち切れないほどの貝殻を抱えた上機嫌のジョーカーを連れて俺は家路へとついた。
貝殻を窓辺に並べ 組み合わせたり並べたりして子供のように無邪気な表情を浮かべている。まるでパズルで遊ぶ幼子のようだ。
「ジョーカー、夕飯だ」
そう言って呼ぶとジョーカーは貝殻をさも大切な宝物のように 一つ一つ丁寧に窓のそばの1箇所に集めていた。
食事の量は全部食べることはできないが それでもこの2〜3日のうちにかなり増えてきたように思える。完全に回復するまでは まだまだ時間がかかるだろう。だが良い兆候だ。
ジョーカーを風呂に入れ、またドライヤーで髪を乾かす。 もう 世話を焼かずとも一人でで出来るかもしれないが、放っておく気にはなれなかった。
痩せた体を抱え ベッドに運ぶとぎゅっと 俺の背中に手を回してくる。
「おやすみジョーカー 」
昨日と同じように口づける。だが 昨日は運んでベッドに寝かせる時はもう意識がなかった。 風呂に入れ 髪を乾かしたあたりでぐったりと意識を失っていた。
「…エディ」
ジョーカーの声が聞こえた。目の焦点をしっかりと合っている。
頬に手を当て、俺はもう一度口づけた。 こいつは嫌がる素振りは見せなかった。 舌を入れゆっくりと口の中を愛撫する。 体温がお互いの唇と舌を通して感じられる。俺はこいつの パジャマに手をかけた。
「イヤか?」
「…イヤだって言ってもするだろ?」
こいつの口元にほんの少し笑みが浮かんでいた。
その夜、ここに来て初めて俺はこいつを抱いた。
翌日は土砂降りの雨だった。
昨日と同じ時間に外に出て行こうとする ジョーカーを俺は止めた。
「こんな天気で外歩けるわけがないだろう」
そう言うと 不満そうな顔をする。
ため息が出る。 理解力や判断力は回復していると思うが昨日の様子といい、このふてくされた顔といい、まるで子供だ。精神が子供ぐらいの年齢に退行しているのかもしれない。こいつが元の状態に戻るまで 一体どれだけ時間がかかるのだろう。正直ガキの相手などごめんだ。
「雨が止んだら外に連れてってやる。家でおとなしくしていろ」
そういえばしぶしぶ 了承したようだった。
時々 窓の外を見ながら 窓辺で貝殻を並べたり 組み合わせたりしているジョーカーの姿を見ながら観察する。 ジョーカーは貝殻を骨だと言っていた。 いくつもの 貝殻を並べ パズルのように組み立てようとする。
貝殻は骨。骨を組み立ててどうしようとしている?
瓶の中には バットマンの骨が少々。人間の骨は 200から300ある …だとしたらこいつは足りない骨を集めようとしているのか?
おそらくはそうだろう。 足りない 骨を集めて バットマンの骨格をすっかり 再現するつもりなのだろうか?
こいつが、ここまで人の死体や死に執着するとは思わなかった。 絶えず おもちゃのように人を殺し 死体を蹂躙することを厭わずいつも 血の匂いがこびついていた。
それだと言うのに バットマンの死体には………骨には執着するのか。どんな事柄すら 辛辣なジョークに変えてしまうこの男がバットマンには 恋慕を寄せ執着し、その死体にすらすがろうとするのはあまりに滑稽だった。
貝殻いや 、こいつは 骨と思っているが…それを全て拾い集めバットマンの葬式でもすれば少しは落ち着くだろうか。 ひどくバカバカしいことに思えたが 、こいつ自身を回復させるにはそれが一番早いのかもしれない。
貝殻を並べ ひどく 無邪気な顔をしているジョーカーを尻目に俺はコーヒーをすすった。 雨が止めばまた浜辺に連れて行ってやろう。
雨が止んだのは日が暮れた後だった。
嬉々として外に出て行こうとする ジョーカーの腕を俺は掴んだ。
あたりはもうすっかり暗くなっている。止めたところで聞きはしないだろう。
「……一人で行くな」
そう言うと俺は諦めて靴を履き ジョーカーと共に出かけた。
わずかばかりの夕暮れの光が海を照らす。その色は明るく美しい夕焼けの光ではなくおどろおどろしい血のようなクリムゾンレッドのくすんだ色をしていた。 空に細い白い三日月がかかっている。うっすらと口を開けて笑っているような 不気味さは禍々しい空の色と相愛なって何とも言えないほど気味が悪かった。
「今日はもう諦めろ。こんなに薄暗いのに貝殻なんて 拾えないぞ」
俺がそう言ったの 聞いているのか聞いていないのか ジョーカーは空を見上げていた。
「なあ エドワード、死んだ人間の魂ってどこに行くのかな?」
「知らん」
俺がそう答えると ジョーカーはおかしそうに笑っていた。
「リドラー大先生でもわかんないねぇ…んな事あるのかよ」
「大体魂なんて存在するのかどうかもわからない不確かなものに明確な答えが出ると思っているのか!人間の思考というものは シナプスの化学物質と脳の現象だ。魂の明確な定義というものは?それの答えすら現代の哲学、科学において出てはいないだろう。定義すらないものに答えなど出せると思っているのかお前は」
ジョーカーは俺の方を見ようとしなかった。
ただ月を眺め何かを探しているようだった。
「バッツ、どこにいるんだよ…ダーリン」
どこかうわ言のようにそう呟いていた。
翌日の夜、一人で外に出て行こうとする ジョーカーを俺は止めた。
「散歩に行きたいなら昼間にしろ!」
そう言うとずいぶん不満そうな顔を浮かべていたが、家の前まで出て外を見ているうちに諦めたようだった。昨日の夜に外を歩かせたのは失敗だったかもしれない。 今の状態で外に出て無事に家に帰って来れるという保証がない。 今こいつの精神がどうなっているのか、どの程度回復しているのかわからない以上はリスクになることはなるべく避けたい。
窓の外にパタパタとコウモリが飛んでいるのが見えた。
ふと不安に駆られた。
夜中に勝手に抜け出して外をうろつくかもしれない。そう思った俺はベッドをジョーカーの部屋に移した。
「なんだよエディちゃん。オレと同室で寝たい わけ?寂しがり屋か」
ジョーカーはさも面白いものを見るかのような表情を浮かべていた。
「うるさい」
憎まれ口を叩くだけ精神が回復しているということか。全く反応がなかったことを思えば ずいぶん良くなったじゃないか。
「おやすみジョーカー 」
そうして、いつものように寝る前に口づけを落とした。
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車の窓から見える風景は見慣れたものだが、もはやオレにとっては何の意味もなさない光景へと変わっていた。欲望ばかりが渦巻くこの都市で昨日と変わり映えのしない今日がやってくる。バッツはどう思っていたかわからないが、きっとオレがいなくてもここは何一つ変わらない。オレが何人殺そうが人間は山のように、ここに集まってくる。治安の良し悪しというのは結局のところ 犯罪者が1人で作っているわけではない。 ゴッサムは全てが腐っている。
オレがいなくなれば別のマフィアだか悪党だか幅を利かせるだけだろう。
あばよ、ゴッサム。
バットマンのいない都市になんかもう二度と戻るものか。
車のガタガタとした 揺れが、体力の落ち切った体にさらに追い打ちをかける。
少し走れば嘔吐し、休憩をとってはまた嘔吐する。もはや胃液すら出なくなってそれでも吐き気が収まらず、むせ返り呼吸すら困難になる。
その度にリドラーは車を止めオレの背をさすった。
…そういえばなぜオレはこいつと一緒にいるんだろう?一体いつから?
工場でのバットマンの対決から後の記憶がどうにもはっきりしない。何か一緒に犯罪計画でも立てていただろうか?一緒に目的のために協力することは多々あったが何かを約束した記憶がまるでない。オレの方から犯罪計画に誘うこともあればこいつから オレを誘ってくることもあった。こいつの犯罪は大概、融通が利かない。謎に固執するあまり失敗に終わることも多く、感情に流され自己顕示欲と意地で不測の事態が生じても身動きが取れなくなることが非常に多い。 これで本人は冷静なつもりだから実に笑える。オレがこいつを誘うのは結局のところ、このエドワード·ニグマという男の不完全で不格好で理想とは程遠い姿が好ましかったからだと思う。そばにいて退屈な人間と一緒に行動するほどつまらないことはない。…まあ一応頭の良さは認めるが。
気晴らしに旅行と言っていたな。
こいつなりにバットマンやバットマンに成り代わったナイトウィングに対して思うところがあるのかもしれない。
こいつはバットマンに知恵比べの勝負を挑むのが好きだった。コンプレックスの塊の頭の良さでしか自分を肯定できないそんな男だから勝つことでしか満たされなかったのだろうが。…その割にはいつも負けてばかりでそのたびに 地団駄踏んで悔しがってはアーカム送りにされてる。その様はあまりにも無様で滑稽で、だがそれこそこいつの人間らしさ、弱さでありまたこいつの性分とも思えた。
自分が他人より頭がいいことは分かっているのに何故それを誇示しようとするのか。謎解きも知恵比べも好きでそれに向かい合っているのならば良いが、ぐちゃぐちゃになった 劣等感と自己顕示欲でいつもバットマンとの勝負を台無しにしているのは本人だ。そもそも支配欲が強く、自己顕示欲の塊のくせに自分自身に自信がないのを分かっていない。客観的に自分を観察することが まるでできず、冷静で落ち着いた性格だと思っているのはまるでジョークのようだ。
感情に揺さぶられやすいその瞳も、本人は冷静で落ち着いて喋っているつもりで感情むき出しのその声色も、何もかもが矛盾点を含んでいていっそ愛おしくすら思える。つまるところ、こいつといれば退屈はしない。
「…落ち着いたか?」
背中をさする手が心地よい。
「…ん」
オレは何とか返事をした。
「車に戻れるか?」
俺は首を振った。
「そこで待ってろ。 水を持ってくる」
ここはどこだろう?どこに向かっているのか 行き先をリドラーに聞いていなかった。方向感覚もむちゃくちゃになっていて、車でどこに向かって走っているのかよくわからない。あたりはすっかり夜になっている。どこかのパーキングエリアだというのはわかった。
……星。
空に星が輝いている。ゴッサムではほぼ見ることができない星のある空。
パトカーのサイレンも悲鳴もここでは聞こえない。何とも奇妙な気分だった。
紙コップに入ったミネラルウォーターが差し出される。
「エドワード…」
これからどこに向かおうとしているんだろうな?そう言おうと思ったのに声が出ない。疲労と体調不良が極限に達していてしゃべることが困難だった。
「宿泊施設まで行けそうにないな。今日はここで寝るぞ」
そう言ってオレを車に戻した後、座椅子を倒しブランケットをかける。消して良い環境とは言い難いが柔らかなブランケットが心地よくどこかホッとする。
ピークまで達した 疲労はあっという間に俺を昏睡の中に引きずり込んだ。
…バットマン オレのダーリン、
ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか。
あの日、頬に触れられたこと 後のことを思い出していた。
「…殺せよ」
俺がそう言ったらあいつは辛そうな顔していた。
「私はお前を殺したくないと言っているんだ。 殺すか殺されるかの関係を終わりにしたい。お前がどうしても殺して欲しいのならお前を殺して私も死ぬ。だが私はお前に死んでほしくない。 お前が人を殺すのをやめてほしい。お前が苦しんでいるのなら お前の苦しみを分かち合いたい。お前が罪を犯したことは私も一緒に償う。だからもうこんなことはやめてほしい。お前が死にたいのなら一緒に死んでやる。 だが私はお前とともに生きたい。お前と共に在り続けたい」
そう言ったじゃないかバッツ…。
オレ一人だけを残して死んじまうなんてあんまりじゃないか。
ブランケットを引き寄せ ぎゅっと身を縮める。
「 …バッツィ」
一言そう呟いた。
それから3日ほど車で移動したが相変わらず体調はひどく悪くって走っては休みを繰り返していた。車に揺られながら、バットマンのことばかりを考えていた。
会いたい、もう一度。
「着いたぞ」
そう言われて車から降りて民家と思われる建物の中に入って行った。 ここがどこなのかどうしてここに来たのかわからないが、そんなことを考える余裕もないほど体が疲弊しきっていた。
気がつけば夕方になっていた。
夕食にパスタを食いながら 窓の外の方を見た。 潮騒の音が聞こえる。
「ここからは海が近いんだ。 明日一緒に行ってみるか」
エドワードはそう言った。
翌日 2人で散歩に出かける。 体がグラグラする。
潮風が音を立てて吹き抜ける。カモメの声がする。カモメという鳥は案外獰猛で何でも食おうとする。死肉を漁る存在だ。カラスやハゲタカと大して変わらない。
世界に色がない。 空も海も何もかもが灰色だ。
砂浜でふとキラリと光る何かが見えた。
「 …骨…」
手に取るとそれは小さな骨のかけらだった。
瓶の中に入っていたバッツの骨と同じ色。
「それは骨じゃない貝殻だ 」
そう 声かしてオレは見上げた。
目があったその先でエドワードは少し苛立ったような表情をしていた。
この男は本当にすぐ表情に出る。
「…行くぞ」
声色に苛立ちを隠そうとしない。
オレの手を掴みすぐにその場から引っ張って行こうとする。
家に帰ってオレは持ち帰ったかけらをマジマジと眺めた。やっぱりそれは小さな骨にしか見えなかった。貝殻だとエドワードは言ったがこれは骨ではないか。
浜辺に落ちていたかけらは、バッツの指先の骨にあまりにもよく似ていた。
明日もう一度確かめることはできるだろうか…
「ジョーカー 」
後ろからエドワードの声がする。
オレは限界を訴える体をエドワードに預けた。抱えられ部屋まで運ばれるのが心地よかった。明日になればまた浜辺に行こう。
海鳴りの音がする。
ゴッサムの街よりもはるかに静かなはずなのに音だけが広く 鮮明に聞こえてくるような気がする。 雑音が少なければかえって音というのはよく聞こえるものなのかもしれない。
波の音は血液が流れる音によく似ている。
ごうごうと音を立て心臓から血液は流れ続ける。 体中を駆け巡り 毛細血管まで全て 血液を満たし 再び心臓へと帰ってくる。めぐり循環し再び元の場所に戻ってくる。 海というのは心臓に似ているかもしれない。水は気化し雨となり土に染み込み 水源となって川へと流れ込む、そして再び 海に帰ってくる。
海鳴りの音がする……
いいやこれは 心臓の音だ。普段は聞くことができない 心臓の音だ。静かであるから余計に音が聞こえるのだ。心臓の音がする。
一人で外に出ようとするオレを エドワードは止めた。
2人で浜辺を歩く。昨日と同じように。
ただ一つ違うのはオレの手首をエドワードがとても強い力で掴んでいることだった。オレより ほんの少し前を歩いているそいつの表情はどこか険しく何かを恐れているように見えた。オレが風で飛んでいくとでも思ったのだろうか。でなければこんなに強く掴まないだろう。いくら体が軽い方だとはいえこの程度の風で吹き飛ばされるわけがないのに。
浜辺に光る白いカケラを見つけてオレは 足を止めた。
かがみ込んでカケラを拾う。それはやはり小さな骨だった。
「 …骨…」
「それは骨じゃない貝殻だ 」
昨日と同じやり取り。
「いいや…これは骨だ」
オレは繰り返した。
「それは骨じゃない貝殻だ 」
幾分苛立った表情で エドワード はそう返した。
オレはかけらを握りしめた。否定されるのが嫌だった。
これは骨だ。
これはきっとバットマンの指の骨のかけらだ。オレはそう思った。
腕以外のバットマンの遺体がどこにあるのかはわからない。 だけどここに流れ着いたこの小さな骨は間違いなく バットマンの指の骨だ。
そうだ きっと 川を伝って ここに流れ着いたに違いない。 どこで死んだとしても水は川に流れ落ちやがて海へとつながっていく。きっと愛しいダーリンの遺体は川に流され 海に溶けてこうやって 俺のところに小さな骨だけになってやってきたんだ。
海鳴りの音が心臓の音に聞こえるのはきっとバットマンの血と肉と心臓が溶けているからだ。
こうして小さなカケラになって俺のところに会いに来てくれたんだ。
エドワード はため息をついた。 きっとこいつに話しても理解されないだろうし、何より全面的に否定されるのはオレだって辛い。
こいつにわかるはずがない。自分の気持ちや感情にすら蓋をして見ようとしないやつなんだから。今だってとても苛立っている。オレが骨のカケラに関心を寄せていることをよく思っていない。こいつの表情は分かりやすい。こいつの目はすぐに感情をあらわにする。 その癖、自分の感情を見ようとしない。そんなやつが他人の気持ちなどわかるはずがない。苛立ったエドワードに手を引かれ オレは家路へとついた。
翌日もまた2人で 海岸沿いを歩く。
心臓の音がする。きっとバットマンの心臓はこの海の中にあるんだろう。
浜辺には また小さな骨のかけらが打ち上がっていた。
「…骨…」
そう言うとエドワード は呆れた顔をしていた。
「…好きにしろ」
オレは両手に持てるありったけの骨を探して持ち帰った。
こっちはきっと 肋骨のかけら、それからこっちは前歯だ。持ち帰った骨を並べすっかり 揃うところを想像した。海を通じて俺の元にバットマンの骨が帰ってくる。心臓は肉体は海に溶けてそこにある。全部骨が揃えばバットマンが帰ってきてくれるのかもしれない…そんな気がした。
抱きしめて欲しかった。バッツに、もう一度会いたい。
「ジョーカー、夕飯だ」
オレを呼ぶ声がする。
エドワードはやたらとオレの世話を焼きたがる。料理だって風呂 だって今みたいにドライヤーで髪を乾かすのだって。 いい加減そこまでしなくても一人でやれる。病人だと思っているのならなら散歩になんて連れ出したりできないだろう。だが、触れられるのは心地よく拒絶する気は起きなかった。
ご丁寧に抱きかかえベッドまで運ばれる。
「おやすみジョーカー 」
ベッドに俺を下ろして去っていこうとする こいつに思わず声をかけた。
「…エディ」
キスされるのが心地よかった。 エドワードは俺のパジャマに手をかけた。
「イヤか?」
「…イヤだって言ってもするだろ?」
普段は許可なんて求めないくせに。
翌日は朝から土砂降りの雨だった。
それでも、もしかしたらまたバットマンの骨が流れ着いているかもしれない。 浜辺に行かなくては。
「こんな天気で外歩けるわけがないだろう」
「雨が止んだら外に連れてってやる。家でおとなしくしていろ」
慌てて止めるエドワードの表情は呆れと焦りが出ていた。とても1人では行かせてくれないだろう。 雨が止むまで待つしかない。
雨が止んだのは日もくれてすっかり 薄暗くなってからだった。
オレが外に出て行こうとすれば エドワードは慌てて止めた。
「一人で行くな!」
こいつこんなに過保護だったっけ…ああそうだ 、この男は独占欲が強い。人一倍支配欲が強く自分の思い通りにコントロールしようとする性格だった。
2人で歩く宵闇に波の音ばかりが響く。
ドクン……ドクン…ドクン…
あぁ、やはりこれは心臓の音だ。波打つのは心臓だ。
夕焼けの光を反射する海は血の色をしている。海にコウモリの肉体が溶けているんだ。 血の肉も心臓も全て海の中にあるんだ。でなければこんなに深紅の色をして 波打っているわけがない。薄暗い空をコウモリの一軍が飛んで行くのが見えた。
「今日はもう諦めろ。こんなに薄暗いのに貝殻なんて拾えないぞ」
オレはコウモリの群れを目でおった。
「なあ エドワード、死んだ人間の魂ってどこに行くのかな?」
「知らん」
明らかに感情を抑える気がない 声色でエドワードは答えた。
「リドラー大先生でもわかんないねぇ…んな事あるのかよ」
リドラーはグダグダと訳が分からない理屈を喋っていた。
本当にこの男は理屈っぽい。
死んだ人間の魂は蝶の形をしているという。 一体どこの言い伝えだったか思い出せないが。きっとバットマンの魂はコウモリの形をしているに違いない。
あいつの魂は一体どこにあるんだろう。 きっとゴッサムにはもういない。
…血と肉と魂と骨、全部揃えばあいつが帰ってくるような気がした。
「バッツ、どこにいるんだよ…ダーリン」
コウモリは月に登っていくように飛んで行った。
オレはそれを目で追いかけた。
次の日の夜、窓のそばにコウモリが飛んでいるのに気がついたオレは外に出ようとした。
「散歩に行きたいなら昼間にしろ!」
慌てて飛んできた エドワードがオレの手を引っ張る。 …なんだよ、ほんのちょっとコウモリを見てただけじゃねえか。この男の独占欲·支配欲が強いのは分かっているが最近は本当に、ちょっとした事で過敏になりがちじゃないか。
コウモリは 月の方へと飛んで行く。そういえば ゴッサムでは本物の月を見ることは滅多にない。 いつも薄汚い光化学スモッグの雲で覆われている
月の光の鋭さはバットマンの瞳を彷彿とさせた。
本物の月。まがいもの月ではなく。
部屋に戻るとエドワードはガタガタと音を立て 自分のベッドを引きずってきた。
その様が滑稽でおかしくて、オレは思わずニヤリと笑った。
「なんだよエディちゃん。オレと同室で寝たい わけ?寂しがり屋か」
「うるさい」
そう言って顔を赤くして怒る様を見て、オレはますます可笑しくなった。
この男は本当に感情を隠しきれない。
「おやすみジョーカー 」
そういえば、いつのまにかお休みのキスが習慣化していた。
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