映画ザ・バットマンのエドワード・ナシュトンと友達の話 作:hiro
一緒に脱走して住んでいる設定です。
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突然降り出した雨はあっという間に土砂降りになり 私は紙袋をコートの下に隠して 急いで家路に着いた。急いで階段を駆け上がるとドアノブに手をかけ扉を開く。中からラジオの音楽と彼の足音が聞こえる。
「おかえり エドワード 。」
一緒に アーカム精神病院を脱走して数ヶ月。やっと私はこの生活になじむことができた。友人との共同生活は慣れないことばかりだったけれどそれでもとても楽い。
今みたいに こんな風に誰かにおかえりと言って迎えられたことは私の人生ではなかった。それはあまりにも些細な事かもしれないけれどほんのちょっとした挨拶や触れ合う 指先が愛おしくて大切な日常を形作っていた。
「ただいま」
そう言って彼の方を見ると呆れた顔をしている。
「何だよ。ビショビショ じゃねえか!」
彼はそう言うと部屋の奥へ入って行きバスタオルを片手に 戻ってきた。
彼の手がバスタオルを広げて 私の頭へと伸びる。私はほんの少しかがんだ。
わしゃわしゃ と髪を拭かれるのは くすぐったくって、バスタオルと彼の指先からの体温が心地よかった。
スリッパへと 履き替えて部屋の中へ入って行く。
「昼から雨になるって言ってただろう。 傘くらい持っていけよ」
幾分 あきれ声の彼を尻目に 私はコートを壁にかけた。
「ごめん 、こんなに急に降るなんて思ってなかったし。」
「風邪引いても知らねえぜ」
「大丈夫だよ これぐらい。それにほら 本屋で注文していた本が届いたんだ。」私はそう言って紙袋を破り 化学薬品の専門書を彼の方に見せた。彼の口元がほんの少し笑ったように見えた。
彼は 化学薬品の知識が豊富だ。 数種類の薬物を調合し 独自の毒薬を作ることができる。その調合している工程はまるで魔法のようで 私はいつも感心しながら見ていたが 彼は決してそれらの薬物を 私に触らせようとはしない。素人が触るにはあまりにも危険すぎるからだということだった。
確かにその通りだ。繊細で複雑な作業工程はとても素人の私がどうこうできるものではない。 だけれど 私は 彼と一緒に薬物を調合したかった。
子供の頃 科学と数学が好きで自分で薬物を調合し発光体を作って 布団の中で勉強していた。孤児院の消灯時間は早くまた勉強しようにも大した本もない。孤児院の医務室では大した材料が手に入らなかったし、周りからは本を読み 勉強ばかりしたがる 私は変わり者扱いされていた。露骨に私をフリーク 呼ばわりし いじめてくるようなやつもいた。
学びたいという 私の欲求は無視され、またきちんと物事を教えてくれるような大人もいなかった。アルファベットの読み書き方すら独学だ。 たったそれだけのことすら 誰にも教えてもらえなかったのだ。
書き順がおかしいことに気がついたのはある程度 文字が書けるようになってからだが 直すにも一度 癖ついた書き方は 治らなかった。
そもそも 私のいた 孤児院では勉強どころか満足な 衣食住 すら提供されていなかったのだから。
彼と一緒に薬物を調合したい。 だけれどそのためにはある程度 しっかりと薬物の知識がなくてはならない。 基本的なことすらわかっていない私は とりあえず 専門書を書店で注文した。 ちゃんと基礎知識を入れて、そうすれば彼もきっと一緒に薬物を調合するのを認めてくれるだろう。
私は彼のことをよく知らない。アーカム精神病院で傷ついて泣いていた私に 優しく言葉をかけてくれ 友人になった。初めは 壁越しに話し合うだけの関係だった。 そんな日々が何日も続き彼は私にとってなくてはならない存在になった。
私にとって人生で初めてまともに話を聞いてくれる存在だった。
そんな相手は私の人生に今まで存在せず 私は彼と本当に対面するまでも しかすれば自分の頭の中で考えた空想上の友達 かもしれないなど思ったりしたものだ。 だから彼と直接対面した時は本当に感動した。…最も彼はその痛ましい容姿を見られるのを嫌がっていたようだが。
彼の身の上を知りたい。 けれども彼に 彼自身のことを聞こうとすると なんとなく言葉を濁すのだ。 いくつもの作り話をして(あるいは これは彼のジョークなのかもしれないが)けして 彼自身の身の上を語ろうとしない。
彼のことをもっと知りたいけれど、…彼が話したいと思わないのならば それでもいいと思う。もしかして とても辛い記憶があるのならば 無理にそれを引き出すのは彼を傷つけてしまうということだ。
彼のとても痛ましい容姿、そのことだけでも辛い記憶があることは想像に難くない。
アーカム精神病院で彼は私を癒してくれたのだから いつか私が彼を癒せればいいと思う。その時が来るまで 気長に待てばいいのだ。
「The rain doesn't seem to stop.」
雨音は家にいるのにますます 激しくなり ラジオはノイズ混じりになって聞き取れなくなった。
…rain…
rain man
ふとその言葉が耳の中で再生されたような気がした。
ニヤついたかつての上司の顔を思い出す。
「レインマン」
そう言って私のことをからかっていた いやらしい男の顔を思い出す。
私がいくら 帳簿が合わない 何かがおかしいと説明しても聞く耳を持たなかった男。容量ばかりがよく仕事は適当に辻褄を合わしておけばいいと思っているそんないい加減な男。あるいは薄々不正に気付きながら それを無視しようとする そんな薄汚い男。 …そうしてそんな人格的にも能力的にも問題がある男ばかりが出世できるという矛盾。
rain man....rain man....rain man.
おかしいのは私?
…… いいや違う !!
知的障害のある人をからかったこの言葉は立派な差別用語だ。
こんな言葉で からかってくるような人間しか私の周りにはいなかった。
freak……....rain man.
胸が締め付けられるように苦しくなる。 呼吸が早くなる。 苦しい。
……カタン!
机の上にマグカップが置かれた。
「 ほらよ。これでも飲んで 少し落ち着けよ。体が冷えてちゃ悪い考え ばっかりが浮かんでくるもんだぜ」
カップの中にブラックコーヒーが湯気を立てている。
「ありがとう」
冷えていた指先が温まる。マグカップにそっと唇を這わす。
口の中いっぱいに甘いはちみつの味が広がった。
「…紅茶?」
コーヒーだと思った それはどうやら 紅茶 だったようだ。
はちみつの成分でタンニンが生成され 黒ずんでいたのだ。優しい味と甘い香りに ほっとする。胸の痛みは緩和され 呼吸は穏やかになり それと同時に胸いっぱいに広がっていた嫌な感情は薄らいで消えてゆく。
「なあ、座学もいいが 直接実験する方が分かりやすいと思うぜ。 後で一緒に毒物調合しようか」
「うん」
濡れた服を着替え彼が薬物を調合する様を見学する。
変色する液体 、異臭 、ラットでの実験。
私は彼の指先が好きだ。あかぎれのように あちらこちら切れて血が滲んで とても痛ましいが、カサついたその指先は、どこまでも優しく私に触れて慰めてくれて 抱きしめてくれて……それから 魔法のように 何でも物を生み出せる。痛々しい 見た目とは裏腹に 器用で繊細で暖かく触れると心地が良い。
外の雨はだんだんと小ぶりになって出ているようだ。雨音は小さくなり、実験中 彼の鼻歌が楽しそうに響いていた。
‘‘幼い頃、雨の日に怖くなると、“レインマン”が来て歌ってくれた…
ボクは彼が遊んでくれる時がとても楽しい時間だった’’
ふとその言葉が頭に浮かんだ。
映画『レインマン』
サヴァン症候群の兄と弟の物語。
弟のチャーリーは死んだ父親の遺産が車と1本のバラの木だけで それ以外の 300万ドルの遺産は全て兄レイモンドに行くと知って兄を遺産相続のため病院から連れ出す。
兄と別れたのが幼すぎて記憶になかった チャーリー だがやがて雨の日に兄が歌っていてくれたことを思い出す。 幼すぎた チャーリーは兄の レイモンド という名前がうまく発音できず レインマンと呼んでいたのだ。彼はずっと兄の存在を自分の想像上の友達だと思っていた。
兄弟愛、そして人間としての変化を描いたヒューマンドラマだ。
....rain man....rain man.
耳障りなニヤついた男の声は彼の鼻歌が掻き消してゆく。
怖くて 苦手な雨の日にレインマンがやってきて歌ってくれる。
美しい物語のように。
一通りの実験が終わって部屋を出て 換気のために窓を開けるとゴッサム の淀んだ灰色の雲は洗い流されていた。
……まるで彼の瞳のような青空。