我々がいる地球は球体。重力で縛られている以上、どこまでも理論上は行く事が出来ます。
しかしそれが出来ない世界はどうなのでしょう。
アイーシャが逃げ込んだ先は。
そんな世界の果て。
世界の法則が通用しない場所でした。
一か八か。
境界を越えた瞬間、世界が変わった。
本当にそうなのだ。
息はできる。
足もつく。
だが、ここは一体何だ。
足下には、地面が拡がっているが。辺りは薄暗い。さっきまでは昼だった筈なのだが。そして、気付いた。
空が決定的におかしい。
太陽が出ているが、何だか空が薄暗く、太陽にしても普段見慣れたお日様ではない。
大きく、禍々しい。
それに、焼け付くようだ。
わたしはとっさに水で壁を造り、自分への光の直撃を防ぐ。じりじりと焼けるようだった。
わたしが抜けた境界の方を見る。
歪んでいて、景色が無茶苦茶だ。
地面にしてもしめっていて、池になっていたりもするが。いや、池と言うよりももはや沼だ。
生物らしいのは見当たらない。
植物もだ。
此処は一体何だ。周囲を見回すが、これほど命を感じない土地は、砂漠以来……いや砂漠ですらこれよりマシなのではないか。
地面を靴先で蹴ってみる。
これは土では無い。
少なくとも豊かな腐葉土ではないし、砂漠のような砂でもない。荒れ地に近いけれど、もっと酷い。
辺りにはちいさな虫なんかの死体が散らばっている。
境界を越えて戻ってくる虫は時々見たが。あれはすぐにこっちから向こうへ戻っていたのだろう。
しばらく呆然としていたが。ともかくまずいことは分かった。
魔法は使える。
それはとっさの水による壁を作れたことで確定だ。
土魔法を使って、移動を開始する。境界がどれくらい拡がっているかは分からないが、兵士達の動きからして、境界を越えることは考えていないはず。
それに、である。
境界を越えて、戻れるとは考えにくい。
境界に対して色々やってみた実験や、大きめの生物が戻って来ないという結果。それにこの焼け付くような異様な肌触りの空気。呼吸は出来るけれど、どうも肺に負担が掛かっているような感触。
長居するのは危険だろう。
とにかく移動だ。
兵士達は魔法使いも含めて、わたしが消えた辺りを探した後は戻るはずだ。これは希望的観測では無く、如何に慣れた兵士達にしても、あんな危険な山奥に長居するのは得策ではないからである。
更には、空から攻撃して来ていた魔法使いが、わたしが境界に消えたのは見ている筈である。
距離さえ取れば、発見される可能性は低い。
低確率だが、境界を犬なり人なりが超えて来る可能性を吟味しなければならなかったが。
それについても、移動する事でやり過ごせる可能性が高い。
状況から考えて、境界を越えてくる奴はいないとみて良いだろうが。
それにしても、腹が減る。
逃走中に猛烈に消費した、ということもあるのだが。
此処では魔力の消耗がやたらと早いような気がする。
巨人が境界の近くでよく見られるというのであれば、此処は人の世界ではないのかもしれない。
魔界だとか、そういう場所。
ありうる話だった。
そういえば今日は空に月が見える日だ。
そう思って空を見て、愕然とする。
月が二つある。
正確にはちょっと違う。月が二つに砕けていて、割れている。
なんだここ。
色々とおかしい。わたしは魔法の速度を上げる。とにかく急いで離れて。そしてもう一度境界を越える。
ふと足下が消える。
違う。いきなり海になっていた。それも、かなり深い色の海だ。即座に水魔法を上下に展開。
同じ系統の魔法を二つだと、違う系統の魔法二つの同時使用よりも、だいぶ消耗は小さめだ。
後方を見るが、かなり遠くに陸があった。
これはおかしい。距離とかも色々とおかしくなっているのだと見て良さそうだ。
風はない。
海は全くという程波が出ていない。
そして、境界を越えて迷い込んでしまったのか。
小魚が、波間に浮いていた。
この辺りの海は、毒になっているのかも知れない。いや、あの禍々しい太陽が原因だろうか。
ともかく急ぐ。
しばらくして、此処で充分だろうと判断。
わたしは、水で全身を覆うと、境界を再び越えていた。
一瞬だけ世界が暗転したような感覚があって。
それで、いきなりわたしは嵐の海に出ていた。即座に水魔法と風魔法に切り替えて、空を見る。
光の方向から、時刻とだいたいの位置を調べるが。
これは妙だ。
太陽の方角や、星なんかから位置を割り出す方法は知っている。スポリファールに入った時や、その後にアンゼルから習った。
それによると、わたしは多分、今はハルメンの更に東の海にいる。
地図は見た事があるから知っている。
そもそもハルメンはかなり山深い国で、その東には何があるのかスポリファールでは把握していないようだった。
海軍国家のカヨコンクムでもそれは同じだったようだが、それは恐らく航路として価値がないからだと思う。
いずれにしても、境界は至近にあり。
わたしはかなり魔力を消費している状態だ。
速度を上げて、陸がある可能性が一番高い方向を目指す。水魔法に8、風魔法に2くらいの割合で力を割き。
水の上を高速移動しつつ、波の動きを察知して、それで張り倒されて水に落ちないように気を張る。
海に落ちたら、一瞬で体力を削られる。
助からないとみて良いだろう。
しかも嵐だ。
波は文字通り丘のようで、何度も凄まじい勢いで行き交っている。どの道此処で力尽きたら絶対に助からない。
加速。
とにかく速度を上げる。
僅かに差している光と、雲間から見える星で位置を確認しつつ急ぐ。
やがて。
ちいさな島が、見えてきていた。
上陸と同時に力尽きる。
呼吸を整えながら、懐にある干し肉をかじって、少しでも力の足しにした。とにかく疲弊が酷い。
砂浜なんて上等なものはなく、この島は切り立った崖に囲まれていた。これでは人間はまず住んでいないだろう。
むしろ好都合だ。
ただし、オークとか巨人とか、そういうのが住んでいてもなんらおかしくはない。
巨人を殺したらまた追い回されそうだし。
今の残存戦力では、オークにすら勝てないだろう。
見た感じ、知っている野草やら果物だのはない。だとすると、魚を食べるしかなさそうである。
魚にも毒をもっているのはいるけれど、幸い魚に関する知識はある。
回遊魚になると世界中に住んでいるものがいて、そういうものは波間でも見かけていた。問題はそれを捕まえて、調理する余力があるか、だが。
まずは寝るしかないだろう。
残っている魔力と相談しながら、土盛りを作って、その中に。今は雨は降っていないが、こんな場所ではいつまた降り出すか知れない。
風魔法などで障壁を作っておいて、その中で寝る。
疲れもある。
日中関係無いような仕事をしていると、まともに眠れなくなるような場合もあるらしいが。
幸いわたしはまだそんな状態にはなっていない。
しばらく無心に睡眠を貪る。
起きだすと、とにかく腹が減っていた。
残っている干し肉を全て食べてしまう。結構大事なとっておきだったのだが。こう言うときに使わなければいつ使うのか。
星をもう一度見て、やはり此処はハルメンからみて更に東だと判断。
海にいる魚を、水魔法で探って、それで引っ張り挙げる。釣りなんて不確定要素が強い事はやっていられない。
水魔法で形状などを探った上で捕まえているので、それが食べられる魚かどうかはすぐに分かる。
魚を十匹ほど捕まえた後、火を熾して炙る。
これだけで魔力が尽きそうだが。脂が乗った魚にがっつくと、正直なものでどんどん回復していく。
わたしの魔力は食欲と直結している。
これが人によって色々違うらしいが。ともかくわたしに関してはそうだ。黙々と魚を平らげて行き。
土魔法で作った便所で排泄をすませると、また眠って体力の回復に努める。
丸一日そうして体力回復を続けて、それから身の回りを確認。
持っているのは、ロイヤルネイビーの中佐の階級章。後は結果としてアンゼルの形見になってしまっただろう幾つかの小物。
後は金貨が少し。
化粧品を買えとか言われたことがあったっけ。
ただ旧パッナーロではそんなもの存在するのかも分からなかった。貴族の館とかにあっただろう品は、みんな売り払われてしまっていただろうし。
いずれにしても少量だけでも金貨がある事は救いだ。
問題は服で、これはグンリで買ったローブである。
軍属である事を示すもので、他の服は荷車と一緒においてきてしまった。他には調理器具とか、そういうものもない。
身の回りの品を揃えるにしても、作れるものには限度がある。
危険を承知でハルメンに行くか。
ハルメンは実の所かなりの文明国である事は、わたしは知っている。ハルメンの軍は独自の技術を持っているし、何よりロイヤルネイビーを壊滅させた程の戦術知識や技術や兵器を短期間で反乱軍に提供できている。
軍勢の規模ではスポリファールに及ばないかも知れないが、長年あんなしっかりした国と戦い続けているだけのことはある。
だが、どんな国かまったく分からない。
そもそも兵士の顔も見ていないのだから。
食事をして体力をつけながら、今後の計画を考える。
その過程で島を見て回るが、幸い大型の危険生物はいなかった。蛇が少しいるが、わたしにはただのごちそうだ。
蛇を捕まえて蒲焼きにして、黙々と食べる。
元々風魔法も土魔法も、幾らでも蛇を捕らえる手はある。
このちいさな島では蛇が頂点捕食者だったようで、わたしをみても逃げもせず、襲っても来なかった。
可哀想だが、力になって貰う。
淡々と力を蓄えて、三日。
巨人が現れる様子もない。
境界を相当に怖れていた様子のドラダン連邦の軍勢が追跡してくる様子もない。
わたしがスポリファールにいたことを知られると面倒かも知れないが、いずれにしてもあまり大きな都市には行かない方が良いだろう。
生活用品だけ入手して、それで生活はこの島でするか。
そんな事を考えながら、わたしは海に出ようとして。
そして、ぎょっとしていた。
船だ。軍船である。
カヨコンクムのロイヤルネイビーに比べると船の大きさも大した事はないし、船団の規模も小さい。
問題は、こっちに気付いている事だ。
誰かしらの魔法使いが結界でも貼っていたのかも知れない。
さっさと逃げるか。
だが、そう考えたときには、数人の魔法使いが、空から降り立っていた。
参ったな。多分全員わたしと同格か、それ以上の魔法使いと判断して動くべきだろう。いずれにしても、出方を見るしかない。
「監視のための結界に掛かったが、随分としっかりした格好だな。 遭難でもしたのか」
「そんなところです。 この島に流れ着いて、体を癒やしていました」
「そうか、それは災難だったな。 此処はハルメン国の軍管理下にある。 すまないが、出頭して欲しい。 本土へ送ってやるから、その間に聴取をさせて貰おうか」
「分かりました」
嘘は言っていない。
それに、此奴らはそんな風に言いながらも、わたしが魔法使いである事を即座に見抜いていたし。
なんなら戦闘態勢を崩してもいない。
やっぱり蛮族でも後進国でもないじゃないか。
わたしは、国境の街の人間が、ハルメンの民を蛮族扱いしていたのを、どうしてだろうと思った。
ともかく、一緒に船へ行く。
荷物を整理するのをちゃんと待ってくれたのは優しい。一応嘘は言っていない。これは、正直に話すべきだろう。
実際問題、審問の魔法とかを掛けられた場合、嘘を言うと立場が悪くなる。
問題はまた何かしらの独自の法や不文律に引っ掛かる事だが。
わたしは、とにかく今は従う以外になかった。
この手練れの魔法使い達相手に、逃げ切る自信などとてもなかったからだ。
船は島に手慣れた様子でつけると、すぐに移動を開始する。船室であまりうまくは無い水を貰うと。軽く話を聞かれる。
わたしは遭難中だったことは話す。
流石に境界を越えたという話はしない。
ロイヤルネイビーの中佐だった事は話しておく。
これについては、ハルメンとしてもいずれ調べれば分かっただろうし。もしもそれで投獄されるとか処刑だとかなったら、死ぬ気で逃げるしかないが。
「ほう、中佐か。 なるほど、魔法の練度からもそれだけの地位にいてもおかしくない。 よく旧パッナーロの殲滅戦から生き延びたな」
「何処をどう逃げたかもよく覚えていません。 あの戦いはどうなったんですか」
「その立場なら我等が後方から反乱軍を支援していたことは知っているのではあるまいか?」
魔法使いは隠しもしない。
別に隠しても何の意味もないか。公然の秘密だろうし。
それに、あの様子だとカヨコンクムのロイヤルネイビーはほぼ全滅の筈。第三艦隊などの海上にいた部隊以外は、まず生き残れなかっただろう。
そしてわたしくらいの立場でも、腐敗のひどさが分かっていたカヨコンクムである。遠く離れたハルメンに報復なんてしようもない。それどころか、軍事力の弱体化で、一気に国が瓦解しかねない。
知られたところで、痛くも痒くもないのだ。
「途中までしかわかりません」
「そうか。 反乱軍は途中から元騎士だという男に指揮権が移ってな。 旧パッナーロのカヨコンクムとクタノーンの支配下にあった土地をほぼ奪回。 クタノーンに至っては、国境守備隊を蹂躙して、クタノーン本土の何州かを制圧したそうだ。 ただしその後は領土内の秩序回復に努め始めていて、動きは止まったようだな。 ロナウ国が傘下に戻れと呼びかけたようだが、鼻で笑ったらしい」
「なるほど、予想の範疇ですね」
「その若さで中佐だと、戦死した海賊女王のお気に入りだったのだろう。 我等を憎んでいないのか」
挑発的なものいいだが。
残念ながら答えはノーだ。
わたしは結局政争に翻弄されていただけだし。海賊女王には佐官の地位は貰ったが、それくらいしか恩がない。
少なくとも殉死してやるような恩なんて存在しない。敵討ちだってするつもりはない。
「わたしは友達と一緒に、陸軍が持て余していた所を海軍に拾われました」
「特務だと言う話だし、よほどの汚れ仕事ばかりしていたのか」
「主に賊の処理を」
「そうか。 なるほどな」
魔法使いはわたしをまじまじと見た後、頭を掻く。そして、別の魔法使いと代わった。
わたしより少し年上に見える艶っぽい女性だ。目元とか唇に紅を引いていて、わたしの前に座るときに足を組んだりしている。
何食ったらこんなばいんばいんになるんだろうと、わたしはちょっと遠い目で見てしまった。
わたしは毛並みが良いとか言われるが、幼い頃の栄養状態が問題だったので、背丈はどうしてもこれ以上伸びない。体も豊満にはならないだろう。
この人は背が伸びやすい体質もあったのだろうが、幼い頃からたくさん食べられる環境にいたのだろう。
ちょっと羨ましい。
食べられる環境にいたことが。
「今度はアタシが質問。 いいかしら」
「はあ。 どうぞ」
「随分綺麗な赤い髪だけれど、何か手入れの秘訣とかはあるのかしら?」
「時々言われますが、特に何も。 洗うのも魔法でやっています」
これについては本当によく分からない。
髪の毛に性的魅力を感じる人間は一定数いるらしく、「清潔な髪型の男性が好き」という女は何人か見たが。
わたしにはさっぱり理解出来なかった。
「あら若さねえ。 とても羨ましいわ。 アタシなんて肌の手入れだのなんだので、色々毎日時間を掛けないといけなくて」
「そうですか」
「時に貴方、どういう航路であの島に? 基本的に海流が問題で、あの島に流れ着くことはほぼないのよ」
まあ、そうだろうな。
あの島にいる間に、海流は魚を捕まえるときに見た。太めの海流からは乖離している位置にあって、彼処に流れ着くものは確かにない。
この女魔法使いは、わたしを見極めるつもりだ。
だから淡々と答える。
嘘は言わない。
「星を読めますので、それにそって移動していました。 水魔法と風魔法を使って、水上を移動出来るので」
「あら。 それは凄いわ」
「元は土魔法と風魔法で陸上移動に使っていたんですが、水上移動に応用できることが分かりましたので」
「惜しいわねえ。 ウチの国出身だったら、中佐……こっちでは二佐だけど。 地位をそのままあげられるくらいの腕よ、それ」
女魔法使いが階級章だといって見せてくれる。
ローブの下にある無駄に露出が大きい服の胸部分に、鷹をあしらった勲章があって。それによると、一佐とある。
少し階級が国によって違うのだが、この人はカヨコンクムでいう大佐にあたるそうである。
なるほど、あの技量なら納得だ。
数人の魔法使いのリーダーだろうし。
「まあいいわ。 経過観察。 海賊女王の敵討ちをするつもりがないのは本当みたいだし、しばらくは軍で身元を預からせて貰うわ」
「何かしらの仕事があるのならしますが」
「安全だと判断したらね。 貴方気付いている?」
「はあ、何がでしょうか」
艶然と喋っていた女魔法使いの空気がいきなり変わる。
氷の刃を突きつけられたようだった。
「貴方の目、人殺しのものよ。 それも何十人も殺している、ね。 それはカヨコンクムで陸軍の特務として賊を大量に殺していたのなら、そういう目になるのは分かるけれど……貴方の場合は、どこか異質。 最初から殺しが好きで好きで仕方がない危ない奴がたまにいるのだけれどね。 それに近い感じ」
まあ、そうかも知れないが。
アンゼルの同類だと言われている訳か。
それも嘘では無いだろう。
実際わたしは、人を殺す事になんの躊躇も今ではなくなっている。そういう人間は非常に危険だと言われても仕方がないだろう。
船は二日で陸につくらしい。
わたしは船室で、仕入れられるまずいパンとスープをいただきながら。
ロイヤルネイビーですら酷いものが出ていたし。
何処の海軍でも似たようなものなんだなと、呆れていた。