映画ザ・バットマンのエドワード・ナシュトンと友達の話 作:hiro
一緒にアーカム精神病院を脱獄してしばらく経った設定で、初めての大ゲンカです。
3月末から4月はじめの1週間のお話。
フランシーヌの場合は
あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は
あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌー
……ザー……ザー
ラジオからノイズ混じりの音声が聞こえる。
曲調は淡々として決してもの悲しいものではない。ラジオのノイズは酷くなり歌は途切れ途切れとなった。
……ザー……ザー
ホントのことを言ったら
オリコウになれない
ホントのことを言ったら
あまりにも悲しい
……ザー……ザー……ザー
リスナーの皆さんこんにちは!
今お送りしたナンバーは「フランシーヌの場合」と言い……
おばかさんとは随分ひどい歌詞だとお思いの皆さん、実際にはこの歌は亡くなった女性を想う反戦歌でなんですよ。1969年の今日、三月三十日にパリの路上でフランシーヌ・ルコントという女性が、ベトナム戦争とビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺したんですが、…そんな彼女を悼み創られた……
……カチャ。
私はラジオを切った。
茹で上がったパスタにレトルトのソースをかけるとテーブルの上に置いた。
時計はちょうど12時を指していた。
ドアノブに手をかけ、扉を押し開けるとギーッと軋んだ音がする。
そこには異様な姿をした彼が立っていた。細身の体を黒い服で隠し手には濃紺のゴム手袋、頭にはなぜか鳥の頭のような黒いマスクをかぶっている。それは死肉ををむさぼるカラスにそっくりで目の部分は大きなガラスのレンズ、曲がったくちばしのような異様に伸びた口元……死神というものを想像すればこんな姿が出てくるだろうか。
「ジョーカーご飯にしよう」
「わー、バカ!急に開けるな」
彼が慌てた様子でガチャガチャと手元の瓶の蓋を閉めた。
「揮発性が高い毒物もあるんだ…俺は毒物に耐性があるからいいとして……お前が吸い込んだら、ただじゃ済まないぞ」
「…え、ごめん」
「気をつけてくれよエドワード。せめてノックしてからにしてくれ。ほんの少し吸い込んだだけでも死んじまうようなものもあるんだぞ」
「ごめん」
彼は呆れたようにため息をつきマスクを外した。
「ねえこれってもしかしてペストマスク?」
「うん、あぁ……案外合理的にできているんだぜ?殺菌性の高いハーブを山ほど詰め込んでフィルター代わりにしている、大昔のガスマスクみたいなもんさ」
「揮発性の毒物にも効くの?今ならばもっといいマスクがあるんじゃない?」
そう言うと友人はおかしそうにくすくすと笑った。
「まさか!いくらなんでも大昔と同じ使い方はしてないぜ?今ならもっといいフィルターがあるしな。形だけだ」
そう言うと彼はマスクをポンと積み上げられた本の山の上に置いた。まるで遺体をついばむ烏のようなそのマスクはかつてペスト医師たちが使っていたものだ。 死を連想させるその形とは裏腹に人の命を救う医師たちがそのマスクを付け使っていた。ペストの致死率は90%を超え絶えず死が付きまとい、だがしかし死を連想させるそのマスクを使っていたのは人を救う医師たちだ。
……それはどこか質の悪いジョークのように思えた。
彼は手袋を裏返した状態で外すとそれをすぐにゴミ箱に捨てた。そしてそのままゴミ箱のビニールの口を縛ってしまう。おそらく本当に危険な毒物なのだろう。
私は毒物に対する知識はからっきしなのでいつもただただ彼のすることを感心して見ていた。
彼は頭が良い。
毒物や薬物、爆発物など科学知識が豊富でさらに教養が深く、話が面白くて楽しくていつもウィットに富んでいる。私だって自分で時限爆弾ぐらいは作れるが、彼が作り出すそれは私が作ったものよりはるかに複雑で精巧なものだった。
一緒にアーカム精神病院を脱獄して、そろそろ3ヶ月が経とうとしていた。
今はふたりで治安の悪い地区にアパートを借りて一緒に住んでいる。古い建物だが使い勝手は良い。少し広めの3LDK のアパートだったが彼が研究室代わりに一室、私が私物とカムバックのための計画のため一室、それ以外は共有スペースとして使っている。
私は彼の素性を知らない。
それどころか本当の名前だって知らない。
彼の部下と思われる男たちにボスあるいはジョーカーと呼ばれているのを聞いたことがある。
「君マフィアなの?」
そう尋ねると彼はおかしそうにHAHAHAと笑って、
「マフィアというよりマフィアごっこだな」
と言っていた。
ジョーカーという名前はどう考えても本名ではないし、彼の身の上話はどれもこれもちぐはぐだ。話すたびに内容が違い矛盾を含む、ユニークで面白く中には真実味を帯びたものもあった。けれども次に聞けばまったく違う話が飛び出してくるのだ。真実が何かなのまるで分からない、おそらくすべてジョークなのだろう。
彼の身の上を部下たちに聞いたところでその話は全て違う。 恐らく全て彼が話した話なのだろうがやはりどこまで行っても真実にはたどり着けそうにはない。
それは本当の自分の身の上を話したくないという意思表示に他ならないのではないだろうか。だから私は彼の素性を知らなくても良いと思っている。 真実が痛くて苦しいものならば無理に思い出させて話させて辛い思いをさせたくない。
それに素性を知らないからといって困ることなど何もないのだ。彼はいつも私のそばにいてくれる。それだけで十分じゃないか。
「おぉ、うまそうじゃん!」
「レトルトだけどね」
私たちはガタッと席につきテレビをつけた。
このところすっかり春めいて暖かい日が続くようになりました。 パーク内のチェリーブロッサムの花が週末には見頃を迎えるとのことです。 それでは現場に繋いでみましょう。
……聞こえますか?そちらはどうですか ?
は〜い、ご覧のようにすっかり蕾が膨らみピンク色の可愛らしい花がちらほらと咲き始めています。この花は日本の都市と友好を結んだ記念に50年前に植えられたものなんですよ。明日の3月31日から週末のイースターの日まで夕方の6時から9時までライトアップされるとのことです。週末にはきっと満開になっているでしょうね。花にちなんだお菓子も売り出されていてとっても可愛らしいんです。皆さんも是非足を運んでみてください。 現場からは以上でした。
ありがとうございます。
続いてのトピックは……
「ふーん、なあエディ週末にライトアップを見に行かないか?」
「いいね。暖かくなってきたし」
「じゃあ約束な!」
彼は目を細めてクシャッと笑った。
……正直に言って私は彼が外を出歩くのがあまり好きではない。彼はそのケロイドの痛々しい肌と姿のせいでただ歩いているだけで奇異な目で見られ、嫌悪を示される。露骨に顔をそむけられあるいは目をそらし、ひどい時など罵声を浴びせられる。 どうしてそんな目に遭わなくてはならない。
彼が他人に傷つけられるようなことを言われるのは聞くに耐えないし、ましてや私の目の届かない所で彼が傷つけられているかと思うと、とても耐えられそうにはない。だからなるべく外を歩いて欲しくない、ましてや一人で出歩くなんてやめてほしい。だけど他人の行動をそんな風に制御するなんてできないし、それに彼の性格からしてもそんなふうに口を出されるのはおそらく嫌いだろう。
だけど夜なら……ましてや花に人の目が集中しているのなら彼のことをじろじろ見て嫌なことを言ってくるやつはいないだろう。
……週末が楽しみだ。
「あっそうだ、明日夕方から出かけてくる。 何時に戻れるか、わからないから遅かったら先に寝ていてくれ」
「いいけど……どこに行くの?」
「港だよ。今調合している薬がうまくいきそうなんでちょっと多めに材料を仕入れてくる」
……仕入れねえ。早い話が港の入荷物から盗んでくるということだ。彼がやっている毒物の調合はさっぱりわからないけれど、彼の言うちょっと多めにというのは…おそらく大量に街中にばらまくぐらいの量なのだろう。違法な薬物なのかそれとも合法なものなのかはわからないけれど…。少し心配だ。
あまり派手なことをしてゴッサム市警と銃撃戦になるようなことにならなきゃいいけど。
「無茶しないでね」
「わかってるって!ごちそうさま」
「口、ソースがついてる」
私はティッシュを手に彼の口元を拭った。
皿を片付けてしまうと私は自室に戻った。
パソコンを立ち上げ株価を確認する。証券取引をするようになったのは彼と一緒に脱獄してからだ。
会計士の仕事をするのは難しくなってしまい、しかしカムバックのためにはまとまったお金が必要になる。 合法的に、しかも手っ取り早く資金を集めるには証券取引は確かに良い方法だった。警察に押収されていた自らの資金を回収しその一部を証券取引に当てた。自分が会計士をしていた時の何倍、何十倍ものお金がものの数秒のうちに増えていくのは見ていて気持ちが良いものではなかったが……これは全て大いなる計画のためと自分を納得させ割り切った。所詮数字は数字に過ぎない。ある程度数字が大きくなるたびに現金化し、指定口座へと移して行く。 ……そんな取引をしているうちに、違法取引やマネーロンダリング不正取引など見つけていった。
【犯罪行為】それは Web上を通しても見えてくるものだった。ゴッサ厶の薄汚い豚どもを見つけ出すにはインターネット上の痕跡というのは実に明快で確かなものだ。
罰すべき人間をリストアップして行く。
ゴッサムに不満を持つ人間は山のようにいる。おそらく初めに私が思ったよりもよっぽど多い。ゴッサムの90%は貧困層であり、さらに1割の中の9%は中間層であり決して裕福とは言えない、わずか1%の富裕層が富を独占し街を牛耳っている。
――サイレントマジョリティ。
大半の者たちはたとえ不満を持っていても知識すらなく、せいぜい場末のバーで文句をいうのが関の山だ。私のように孤児になってしまったものはその中でもさらに悲惨だ。親という庇護者もおらず、物心つかぬ内からサバイバーであることを強いられ命を失いあるいは生き残ってもゴッサムに消費される哀れな低所得層としてあるいは末端の犯罪者としてなんとか生きていくのがやっとだ。
脱走してから山のように『リドラー』を賞賛する掲示板やサイト動画ちゃんねるやSNSグループなどが立ち上がっていることを知った。いやそれどころか人々の日常のそれこそバーでのくだらない会話の中ですら『リドラー』を賞賛する言葉を耳にした。『リドラー』は忘れ去られてはいけない。
彼が言うようにカムバックを待っているのだ。
そのためにも私はなすべきことをしなければならない。
不満を書き込まれたネット上のページには、すぐに誰にでもアクセスできる掲示板やSNSのようなもの、個人ページや動画配信チャンネルを独自で持ち自ら積極的に配信者あるいは誘導しようとするもの、SNS 上でも鍵垢で簡単にはアクセスできないもの、さらにはもっと地下に潜っていておそらく並大抵のものではたどり着くことができないようなものに分類される。自らのフォロワーと連絡を取り合いその中で協力者を探してゆく。
『リドラー』という存在が世間に知られるようになり協力したいというものはそれこそ山のようにいた。かつて私が計画を建てた時よりも何百倍も何千倍も。
数万の掲示板にSNS、『リドラー』を賞賛する数百人の動画配信者とその登録者たち、地下サイト……ゴッサム市警の目の届かないような複雑な……そんな中からそれこそ砂漠の中から一粒の砂金粒を探し出すかのように協力者を見つけて行く。
……ただそんな協力者たちでさえ私の姿を正確に見ている者はいないと思った。
私に偶像を見い出し、崇拝し、ある種のアイコンとして私を見ている。
私―エドワード=ナッシュトンではなく『リドラー』を見ている。必要なのはリドラーでありエドワード=ナッシュトンではない。
―私の友人は彼だけだった。
辛くてたまらないときに優しく言葉をかけてくれ、話を聞いてくれて、眠れぬ夜には抱きしめてくれる。励まし叱咤激励してくれて…ずっとそばにいてくれる。
一緒に食事をして、笑いあう。あるいはこの関係は友人というより家族に近いのかもしれないが……。どっちにしろ彼は私にとっては特別な存在だった。
彼の笑い声が何よりも好きだ。だから私はこの関係がずっと続くものだと信じていた。
3月31日の夕方、彼は言葉通りに出かけて行った。
夜になり時計の針は11時を回った。遅くなるそういうのだから心配するような時間ではないはずだが……どういうわけだか胸騒ぎがする。
私は窓を開けて空を見上げた。ゴッサムの空はいつも汚い。光化学スモッグで汚れていて、さらにはギラついた街明かりで月や星が見えることはあまりない。
昼は薄汚れた灰色の空、夜にはコウモリの月がうすらぼんやりと輝く……それがゴッサムだ。
ふと耳に彼の言葉が蘇った。
それはアーカム精神病院の牢の中で何度も聞いた言葉。
『月を見ているんだ。』
『今夜は綺麗な満月だ。』
『……月が綺麗だなぁ。』
月夜だって…… ?ゴッサムの夜に?
美しい月なんて見えるはずがないじゃないか!
思い当たった可能性を全力で頭から締め出す。
……そんなはずない!そんなはずはない!そんな事あるはずがないじゃないか!
一度生まれた疑惑はあっという間に膨れ上がりまるで魔物のように私の心を食い尽くそうとする。心臓が痛み動悸が早くなる。
私はいたたまれなくなり、家を飛び出した。
こんなことは私の思い違いだ。 そんなことあるはずがない。そうだいつものように彼の笑った顔を見ればこんな疑惑は一瞬で消し飛ぶはずだ。
……そうだよねジョーカー?
バイクを走らせて港へ向かう。薄暗い路地を抜け、通りを猛スピードで走って行く。大通りを抜け路地をいくつも通り抜けて街のはずれへと向かう。やがてボーッという汽笛の音がして港の船の影が見えた。港の大時計が12時の針を回っていた。
バイクを降りてコンテナの間を走って彼を探す。
心臓はバクバクと高鳴り今にも破裂しそうなほど痛みを訴える。 …それは精神的なものからなのか……走った故なのか。
突然、爆発音が聞こえた。発砲音とパトカーの音。男たちの怒鳴り声。 私は息を呑んで身を隠す。
コンテナの物陰から覗くとずっと向こうに見たことのある影が映し出されていた。
………バットマン!
男たちを追い回し執拗に殴りつけるバットマンの姿が見えた。
ジョーカー……君はどこにいるんだ、無事なのか?
「バッツ〜待ちくたびれたぜ?」
私の耳に弾んだ声が聞こえた。聞き間違えるはずがない、彼の声だ。
「お前は今度は何を企んでいる?何をしようとしている?リドラーと一緒なのか?やつはどこにいる?」
「ダーリンちょっとあんまりなんじゃないか?半年近く会ってないってのによ!いきなりの挨拶がそれ?いくら何でもそれは無いだろ」
「黙れ。お前がそそのかして脱走したんじゃないのか?」
「唆しただなんて。俺はあいつの背中をほんの少し押してやっただけ、ほんの少し心を自由にしてやっただけさ」
「黙れ。つまりお前が誑かしたんだろう。奴は危険なテロリストだ。野放しにしておくわけにはいかない。当然お前が今犯している犯罪も。 」
「おもしろみがねえなあ〜バッツは。けれど時期におもちゃ箱をひっくり返したような愉快なことになる。お前だってきっと笑えるはずさ!!」
飛びかかってくるバットマンをヒラリとかわし、彼は手から何かを投げた。
その途端閃光が走り、異臭と爆発音が聞こえた。
HAHAHAHA……HAHAHAHA!!
「あいつ面白いんだぜ!どこで誰が死んだとか金をちょろまかしたとか、そんな事どうだっていいだろう!!身寄りのないガキどもがそれで生き返るわけでもなし。嘘をつかない人間、自分のことを優先しない人間なんていないのになあ?そんな単純なことすらわからない。
あいつの身の上話は、無垢な【キャベツやコウノトリ】を信じているガキみてーで笑えるぜ。愚かしいにも程がある。
なんだって単純な二元論なんか信じられるんだ!?世界ってのはもっとぐちゃぐちゃしていて善悪で割り切れるほど単純なものじゃない。善と悪でこの世界ができていると思っている奴ってのは単純で愚かだがあいつはそれだけじゃない。自分が持っている資質がさっぱり分かっていない…だから俺が教えてやるのさ」
……頭の中が白く霞んでゆく。
「じゃあなあばよ!愛してるぜバッツ!!今日はお前に捕まるわけにはいかねえんだ!週末に予定が入っているもんでね」
「待て!!」
「そう言われて待ったやつなんかいるかよ!」
HAHAHAHA……HAHAHAHA!!
爆発音が聞こえ、二つの人影は走り去って行った。
小競り合いの音が聞こえたが、しばらくするとその音も聞こえなくなりやがて辺りは静寂に包まれた。遠くで聞こえる船の音や街のざわめき、波の音。それらは自分から切り離された異界から聞こえるかのように現実感をなくし、自分の存在だけがここから切り離された異物のように感じた。
耳の奥がキーンと痛くなる。彼の声がこだまする。
『嘘をつかない人間、自分のことを優先しない人間なんていないのになあ?そんな単純なことすらわからない。あいつの身の上話は、……ガキみてーで笑えるぜ。愚かしいにも程がある。』
……嘘だったんだ。
かけてくれた言葉も私の言葉を聞いて頷いてくれていたことも。……一体どこから?もしかして初めから?何もかもが嘘だったのか?
その後、どうやって帰ったのか記憶が定かではない。
いつのまにか空は白んでいて玄関扉を開けると電気をつけずとも室内がうっすらと見える。夜明けの光に照らされた室内の荷物たち。
そこには彼の私物もたくさん含まれていて……それは私たちの共同生活を形作っていたものだった。
幸福だった記憶が音を立てて崩れてゆく。初めから虚偽で彩られていて、偽物だったなんて。 どうして私はこうなのだろう。
再開発…バットマン…そして今度は友人だと思っていた彼にすら裏切られる。
何もかもがうまくいかない。
彼の部屋の扉がほんの少し開いていて、私は中に入った。
部屋の中は雑然としている。 棚に並んだ薬瓶の数々、机いっぱいに広がった実験道具、積み上げられた本の山に所狭しと置かれたジョークグッズ。私の部屋より更に物があふれた部屋。
ふと扉が開く音がする。ガサガサと玄関先で音がして彼の帰宅を告げる。
「ただいま。エドワード?……なんだもう起きてるのか?」
ギィィーと扉が軋む音がして、彼が部屋に入ってきた。
私は扉に背を向けたまま彼のほうを振り返ることが出来ないでいた。
肩に手が触れて、私の顔を覗き込む。
彼の笑った顔が見えて、だがそれは私の顔を見るなり笑顔が消えていった。
「エディ、どうしたんだそんな泣き腫らした顔をして?」
そう言われて私はやっと自分が泣いていたことを知った。
話をしたいのに声が出ない。
今自分が抱えている感情が怒りなのか悲しみなのか頭の中がぐちゃぐちゃになって言葉にならない。苦しい胸が痛い。いつも通りの態度で接してくる彼と昨日の彼の言葉と頭の中でぐるぐると周り思考がままならなくなる。
「……どうして?」
なんとか私はその言葉をひねり出した。
「何?」
「どうして君は……私に近づいたんだ?」
彼の表情に見て取れるのは困惑だった。
「昨日の夜、私も港に行ったんだ」
「ああ」
彼の顔には何とも苦々しいといった表情が浮かんでいた。
「君とバットマンの会話を聞いた」
彼の目からすーっと光が失われ、一歩も動いてないにも関わらず物理的な距離ができたような気がした。
「私のことを嘲笑っていたのか?初めから何もかも嘘だったのか?私のことを哀れで愚かだと馬鹿にしていたのか?どうなんだ‼」
彼は目頭押さえ顔を伏せた。
……沈黙。
huhuhu,hihihi,……hahaha!!
笑い声は大きくなり部屋中に響き渡る。 そして彼は顔を上げた。
目をギラつかせ、裂けた口は大きく口角を上げて笑顔を形作っていた。
それは私の見たことがない顔だった。攻撃的で悪意に彩られ挑発するような顔。
「そうだよ。その通りだ。今頭にお前が思い描いている通りさ!!」
私は耐えきれなくなって彼の胸元を掴んだ。
「アーカムで退屈してたんだ。 そんな時にお前を知った。 ちょうどいい暇つぶしさ!それにお前は頭がいい。 脱獄する方法を考えさせて、ついでにちょっとからかって遊ぶにはちょうどいい相手だった。それだけさ!」
腕に力が入る。
「ひどい!!……あ、あんまりじゃないか!初めから私のことを利用していたのか?」
「そうだ、その通りだ!分かったら手を放せ!!」
「君なんか大嫌いだ!」
「あぁ、俺もお前なんか大嫌いだ。俺が好きなのはバットマンだけだ!元々お前なんかどうでもいい。」
「もういい、君の顔なんか見たくない!!出て行ってくれ!二度と私の目の前に現れるな!!」
「言われなくても出て行ってやる!手を離せよエドワード」
彼は私の手を払いのけようとした。
その途端、私はバランスを崩し後ろへとよろけた。
「「ドンッ!!」」
棚から薬瓶がスローモーションのように落ちてゆく。
…ガシャン!!……ガシャン!!
目の前で薬瓶が次々と割れて刺激臭が立ち込める。
「息を止めろ!! エディ 」
彼がみるみる青ざめて、そう叫んだのが聞こえた。
目の前が焼け付くように黒くなっていき、喉を刺すような痛みを感じた。
体中が痙攣を起こし痛みを訴え、私は意識を失った。
**********************
――暗い。 ここはどこだっけ?
辺りを見回すと掃除用具が置いてある。そこは孤児院の倉庫だった。
どうして私はここにいるんだっけ?
あぁ、そうだ思い出した。熱を出したんだ。
それでここに隔離されて放り込まれたんだっけ。
私このまま死ぬのかな?
寒い…苦しい……体中がだるくて痛い。
ギィィーッと扉が開く音がして、誰かが入ってきたのがわかった。
ガサガサの血の滲んだ手が私の額にふれてビードロのような青い目が覗き込む。そこには私と歳の変わらぬ子供がいた。
「……ジョーカー?」
触れる手は少しひんやりとして心地よい。
「熱、まだ高いな。ほらこれを飲めよ。熱なんかあっという間に下がっちまう」
差し出されたスプーンをくわえた。
「ゔっ、苦い」
「ちゃんと飲まないと治んねーぞ」
「……うん」
「なあエディ。元気になったらまた遊ぼうぜ」
青い目の子供はそう言ってくしゃりと笑った。
**********************
そこで夢から醒めた。
夢の中の子供は彼に少しも似ていないし、第一私は彼の子供時代を知らない。
それでも夢の中で私はその子供を彼だと思った。
孤児院で育った私は、誰かに看病されたことがない。 熱を出しても心配してくれる者などおらず、むしろ疎ましがられた。自分の身を守るのは自分しかおらず、誰にも助けを求めずたった一人で生きてきた。それは大人になってからも変わらず、誰かに助けを求めることなどなかった。
私はずっと一人だったのだ。
そうだ思い出した。
確かとジョーカーと口喧嘩になって部屋で揉み合い、薬棚の瓶を割ってしまって毒物を吸い込んだんだ。それで…確か意識を失ったんだっけ?
ぼんやりと 室内を眺める。 自分がいるところはベッドでサイドテーブルに薬瓶とスプーンとメモが置いてあった。体を起こしてメモを手に取る。
そこには彼の字でこう書いてあった。
鎮痛剤と解毒剤の混合薬だ。
倦怠感や頭痛がするようならティースプーン一杯ぶんを飲め。
2〜3日は安静にしろよ。
外は雨が降っていた。
ベッドサイドの電子時計の日付は4月2日になっていて、私は丸1日寝ていたのだということを知った。アパートの部屋から人の気配はしない。 私はフラフラと立ち上がり彼の部屋のドアを開けた。
―空っぽになった部屋―
あれだけ所狭しと並んでいた 彼の荷物は一切なくなっていた。
あまりにもだだっ広い。
『出て行ってくれ』と言ったのだからこうなっていても何の不思議もないのだが、その光景を見た途端涙がボロボロとこぼれた。
そうだ私はずっと一人だった……だからこれからも一人だって一体何の問題があるって言うんだ。何も変わらない、今までだってそうじゃなかったのか。
ズキズキと痛む頭を抱えて再びベッドに戻る。
そして薬瓶を手にしてティースプーン一杯ぶん飲みほした。
―そうだ彼はどうしてこれを置いていったのだろう。どうでもいいと思える相手ならばそのまま見捨てておくこともできたはずだ。
私を部屋まで運んでベッドに寝かせて薬を飲ませた。見捨てて出て行くなら そんなことする必要はなかった。ましてや置き手紙に解毒剤まで用意して。
『気をつけてくれよエドワード。せめてノックしてからにしてくれ。ほんの少し吸い込んだだけでも死んじまうようなものもあるんだぞ』
『息を止めろ!! エディ 』
彼の声が耳の螺旋の奥で再生される。
出会ったその日からずっと、ほんの一昨日まで彼はどんな風に私に接してきた?
辛くてたまらないときに優しく言葉をかけてくれ、話を聞いてくれて、眠れぬ夜には抱きしめてくれる。励まし叱咤激励してくれて…ずっとそばにいてくれる。
一緒に食事をして、笑いあう。
それらが全部嘘だったなんてとても思えない。
―だって、でなければきっと心配なんかしない。死にかけたからって介抱なんかしない。彼は自分が興味がないものに対しては容赦がない。この3ヶ月で私は彼のそんな性格を知った。
『アーカムで退屈してたんだ。 そんな時にお前を知った。 ちょうどいい暇つぶしさ!それにお前は頭がいい。 脱獄する方法を考えさせて、ついでにちょっとからかって遊ぶにはちょうどいい相手だった。それだけさ!』
この言葉のどこまでが本当なのかは私にはわからない。もしかしたらこれが彼の本音なのかもしれない。
……だけどそれならば脱獄してすぐにどこかにいなくなってしまっても良かったんじゃないのか?ちょっとというのには、3ヶ月は長すぎる。
そもそも、脱獄を主導したのはむしろ彼の方で私はそれに乗っかった形だ。脱獄する方法を考えさせてと言うのは辻褄が合わない。
考えが頭の中をぐるぐると巡り再び頭痛がしてくる。
―外はずっと雨だ。
私は再びベッドで眠りにつき目が覚めては薬を飲んで再び眠る。そしてその翌日も同じように過ごした。
夢現の中で先日聞いた歌が耳の中で再生される。
……ザー……ザー
ホントのことを言ったら
オリコウになれない
ホントのことを言ったら
あまりにも悲しい
……ザー……ザー……ザー
真実から目をそらしていればよかったのか。
あるいは真実に気が付かぬ程、愚鈍であれば良かったのか。
いや違う『リドラー』は愚鈍であってはいけない、決して真実から目を背けてはならない。
体調が何とか戻った、さらに翌日の土曜日の昼さがり。
やっと雨が上がり、空は澄み渡って晴れていた。
為替相場をチェックして、それからSNSをチェックする。
そういえば一週間も更新していなかったっけ。体調不良を詫びて新しい動画をアップする。……と言っても今回は本当にただ近状を話しているだけに過ぎないが。
『リドラー万歳!!』
『うpキターーー!!』
『ウジ虫どもに鉄槌を!!』
『リドラー愛してるwww』
テキストチャットの欄には『リドラー』を求める声があっという間に溢れかえる。私を求めるたくさんの声。
だが、こんなにもたくさんの人たちが『私』を求めているのにその私は『リドラー』であり『エドワード=ナッシュトン』ではない。
『エドワード。エディ』
彼の柔らかな声が耳元で響いた気がした。
その日の晩はゴッサムではめったに見ない本物の美しい満月だった。
『……月が綺麗だなぁ。』
ねえ君もこの月を見てるのかい?ジョーカー。
そして日曜日の朝がやってきた。
今日は毎年行われる教会のイースターのチャリティーのボランティアに行く予定だ。毎年参加してすっかり習慣になっていたが事件を起こした私をどう見るのか少しばかり不安があった。しかし考えても仕方がない。それに神に使える者たちが私を拒絶することはないだろう。
私は朝食をとろうと冷蔵庫開けた。 そして目に飛び込んできたのだ。
残り少なくなったピーナッツバターの瓶は彼が好きなものだった。 いつもトーストしたパンにたっぷりのピーナッツバターを塗って、そこの椅子に腰掛けて食べていた。私は手にとって一瞬ためらい、再び冷蔵庫にそれを直した。
一人のテーブルはとてもだだっ広い。 シリアルにミルクをかけると急いでかき込み家を後にした。
教会は子供たちの笑い声があふれかえっている。協会が運営する孤児院は貧しくとも牧師やシスター達によって大切に守られている。市からの援助や支援はなくともそこには『愛』があった。
それは子供たちにとって食料や睡眠と同じようになくてはならないものだ。
入り口では募金箱を抱えた子どもたちが立っていた。その表情は晴れやかなものだった。
寄付を済ませ中に入って行くとなじみのシスターたちの顔が見えた。一瞬驚きと戸惑いの混じった表情がシスター達に浮かびやがて真愛を浮かべた笑顔を浮かべ会釈をしてくれた。
「お久しぶりです、エドワードさん!今年もいらしてくださったのですね 。ありがとうございます」
年老いたシスターが親密な笑顔を浮かべ私に話しかける。
「お久しぶりですシスター。……その、ここにお伺いしてもよかったでしょうか?事件のことはご存知でしょう?」
「もちろんですわ エドワードさん。ここは全ての善良な人たちのための家ですもの。ですから、もちろんあなたの家でもあるのですよ」
―私の家―
その言葉はひどく胸に引っかかった。
子供の頃に育った孤児院はひどい環境で、育ってから自分でアパートを借りるようになってからも、ずっと独りだった。ひどく居心地が悪く、いつも借り暮らしをしているようだった。
落ち着いて安らげる家なんてなかったのだ。
当然だが家族なんてものはいない。両親の顔すら知らず、信頼して話せる相手はおらず、初めて私が家族だと思えた相手は……
「こちらを手伝ってもらえませんかエドワードさん」
シスター達に呼ばれて私は人形劇の舞台を作るのを手伝った。
出来上がった舞台を私は子供たちや他の来場者たちと一緒に見た。
物語はマグダラのマリアの話をモチーフにしていた。
その話は許されること 、愛することを語っていた。
「罪深い私をお許しください。そしてどうか私に愛があることを分かってください。」
人形達は物語る。
マグダラのマリアは罪を悔い改め許しを得た。
―ああ、そうだ。
君を許すよ、ジョーカー。
例えそれが偽りであったとしても、君は私に光を与えてくれた。
君が与えてくれなければ、きっと私は暗闇の中で迷子になっていただろう。
私は君を許したい。
たとえ君の本心が分からなくても、君が私を欺いていたのだとしても、私は君を許したい。
だから、もう一度だけ君に会いたい。
人形たちが語り終えると、周りから大きな拍手が聞こえてきた。
人形劇が終わった後、私も他の人と同じように惜しみない拍手を送った。
やがて夕方になりチャリティーは無事終わり、私はある場所に向かった。
むせ返るほどの大量のピンク色の花が咲き乱れている。
花びらがひらひらと舞い落ち、木の上ばかりか地面までピンク色に染めている。
公園内は出店があちらこちらに出ていて、たくさんのペーパーランタンが木から吊るしてある。人の波は特に出店のあたりに集中していて、楽しげな音楽や大道芸のショーが繰り広げられている。
……彼はどこにいるんだろう?
『なあエディ週末にライトアップを見に行かないか?』
『じゃあ約束な!』
そう約束したんだ、彼は必ず来るはずだ。……その後で大喧嘩して、彼は出て行って……それでもきっと来るはずだ。
あたりはだんだんと薄暗くなっていきランタンの光はより強く感じるようになった。薄いピンク色はだんだんとランタンの光で濃いサーモンピンクになって行き人の顔はぼんやりと見えにくくなっていった。おまけにこうも人が多ければ彼を見つけるのは非常に困難なことに思えた。
もしこのまま彼に会うことができなかったら? だめだ、そうなればきっと彼との関係は永遠に修復できないだろう。
彼がこの公園内にいるという保証はなく、なおかつ大喧嘩した後だ。会えないかもしれない……いやそもそも彼はこの公園に来ていないかもしれない、そんな考えを私は頭から締め出した。
必ず会えるはずだ。
あの日、彼と一緒に見たニュースを思い出す。確かキャスターから向かって右側に出店が多く立ち並び、そばに街灯があってベンチがあり左側に池が見えた。
そうだ、その場所に彼はいるかもしれない。
確証はなかったが闇雲に探し回るより少しでも心当たりがあるのなら行って確かめるべきだ。私は人混みをかいくぐり走っていった。
街灯の光は青白い。
そしてそれに照らし出されるチェリーブロッサムの花の色も本来より白く見えた。
その下に人影を見た時、心臓の鼓動は一段と早くなった。
細身の黒っぽい服に身を包み、死人のような姿をした彼が立っていた。
それは花の色と相成ってまるでこの世のものではないような錯覚を起こさせる。
なんとか彼のそばまで走り寄って、すっかり息が上がってしまった私はうまく言葉を紡ぎ出せずにいた。
どうしよう……いいたいことはいっぱいあるのに。
「月が綺麗だな」
彼は空を見てそういった。そこには 十六夜の青白い月が輝いていた。
「あー、……昨日は満月だったからね」
「知ってるか桜の下には死体が埋まってるんだぜ?だから桜は血の色で薄いピンクに染まっているんだ」
―桜―
チェリーブロッサムの日本の呼び方だっけ。
「そう?でもこの桜はどっちかと言うと白いね」
「そりゃ、俺が桜の樹の下から出てきたからさ」
「君は生きているだろう」
「どうだろう。俺の姿を見たやつは大抵 ゾンビだの化け物だの、のたうちやがる 」
そう言うと彼はHAHAHAと笑った。
「ねぇもう一度聞くけど、どうして君は私に近づいたんだ?」
「言っただろ。 面白かったからだよ。アーカムで退屈してて、そんな時にお前を知って、いい遊び相手だった」
「本当にそれだけ?」
彼は少し黙った後ひどくバツの悪そうな顔をして私の方を真っ直ぐ見た。
「本当だ。 それでお前と離れてここ数日、遊び相手のお前がいなくって退屈で退屈で死にそうだった」
その答えに私は胸に刺さっていた大きなトゲが抜けたような気がした。
「本当に?」
「こんなつまんねぇ、ジョークにもならねぇ嘘なんかつくかよ」
彼は大きなため息を一つ付いた。
「でも君は私に嘘をついた」
「嘘じゃねえ、本当のことを言わなかっただけだ。 ……あー、いや俺が悪いか。それにお前を殺しかけちまったし」
「バットマンの事じゃないよ。私のことどうでもいいって言っただろ?大っ嫌いとも」
「それはお前の売り言葉に買い言葉で……いや悪かった。俺が悪かった」
彼は困ったように肩をすくめた。
「私も君に嘘をついた。 君のことを嫌いになれるはずなんてない。 ここ数日ずっと考えていたんだ。君が私にどんな風に接していてくれたかを」
私は正面から彼の目を見据えた。
「嘘をついたことを謝るよ。ごめん、君が大好きだ」
彼の眼が和らいだ気がした。 やがておかしそうにくすくすと笑い出しその声は大きくなっていった。
「いいんじゃないか?あの日はエイプリルフールだ。 どんな嘘をついても赦されるだろ?」
「そうか…そうだね」
そして私たちはお互いに笑い合ったのだ、あの初めて会った日のように。