文字通り世界が破滅し始めました。北欧神話の終焉であるラグナロクが起きるとき、炎の国に住まうムスペルが神々の世界アスガルドを焼き払ってしまいます。
それに等しい惨禍が、世界を襲いはじめています。
人の心もそれどころか世界の法則さえも。
何もかもが雪崩のように崩れて行きます。
序、世界が炎に包まれる
呆然とするストレル一佐。ハルメン国の高官である彼女は、職場に出勤しようとする途中で、いきなり怒鳴り声を聞いて。何事かと足を止めると、其処では中年の男性と、複数の女性が顔を歪めて怒鳴り合っていた。
意味が分からない怒鳴り声。
警邏は何をしていると思ったら、いきなり全身に違和感が走る。
なんだこれ。
そう思った時には、全てが書き換わり始めていた。
最早意味を為さない言葉で怒鳴りながら、いきなりストレルの腕を掴んで来たのは、ご年配の女性だ。
知り合いである。
普段は穏やかな笑顔で果物を売りに来ているその女性は、怒りと憎悪に歪みきった顔で意味を為さない言葉を怒鳴り散らしていた。
発狂してそうなるようなことはある。
戦場でおかしくなった戦友を見た事だってある。
だが、それだけじゃない。
周り中で乱闘が始まっていた。
とにかく知り合いの女性を振り払うと、その人は金切り声を上げてわめき散らす。そこら中が、理性を失ったかのようだった。
訳が分からない。
ストレルに憎悪が向いている事に気付く。
いきなり鈍器で殴りかかってきた中年の女性を、とりあえず風魔法で放り投げて制圧するが。
立て続けに襲いかかってくる。
これは何かしらの魔法による効果なのか。
ストレルは風魔法に習熟しているが、ただし広域制圧の類は苦手だ。
抱いていた赤ん坊を地面に投げつけ、その場で踏みつけて殺す母親。
子供をよって集って槍で串刺しにする兵隊。
子供は子供で、老人に満面の笑顔で石を投げつけている。頭に石をぶつけられた老人は倒れて動かない。それを見て、指を差してゲラゲラ笑う子供。
魔法で上空に逃れるが、ストレルに向け多数の魔法が飛んでくる。とにかく回避しながら、必死に状況の整理を図る。
こんな混乱状態、初めて見る。
街一つを壊滅させるような軍用魔法はあるが、それにしても全員の頭をおかしくするようなものは聞いた事がない。
しかも今の様子では、魔法使いまでおかしくなっている。
ストレルも頭が痛い。
なんだか猛烈な嫉妬心が疼いてくる。
もっと若い女が妬ましい。
社会的地位が低い男に見られるだけで全身から殺意がわき上がってくる。
いや、おかしい。
そんな風に考える事は普段はない。
社会はどうして成立しているのか。
そもそも人間なんて生物は単では極めて脆弱だ。それがこう繁栄できているのは、互いに助け合う仕組みを作っているからだ。
バカが口にするような弱肉強食論なんかをまともに進めたら、待っているのは末期のパッナーロのような堕落し弱体化した国だ。
それは分かっている筈なのに。
頭の中がぐしゃぐしゃになりそうである。
至近。
火焔魔法を、かろうじて風魔法で散らす。
自分に近い実力を持ち、陸将の階級を持っている女性魔法使いが、浮かび上がってきていた。十二才年上の彼女は、円満な夫婦生活をしていることで知られていたが。今は憎悪に顔が歪みきっていた。
「ストレル……! 無駄に色気をばらまいて、男に媚を売って出世した(聞き取れず)が……! その腐った胸を引きちぎって喉を喰い破って……」
「グラナダ陸将!?」
「に、逃げろ……頭がおかしくなる……! 急いで……!」
「くっ!」
もうどうにも出来ない。
街が火に包まれている。頭を抑えてのたうち回っている魔法使いもいる。視界の隅に見えたのは、あれは軍師どのか。
必死に走って逃げているが、追っているのは顔を怒りと憎悪に歪めきった女性数人。いずれも殺すつもりで追っているのが一目で分かる。その中には魔法使いもいて、雷の魔法を放とうとしていた。
急降下して、軍師殿を抱えて跳ぶ。跳んでから飛行に切り替えて加速する。
運動音痴で小柄な軍師殿といっても、人一人を抱えて飛ぶのはかなり難しい。それでも必死に速度を上げる。
「ストレル一佐!」
「何があったのですか軍師殿!」
「わかりません。 いきなり周り中がおかしくなりはじめて……魔法ではこういうものを知りませんか」
「いえ、わたしの知る限りでは」
ストレルは、今腕の中にいる軍師どのに、なんだか妙な憎悪が湧いてくるのを必死に抑えていた。
異性嫌悪。
そういう考えを持つ人間がいるのは知っている。
例えば後宮で女性の醜さを嫌と言うほど見せつけられた男性皇帝が、女嫌いになって同性愛者になるようなことは普通にあるらしい。
これってそういうものなのだろうか。
だが、それ以前に頭が痛くて、おかしくなりそうだ。
「魔力抵抗はあまり関係無いようです。 魔法使いも例外なくおかしくなっているようですので」
「まずは人がいない場所に。 この街全体が、スポリファールなり他の国なりに攻撃されている可能性もあります」
「分かりましたわ」
何とか街を離れる。
その途中、収監していたアイーシャが逃げ出すのが見えた。空を飛んで、一直線に街を離れている。
今は追うどころではない。
街は地獄絵図だ。
暴れ狂っている人間は、文字通り老若男女関係無し。
ただひたすらに憎悪をぶつけ合い。
金切り声を上げながら火をひっくり返し。暴れ狂って、相手を殺して笑っていた。
駄目だ。
空に風魔法を放ち、撤退の音を立てる。
これで理性が残っている人間が、街を脱出してくれれば良いのだが。
とにかく街の郊外に降り立つ。
だが、この嫌な気配は、まるで消える感じがしない。
まさか魔法攻撃ではないのか。
それにこれだけの広域を此処までおかしくするのは、むしろ難しい。
風魔法などで、まとめて窒息というようなことは優れた魔法使いであれば一人や少人数で出来るかもしれない。
だがこの狂気じみた乱痴気騒ぎを起こすとなると、固有の魔法を使うにしても、一人二人では無理だ。
余程の大規模軍勢が来ているのか。
だが、その割りにはその気配もない。一体何が起きているのか。
呼吸を整えながら、軍師殿に離れないように言う。だが、理性が押さえつけているもう一つの心が。
このガキの分際で自分より出世しているカスを殺せと囁いてくる。
むしろ頭をぐらんぐらん揺らしてくる。
「ストレル一佐!」
「!」
警告の声。
周辺の農民が、農具やらを持って集まって来ている。いずれも目が血走っていて、殺意をむき出しにしていた。
軍人だ殺せ。
そんな感じの言葉を口にしている。
なんなんだどういうことだ。農村とは関係は良好なはずだ。軍は戦争以外では土木作業に協力しているし、災害時は農民と組んで対策に当たっている。だから信頼関係は必須なのである。ストレルも何度も気を揉んで接してきたし。農村側も災害や害獣から守ってくれる軍に感謝の言葉をいつもくれていた。
この辺りの農村は、街の周囲に点々と拡がっている。其処までこの異常が拡がっているとなると。
人間の魔法使いでは無理だ。
いにしえの時代にはそういう力を持っていた者達が暴れていた。勇者だの賢者だの、色々と名乗っていたが。
それらによる仕業なのか。
ともかく、これは無傷で乗り切るのは無理だろう。
八つ裂きだ。
農民達が叫ぶと、一斉に襲いかかってくる。
まずい。無手で制圧は無理だ。
その時、側に降り立ったのは。
赤い髪の無表情な女。
そいつが手をかざすと、農民達がバタバタと倒れる。喉を押さえて苦しんでいる者もいたが、すぐに動かなくなった。
真っ青になる軍師殿。
えげつない戦略を提示して、実行して見せたが。本人はいたって気弱で運動音痴なのである。こういう光景にも抵抗がない。
それをやってみせたのはアイーシャ。
あの東の果ての島で、捕虜にした魔法使いだ。
「殺したんですか」
「殺していません。 殺せというならそうしますが」
「……っ」
「肺の中の空気を操作して気絶させました」
アイーシャはそう倒れている農民達を見やる。その目にはなんの感情も宿っていない。
助けてはくれたのだ。
だが、このやり方はあまり感心できない。
しかし、今は、争っている場合でも無い。
わき上がってくる不可解な怒りや憎しみ、何よりも強烈なエゴ。それらを必死に抑えながら、礼を言う。
不思議そうに小首を傾げた後、アイーシャは変な事を言った。
「追放だと言われるかと思いましたが」
「そんな事は言わないわ。 ともかく、此処を離れましょう。 ちょっとこれは尋常ではない。 何処かの国の軍による攻撃と最初は思ったのだけれど、違うわね」
「首都に向かいましょう。 方向は僕が指示します」
軍師殿は意外と冷静だ。
街の方がドカンと何かの要因で爆発したようだった。
もうあれはどうしようもない。
鎮圧も出来ない。下手に近付けば、ストレル以上の使い手が複数出てくる。それも最初から殺す気で来るだろう。
悔しい事に見捨てる事しか出来なかった。
軍属としては本来だったらこっちの方が悔しいはずなのに。
それ以上にわき上がってくる不可解な嫉妬やら怒りやらを抑えるのに、脂汗まで流し続けなければならなかった。
ストレルと軍師と呼ばれていた子供を助けたのは気まぐれだ。
というか、助けたは助けたけれど、襲ってくるようだったらその場で殺すつもりだった。
疲弊しきっているようだったし、負ける事はなかったし。
何より後で脅威になる可能性も高かったから。
軍師と呼ばれていた子供と一緒に北上する。
その間、何度もストレルは撤退の指示らしい魔法を打ち上げていたが。それに応じるものはなし。
彼方此方で火が上がっていて。
街が丸ごと燃えているような状況も珍しく無かった。
農村では殺し合いが起きていて。
大事な田畑を火に包んで、農村そのものも燃えていた。
賊が暴れそうだが、そういった賊も殺し合っているようだ。
異常はそれだけではない。
途中で、ハルメンのオーク牧場にさしかかった。名前の通りの場所で、ストレルの話によると此処で軍用オークを育成している。
場合によっては使えるかも知れないと判断したようだが。
其処は既に無人。
まあその可能性は想定していたが。
そこには変なのがいた。
豚人間とでもいうべきなのだろうか。
わたしが知っているオークとは違う。
粗末な衣服を着ていて、まんま直立した豚(とはいっても豚よりも小さいが)みたいなのが、何やら話している。
「孕ませる人間の女はいねえかあ」
「いねえ」
「男はみんな殺しちまった。 必要なのは女だあ」
「さらってくるぞ」
おかしい。
軍師どのがぼやく。
オークはそもそも姿があんなではない。わたしもそれは見たので知っている。
言葉だって喋れない。
あれがオークなのか、新しくどこかから現れた存在なのかはちょっと分からないのだけれども。
いずれにしても、此処には制御出来る軍用のオークを探しに来たのである。
あれらはとてもではないが、役に立たないだろう。
始末して欲しい。
軍師どのに言われて、頷いて出る。
気付かせる必要もない。
風魔法を行き渡らせて、辺りを何の意味もなさそうにうろついているのも含めて、位置を把握。
後は一網打尽に、毒ガスを肺の中に発生させて、皆殺しにしてしまった。
これでよし。
倒れ伏している豚人間。ストレルが嘆息していた。
「オークを軍用化して、制御するのに本当に苦労したのにね」
「人間をエサにしていると言うのは本当ですか」
「……本当よ。 ただし人間をエサにしてあそこまで大きくしていたのではなくて、戦場で敵を恐怖させるために、人間も積極的に食うようにさせていたのだけれど」
「そうですか」
わたしはそのせいで一度追放されたのだが。
まあ、それを根に持っても仕方がない。
無人になった軍施設を調べる。
殺された男性の死体が積み上げられている。此処の職員だったような連中とみて良いだろう。
食われていない。まああのオーク、人間と大差ないし、ゴブリンと同等くらいの体格しかなかった。
それでも豚は強靭な顎で人間なんか骨ごとかみ砕くのだが。この様子では、それも出来る様子はない。
女性の死体も見つけた。
死ぬまで強姦されたようだった。
こんなにしたら孕むどころではないだろうに。
なんなんだ。
手記を見つける。
急いで此処の職員が書いたようである。
皆がおかしくなって、オークがいきなり人間大まで縮んだ。それどころか、豚が直立したみたいなのになった。
そんなのは脅威では無い。
それほど仲も悪くなかった職員が暴れ出し、殺し合った。結果として、オークもそれに加わって。
此処はもう駄目だ。
出来るだけオークは間引いたが、それでも殺し尽くすのは無理だ。オークは小さくなったが数がやたら増えた。
誰かこれを読んだら、オークを始末してくれ。
俺もいつまで意識がもつかわからない。今も手が震えていて、何を書き出すか自分でもわからない。
その文字の後、手記は血に染まっていた。
側に、死体を引きずっていった跡が残っている。オークが死体を引きずっていって、積み上げたのだろう。
この牧場のオークは始末できた。
だがゴブリン牧場もあるらしい。
この様子では、其処も地獄絵図だろうなとわたしは思った。
誰か、逃げ延びて孤立しているものはいないか。
そう軍師が何度も呼びかけるように頼んで来たので、仕方がないのでやる。このままだと、逃げるどころではないだろう。
人を見つけたと思ったら、訳が分からない金切り声を上げて襲いかかってくる。そんなのを何度も見た。
山の中を移動しながら、ストレルが何度も吐いていた。
そして、狼煙やら、軍用の撤退指示になる音とか、そういうのを上げたり鳴らしたりしていたけれども。
それで誰かしらが合流してくることもなかった。
これはハルメンは終わりかも知れないな。
そう思って、ひたすら移動する。
大きめの都市の側についたが、やはり大炎上している。内部では組織戦すら起こらず、無秩序に殺し合っているようだった。
「これはいくら何でもおかしすぎる」
「すぐに離れた方が良いでしょう。 魔法使いは相変わらず魔法を使えるようですし、察知のために魔法をつかったら、即座に襲ってくる可能性も高いので」
「くやしいけれどその通りね」
「何か情報でも得られればいいのですが」
軍師が呻く。
わたしはストレルと軍師を観察していたが、此奴らもいつ錯乱してもおかしく無さそうである。
特にストレルは、何度か寝る寸前に、軍師の首に手を伸ばしているのを見た。
冷や汗を掻いて止めていたが。
一体これは、何が起きているのか。
わたしも流石に状況が不可解すぎるので、少しでも理性が残っている人間とは離れたくない。世界そのものが発狂したとしか思えないこの状況で。
わたしは彼方此方逃げ延びてきた勘もある。
少なくとも何が起きたか分かるまでは、この二人と行動するしかなさそうだった。