辺境伯について
パッナーロ国は辺境伯制度を採用しています。国土が広く、東と西に領土を接した大国が存在し、北は海を隔てて同じように大国が。南には何度か遠征して落とせなかった峻険な国が存在している事から、東西南北に辺境伯が配置されています。
アイーシャがいたのはその東の辺境伯領ですね。
ただこの国は国土の大きさもあり、兵力が数だけ多いこともあって、他の国の脅威を余りにも侮っていました。
その破綻の切っ掛けが百年ほど前の東の大国、スポリファールとの戦いです。
この戦いで壊滅的なダメージを受けたパッナーロの遠征軍。文字通り手も足も出ない程技術に差ができていたのです。特にお家芸だったはずの魔法は完全にスポリファールが上。それも巨人と幼児くらい力の差がある状態になっていました。それを知って以降あわてて東の辺境伯に兵の強化と優れた魔法を使えるようになるようにパッナーロの王室は指示を飛ばしたのですが。
魔法の才がそもそも遺伝しないこの世界。
だからといって、何もできることはなかったのです。ごく僅かな貴族が重税を絞りとって浪費になれている事もあり、国全体がそもそもガタガタでしたし。
何度も来る王室からの催促に、精神を病んでいった伯爵の末路が近付いています……
リブルズ辺境伯爵領。パッナーロ国東の国境線を抑える伯爵領の兵士は、古くは精鋭だった。
しかし今やすっかり質も落ち、ただの愚連隊同然となっていた。
それに対して、近隣各国との戦闘で鍛えに鍛えられ、砂漠を余裕を持って越えてきたスポリファール国の西部方面軍団は、六個師団五万の戦力を有し、指揮官として騎士団長ブラフマが着任。
突如現れた五万もの大軍を前にして、リブルズ伯爵領の兵士達は何もできなかった。
練度、装備、魔法を使える人員の数。更には根本的な人数。
何もかもが違い過ぎた。
パッナーロ国全体の戦力は二十万とも言われるが、この伯爵領の戦力はせいぜい八千。それも、兵士として機能していたらだ。今はその八千は、烏合の衆に過ぎない。パッナーロ国はその広大な国土と人口から、周辺国からは恐れられてはいた。百年前まではだ。
百年前の「西ステイクス会戦」でパッナーロ国の遠征軍が、兵力でも技術でも格下だったはずのスポリファールの軍に正面決戦で壊滅的な打撃を受けてから、全てが変わった。各国の密偵はパッナーロに侵入しては、その実態を確認。現在は技術も遅れ、貴族達も腐敗しきり、魔法を使える戦士も組織化されず、何より誰も民はこの国の統治を歓迎していない。
それらがはっきり分かっていた。
だからスポリファールは侵攻に出た。
百年前の虐殺の借りを返すため。
何より豊富な資源がありながらそのままに放置されている土地を抑えて、周辺国との戦いに備えるためにだ。
完全に格が違う相手。籠城戦であれば、まだ時間稼ぎは出来たかもしれないリブルズ伯爵領の軍。
それでも迎撃を指示され出たリブルズ伯爵領の兵士達が見たのは、空から降り注ぐ燃える石の群れ。
戦闘は起こらなかった。
正確には、戦闘と呼べるものにすらならなかった。
隕石群で数秒の内に、ろくに陣列も整えられなかったリブルズ伯爵領の兵士は、粉みじんに消し飛んでいた。
「敵野戦軍消滅!」
「防御魔法はどうした。 何故使ってこない」
「防御魔法を使える魔法使いさえいないのだ。 既に偵察で確認されている」
「なんてことだ。 賢者の国の末裔が、今では魔法の後進国か……」
ブラフマが、ひそひそと声をかわす幕僚達を叱咤。
今のうちに、此処を制圧し、拠点化する。市街戦になれば被害が拡大する可能性もある。その前に迅速に市街地を制圧せよ。
兵士達が動く。
それは地上でもっとも獰猛な生物、人間の本領発揮。
如何なる猛獣よりも迅速に動いて、市街地を制圧して行く。
これが近隣国との戦闘だったら、市街地を生かしたゲリラ戦を挑んでくる事も多く、兵士に被害を出す事を覚悟しなければならないのだが。
緒戦で粉みじんに砕かれたリブルズ伯爵領の戦力は、その時点で既に払底していた。
この国が失ったのは魔法の技術だけでは無い。
戦術も、だった。
それでも市街地に兵が突入すると、抵抗で死傷者が出る。
しかしその市街戦でも既に両者の戦力差は明白。それだけ市街戦は攻め手に被害を強いるものなのだが。
それだけの優位があってもなお、どうにも出来ないほど。
両者の力の差は開いていた。
昔は、パッナーロ国の常備兵二十万は大陸最強とまで言われ、怖れない存在は誰もいなかった。
今、その伝説は。
微塵に踏み砕かれていた。
燃えさかる炎の中で、フラムが炎の魔法を射出。義理の母親だった存在を、消し炭に変える。
どうと倒れる死体。
そもそもフラムのことなんて覚えてすらいなかったようだが。フラムの顔を見て、誰という目をしていたし。
まあ分かっていた。
伯爵家がおかしくなりはじめたのは、王家の査察があってから。スポリファールから聞いた話によると、どうやら王室側はこれ以上醜態をさらすなら魔法が使える人間を抜擢して辺境伯にする。
もしくは辺境伯を別の人間に変える。
そうとまで言ったらしい。
現在此処まで土地の統治が上手く行っておらず、スポリファールから攻めこまれたらひとたまりもない事は分かりきっていた。
だから辺境伯もそれはそれで困り果ててはいたのだろう。
だが、長い年月特権に浸かり。
搾取になれてきた伯爵は、何も知らなかった。
もはやノウハウの全てが失われてしまっていた。
誰かに頭を下げて教えを請えば良かったのかも知れない。
だが、「賢者の子孫」というプライドが、それを許さなかった。
馬鹿馬鹿しい話だ。
国がまるごと焼け落ちることに、プライドが優先するとでもいうのか。貴族の命は多数の人間の生活よりも上なのか。
泥水を啜って生きながら、フラムはこの国のくだらなさを思い知らされた。
だから全て焼き尽くすと決めたのだ。
甲高い悲鳴を上げて、豚みたいに太った女が逃げ出す。
義理の姉だったか。
背中から炎の魔法で焼き払う。
この炎の魔法にしても、スポリファールではこの程度の使い手幾らでもいると言われたっけな。
彼方は途中で魔法の才能が遺伝しないことに気付いた。
ただ、違いはそれだけだった。
それで、長い時間がこれだけの力の差を作りあげてしまった。
スポリファールが来なければ、この国は内乱で自滅していただろうなとさえあのアプサラスという騎士に言われた。
まあその通りだろう。
だが、その通りだとしても。
この伯爵の一族だけは、許さない。
あのガキ。アイーシャは幼い頃の事を忘れてしまったようだが、フラムはその全て覚える才能が故に覚えている。わざわざ口にはしないが。
田舎の静かな家庭。
寡黙な父と、優しい母。
やっていたのはちいさな大工。フラムも幼い頃から家を手伝って、静かに暮らしていた。
其処にいきなり破落戸が来て、両親が文字通り豚みたいに殺された。
フラムのまだ幼い妹も、目の前で嬲り者にされた挙げ句。首を落とされた。まだ五歳だったのに。
魔法が使える。
それが何処かから伝わったらしい。
どうせ村の誰かがたれ込んだのだろう。今に思えば静かな田舎だったが、ロクな場所でもなかったのだ。金になるなら、親兄弟でも売る。それが当たり前の場所だったのである。
そのまま奴隷商に引き渡されて、伯爵家に売られて。
それで、役にも立たない魔法の訓練をさせられて。
あげく、気にくわないからと捨てられた。
何もかも此処の伯爵家のくだらないプライドのせい。この腐った国のせい。
だから残った命の分だけでも。
全ての復讐で、焼き尽くしていくだけだ。
伯爵の屋敷のメイドやら下男やらには目もくれない。さっさと行けと言い残して、屋敷を焼いて回る。
斬りかかってくる奴もいるが、即座に焼き殺す。
汗が止めどめもなく流れる。
暑い。それ以上に、魔法を使いすぎているからだ。
アプサラスには約束させた。
伯爵家に突入するのは夜明けに鶏が鳴くまで待つ。それまでは、どれだけ燃えていようと突入はしないと。
アプサラスは約束を守ると言った。
あれは悪党だが、約束は守る奴だとフラムは地獄を這いずった経験から分かっていた。だから、アイーシャをはじめとして。自分の破滅につきあわせる必要はない人間を預けたのだ。
「あちいなあ。 ひひひっ……」
伯爵家の人間が自慢していた家宝を、目につく度に焼き払う。
どれも重税を掛けて街が廃墟になるまで搾取して。それでむしった金で、お抱えの画家だのに描かせた絵だったり、いずれにしてもろくなものでもない。全て焼き尽くしながら、恐らく伯爵が篭もっている奥の間に。
天井材が燃え落ちてきた。
至近。
まだちょっとだけ死にたくないんだよ畜生が。
フラムは自分の服が燃えているのも気にせず、歩く。
暑いし熱いが、もうどうでも良かった。
ドアを蹴破る。
其処には、血走った目の男がいた。壁になついていて、手には大きな剣を持っている。間違いない。
辺境伯。
正確には第十二代目リブルズ伯爵家当主、オライオ。
アイーシャは名前すら教えられていなかった。
そもそも城下の人間も、伯爵という生物として認識していたようだ。貴族以外を人間と認識していなかったようだし、お互い様だろう。
そしてその生物は、明かな害獣だった。
「よーお伯爵。 どうせその様子だと、俺の事なんか覚えていないだろうがよ」
「誰の許可を得て人間の言葉を喋るか、けだものが!」
「貴族様だけが人間ってか。 ま、そんなんだから今屋敷は燃えているんだがな」
「お、おのれ、貴様が、貴様が全てを隣国に売ったんだな!」
売らなくてもこうなっていただろうが。
スポリファールはいずれ必ず攻めてきた。そして一瞬で野戦軍が壊滅したように、例えパッナーロが備えていて軍を準備していても、結果は同じだっただろう。
軍隊同士の戦闘は実の所戦術だの以前に戦略で勝負がつくそうだ。
あらゆる魔法技術を高めて実戦配備しているスポリファールの軍勢と、賢者の子孫という肩書きに胡座を掻いて研鑽を怠ってきたパッナーロの軍勢では、そもそも人間の数で戦力を計算できない。
スポリファールの魔法と連携して動く事を前提とした軍勢が10人いれば、恐らくパッナーロの軍勢100人分として計算しなければならないだろう。いや、遠めに見たあの隕石の一斉射を見る限り、もっと差はあるかも知れない。
ふっと鼻で笑うフラムを見て、伯爵は激高する。
こいつ、剣の腕だけは確かだったらしい。
魔法なんか一切できなかったから、その鬱憤を晴らすためだったのだろうか。
何代か前の当主は、魔法が使えると称して、炎を出す筒を作らせて。それを見せびらかしていたらしいが。
例のスポリファールとの戦いで、そんな筒は何の役にも立たずに敵に討ち取られたそうである。
剣を抜き、喚きながら襲いかかってくる伯爵に。
伯爵とは血縁も何もなく。
それどころか賢者の子孫でもなんでもないフラムは、一息に最大火力の炎の魔法をぶっ放していた。
屋敷が内側から吹っ飛ぶ。
がらがらと落ちてくる瓦礫の中で、フラムは笑う。
手下達は、この屋敷には一緒に来ないでいいと言っておいた。目端が利く奴は、多分逃げ出しただろう。
とろい奴は今頃うろうろしていて、スポリファールの兵士に狩られているかも知れない。
お前達はただの犯罪組織だ。
情報の価値を考え、伯爵の首だけはやる。
だがその後、迎え入れてやるなどとは思うなよ。
アプサラスはそう言った。
そして奴は、フラムどころか、フラムの組織を全員相手にしても圧勝できるだけの強さがあるのが、肌で分かった。
だから本来は交渉など成立する相手ではなかったのだけれども。
交渉が成立したのは、或いは。
全てを奪われた哀れな鼠に、慈悲を掛けてくれたのかも知れなかった。
綺麗に焼け残ったな。
そう思いながら、フラムは転がっている伯爵の首を拾い上げる。体の方は、瞬時に焼け砕け散った。
吐血。
もう時間がない。
焼け落ちていく屋敷の中で、ふらふらと歩く。
最後に、一番奥の部屋に辿りついた。
其処は伯爵家がまっとうに動いていた頃は、政務に使われていたらしい部屋。今ではただの物置だ。
其処にあるデスクにつくと。
デスクの上に、伯爵の生首を転がした。
外が既に見えている。屋根も壁も焼け落ちたからだ。
空はもう開けていて、夜明けになっていた。
スポリファールの軍隊は、もう突入してくるだろう。いや、して来たようだ。彼方此方で、火が急速に消えて行っている。
この屋敷、それなりに規模があったのだけれど。
大規模火災への対策も、しっかりできるだけの魔法技術があるというわけだ。
くつくつとフラムは笑う。
もう目が霞んできている。
やがて、囲まれているのを察する。それくらい長い時間、意識が飛んでいた。多分、これが最後の意識だろう。
顔を上げると、フラムは顎で首を差す。
「伯爵様の首だよ。 もっていけ」
「……そうか」
「最後に空だけ見せて貰えるか。 何もかも終わった今は、空だけ見ていたいんだよ」
返事はなかった。
何もされなかったようだった。
別の国に生まれていれば、もっとましな人生を送れたのかも知れないな。命尽きる瞬間に、フラムはそんなことを考えていた。
屋敷の消火を済ませると、アプサラスは野戦陣地の構築を指示。
既に城下の混乱は収まりつつ有り、指揮所が機能している。スポリファールの兵士は、少なくともブラフマ指揮下にある兵士は規律を叩き込まれている。
略奪は死刑。
これは金銭内容に問わず。
強姦なんかした場合は、死ぬだけでは済まされない。戸籍も何もかも奪われた挙げ句、末代までさらし者にされる。
ただ、こういう堅い規律が守られているのも、兵士にしっかり給金が支払われているからである。
この貧しすぎる有様を見ると、こんな国を制圧しても、すぐに利益に変えられるかは甚だ怪しい。
そうアプサラスは報告書を出していたのだが。
まあそれは本国から遅れてやってくる政治士官の仕事だ。アプサラスみたいな戦争屋は戦うだけである。
これから更に本国から三個師団が来て、他の師団は遊撃に各地の貴族領を制圧して回る事になる。
それらもとっくに調査済で、兵士の質はここと大して変わらない事が既に分かってしまっている。それであれば、万が一にも負けは無い。
恐らくあわててパッナーロは王都から親衛師団を含めた十万程度をかき集めて急行してくるだろうとみられているが。
今回の件は周辺国も察知しているはずだ。
特に北部の海を隔てた大国、カヨコンクム王国は、自慢のロイヤルネイビーを繰り出しての海上からの侵攻作戦に出るはず。
場合によってはパッナーロとの緩衝地域にある幾つかの島国を狙う可能性もあるが、より大きな領土を容易く狙えるこの機会を無駄にするとは考えにくい。
南部や西部の国家も動く可能性がある。
そうなると、パイの切り分け合戦になる。
いずれにしても、迅速に敵主力の撃破と、敵国の切り取りが急務だ。それらの戦いで被害を最小限に抑えるためにも、初動で文字通り燎原の火が如く敵を焼き払い、弾みをつけなければならないが。
部下が来る。
十二で騎士になった俊英で、とろそうだが最強の騎士になるのではないかと噂されている奴だ。
アプサラスも若くして騎士に就任したが、此奴の才能はちょっと図抜けている。
いずれは国家元首かもしれなかった。
ふわふわした女で、いつもへらへらしている。これで剣の腕は凄まじく、勝てる奴は見た事がない。
魔法の方は他に優れた奴が何人でもいるのだが、こいつの強さはいわゆる固有魔法が強力なことだ。
それと剣の腕が合わさると、とてもではないが対応できない。
アプサラスも戦うことに万が一でもなったら、初手で相討ちを狙うくらいしか考えが浮かばない。
「様子見てきました。 幾つかの国の密偵が見に来ていましたね。 殺すのもなんですので、全部捕まえておきました」
「流石だな」
「一応もう組織的な抵抗は止まっています。 もともと伯爵さんが一家もろともあんな人でしたし、死んでせいせいしたって人も多いみたいですね。 それでも伯爵さんのために最後まで踏みとどまって死んだ人も少しだけいたみたいです」
「そうか。 戦士として、不利になったらすぐに旗を変えるような輩は信用できない。 立派な人物達だ。 丁寧に葬ってやってくれ」
こいつは戦況を全て見切った上で、その報告をしに来ている。
野戦病院で負傷者の手当ては進んでおり、既に被害は概ねまとまっていた。死者は五十人程度と、この規模の街と軍を相手にしたにしては、ほぼないに等しい。
この報告も、各国に飛ぶはず。
あの部下……アルテミスの能力が如何に図抜けていたとしても、それでも人間だ。
数百年前の混乱の時代には、アルテミスは当時の言葉で「雑魚」だの呼ばれた程度の存在に過ぎないが。
今の時代に限れば。単騎で小規模な戦闘ならひっくり返す。
ただ、流石に伯爵領全域の敵性勢力を抑えきれない。
それが人間の限界である。
ほどなくしてブラフマが参謀達と来たので、状況を軽く話す。侵攻作戦については、もう事前に何度も対応を協議しているので、そのまま進めるだけだ。
他の国が介入してくる前にどれだけ土地を切り取れるか。
また、如何に相手にならないと分かっても、敵の主力部隊は十万は出てくる。数だけは相手が上。
それを味方を揃えて、最小限の被害で撃破する事も考えなければならない。
アプサラスは、フラムに頼まれ逃がした人間達の事は既に考えていない。
部下まで護衛につけて本国に送ったのである。
これ以上の事はしてやれないし、するつもりもなかった。
それが軍人としての思考法である。
軽く軍議をしてから、遠征軍に参加している第三師団を率いて、アプサラスは西に直進する事になった。
この進路には幾つかの男爵領、子爵領が存在し、どれもが取るに足らない程度の兵力しか備えていないが。
問題はそれらではなく、この道を行く事で、最悪敵の本隊と正面衝突することになる。
このためアプサラスに与えられた第三師団は制圧よりもスカウトを優先して、敵軍の動きをより精密に知らなければならない。
他の師団は指定されていた領域を制圧して、指示があれば戦闘を中断して戻ってくるだけの話なので、気が楽だ。
敵に優れた軍司令部でもあれば話は別なのだろうが、残念ながらここ数年の小競り合いなどの記録を見る限り、百年前と変わっていない。むしろ衰えている程である。
リブルズ伯爵領には念の為に司令部を要する第一師団が残るが、最悪の場合第一と第三だけで敵の本隊を相手にしなければならなくなる。
アプサラスも経験を積んだ指揮官だ。
そこまでの無様をするつもりはないが。
戦場に「まさか」はあっても絶対はない。
それもまた、多くの戦場を経験して、アプサラスが知っている事であった。
わたしは他の国を出る人達と一緒に、砂漠を歩いていた。
後ろでどんと凄い音がして。
空が明々と燃え上がっているのが分かって。
夜だというのに、住んでいた辺りが明るくなっていて。
ああ、終わったんだなというのが、見ていないのに分かる程だった。
多分、数え切れない程死んだ。
フラムは逃がしてくれた。
ただ逃がせたのは、身内だけ。
力が及ぶ範囲だけ。
それがこの人数。
今はそれは分かっていた。
わたしには、それを拒否する事もできなかったし。拒否しようともできなかった。ただ流されるだけ。
今だって、あれに巻き込まれるのはいやだって思っている。
それはそれとして。
砂漠を黙々と歩くのは、それはそれで辛かった。
歩くのは夜だけ。
そう護衛の戦士達に言われている。
護衛の戦士達に渡された靴を履いた。そんなもの、今までろくに履いたこともなかったから、驚きだった。
靴を履かなければならないのは。
砂漠の砂は細かく尖っていて、そのまま歩くと足は血だらけ。傷に砂が入り込んで、酷い事になるという。
砂漠に暮らしている人はみんな体をできるだけ覆っているが。
これは身を守るためには仕方がないのだとか。
また、昼間は想像も出来ない程暑くなる。
今までわたしがいた伯爵領から一日くらいで砂漠に入ったのだけれども。それで確かに、露骨に恐ろしい程暑くなった。
だから昼は移動しない。
夜にガチガチに身を固めて移動する。
移動する間、できるだけ無駄口は叩かない。
隊列も乱さない。
そういう風に指導を受けて、みな黙々と砂漠を歩いていた。
倒れそうになる老人を、何頭かいる砂漠馬に、護衛の戦士が乗せる。水は潤沢にあるが、基本的に一日の半分しか動けないので、進むのはゆっくりだ。
護衛の戦士達は、なんだか分からない道具を使い。後は影の方向と太陽の高さを見て、時間と今の方角を判断し。
それでスポリファールという国に向かっているようだが。
わたしには、ついていくのがやっと。
体力はもともとないほうだ。
だから、何度も倒れそうになって。
寒さの中で、必死に歩くしかなかった。
途中でオアシスという場所に出る。軍が基地を作っていて。護衛の戦士達が、色々と説明をしてくれた。
わたし達はパッナーロ国の協力者という扱いらしい。
アプサラスというあの恐ろしい女性騎士が指示したと言うと、基地の戦士達はすぐに態度を軟化させてくれた。
やっとそれで柔らかい寝床で寝る事ができて。
出る食べ物も、今までとは比較にならない程おいしかった。
夜の間に少しだけ外に出て良いと言われたので。オアシスの基地を見るけれど。凄く規模が大きい。
此処はパッナーロ国に攻めこむための中継地だとかで、たくさんの物資が蓄えられていて。
それだけではなくて、たくさんの人が此処からパッナーロに忍び込んでは、情報を探っていたらしい。
国のことはたくさんの人が絡んでいて。
下の人間は、どうして国がそう動いているかよく分からないものなのだとか。
ただし、だからこそに国が腐ってしまうとどうしようもなくて。
一から作り直さないといけないらしい。
兵士にできる事はあるかと言われたので。湯を沸かしたり、風をある程度操ったり、手術の手伝いとか、陶器を直すとか。そういう事について話すと。それだけできれば充分だと言われた。
それで湯沸かしをした。
兵士は随分と規律がしっかりしていて、全員がまるで一つの生き物みたいだったけれども。
それはそれで怖かったし。
もしも逆らったり逃げたりすれば、にこにこ笑っている兵士が、即座にわたしを殺すだろう事もすぐに分かった。
お湯を沸かすと、それを冷やす。
そうすることで、安全に水として使える。
何度もやらされる。
水はたくさん蓄えておく必要があるらしい。
オアシスは水が湧いているから、たくさん水があるように見えるけれど。それらの水だって、安全なものとは言い難いのだとか。
「お前、ろくに教わってもいないのに、魔力が底無しか?」
「いえ、おなかが一杯なので……」
「魔力は体力と相互依存の関係にあるが、それにしても凄まじいな。 アプサラス騎士隊長がお前については色々指示を出しているが、それも納得だ」
魔法が使えるらしい兵士がそう感心して。
此処の責任者を呼んでくる。
責任者は鎧を着込んだ初老の女性で、貫禄があって目つきも鋭かった。
わたしをしばらく値踏みするように見て、仕事をどれだけこなしたかを説明を受け。それで、わたしが湧かした湯を確認して。それで頷いていた。
二日、オアシスで逗留した。
その間に、わたしはできるだけのお湯をわかして。そのお湯を冷やして。それは軍の基地で貯蔵していた。
わたしの仕事は普段は数人の兵士が持ち回りでやるらしく。
それもその兵士は魔法の適性がある訓練された大人らしくて、なんだか凄いらしいというのは、何となく分かった。
ただ、それで嬉しいかというとノーだ。
わたしだって、伯爵の家で殺されかけたり、勝手に放り出されたことは良く思っていない。
あれは今は知っているが奴隷という奴だったそうだ。
スポリファールでは奴隷制は禁止されているそうで、それだけで羨ましいと思う。
でも、良い事ばかりでは無さそうだなとも思うのだった。
二日して、オアシスを出る。
護衛の兵士が増員されていた。
それだけじゃない。
すれ違いに、凄い数の兵士がパッナーロ国の方に向かうのが分かった。砂漠をものともせずに越えていて。
とんでもなく大きな虫がいて。
その虫の背中に、たくさんの荷物を載せている。
「なんですか、あの大きな虫」
「あれは砂漠大ヒラタクワガタという虫でな。 何百年も生きる上に、エサの覇王樹の蜜さえやれば従順になる。 ただ戦いは嫌がるから、ああやって荷物を運ぶことに主に使う。 夜行性だから、こうやって夜に移動しているときには、何よりも頼りになる」
見上げるほどの大きさだ。あれだけで、伯爵の屋敷より大きいのではないのか。
兵士は少しずつわたしに話してくれる。
わたしが逃げる気がないのを察したからなのだと思う。
それでも、もし逃げるそぶりがあったら、即座に殺すだろうけれど。
フラムの所の破落戸は恐怖で縛られていた。
それは知っている。
でも、この人達は少しずつ分かってきたのだけれども。
訓練で縛られている。
それはどっちが良い事なのか、悪い事なのか、よく分からない。
はっきりしているのは、今はこの人達について、スポリファールに行くしかないということだ。
わたしよりちいさな子供がぐずっていて、ハイム先生が苦労してあやしている。
眠っている子供を、飯炊きのおばさんが背負って歩いている。
老人はなんとか歩けるだけは歩いているけれど。砂漠馬に乗せて貰っている時間の方が多そうだ。
そうして、次のオアシスについたのは三日後。
まだ幾つかのオアシスを経由しなければ、スポリファールには到着しないそうである。
そんな距離をものともしないスポリファールの軍が。
人攫いだとかと一緒になって悪さをしていたパッナーロの軍と比較にもならないのは、それだけで分かる。
時々、砂漠で大きな蛇みたいなのが泳いでいるのが見えたけれど。
兵士達がなんだか分からない魔法を使うと、大慌てで逃げていく。
「あれはサンドワームだ。 正確には虫ではないらしいんだが。 古くの時代に、この辺りで暴れた「聖女」がそういう風に呼んだらしくて、それで今でも名前がそうなってる」
「この辺りでは「聖女」が暴れたんですね」
「パッナーロだと「賢者」だったよな。 古くの時代には、どうしてかそういうよく分からない肩書きの人間がたくさん現れて、世界を滅茶苦茶にしたんだ。 殆どの奴はすぐに塵になっちまったそうだが、一年だか二年だか暴れただけで、人が死に絶えた土地すらあったらしいぞ。 それだけじゃない。 ある「剣聖」だとかは、虫が嫌いで気に入らないだとかで、その土地にいた虫を全部殺したんだそうだ」
虫を全部。
虫を根絶やしにするのは、人間を全部殺すより余程大変な事だと思う。
それで感心していると、兵士は人に教えるのが楽しいのか、説明してくれる。
「虫を皆殺しにしたら、それをエサにしている大きな動物が全部死んじまったらしくてな。 草とかも生えなくなっていって、それでその土地はあっというまに荒れ地に変わってしまったらしい。 元に戻るまで百何十年も掛かったらしいんだが、それだけの事をやらかしていながら「剣聖」とかいう奴は一年くらいで塵になっちまったらしい。 まったく、迷惑な話だぜ。 それに剣聖とかいいながら、あらゆることを剣術だと言い張って、何でもできたらしいしな。 暴れていた連中は、どれもこれもがそんなだったらしいし、地獄だったんだろうな当時は。 今以上のよ」
ある土地では、女性は顔を墨で塗って、まともに分からないようにしていた時代があったらしい。
それはその地に現れた「勇者」が、自分好みの女とみるや、人妻だろうが幼児だろうが片っ端からさらって手込めにし、挙げ句に飽きたら捨てていたからだそうだ。それだけではなく、さらってからは「催眠」という今では遺失している魔法で相手の心を好き勝手にねじ曲げ、それでなんでも言う事を聞かせていたらしい。
飽きたら捨てるのだが、それで「催眠」も壊れてしまうらしく。捨てられたらその場で衰弱して死んでしまう。
それを「勇者」は見向きもしなかったし。
なんなら子供ができた場合も即座に飽きて捨てていたらしく。その国からは、一時期女性が姿を消したとか。
「ひでえ話だろ。 しかも「勇者」は女が何処に隠れても探し出したらしく、隠れるのに協力する人間は何のためらいもなく「愛の邪魔をした」とかいって皆殺しにしていたらしいからな。 何千人も女をさらって好き放題したくせに子孫がいないのは、まあそいつの悪行の結果だそうだしよ」
「くわしいですね」
「当たり前だろ。 スポリファールの初代がそいつ、「落第勇者」なんだからよ。 幸い其奴が女を漁り尽くして飽きて塵になってから、この国は必死に立て直しをはじめて、今では周辺国に負けない国にまでなったんだがな」
その部分を話すととても兵士は誇らしげだ。
でも、その負けない国が、負けないために他の国と戦争をして。
それで土地を奪って、自分のものとしている。
それを考えると、それが良い事なのかは、わたしには分からない。
次のオアシスでは、その兵士が紹介してくれて、わたしはとにかく水周りの魔法を任された。
それだけじゃなくて、風を操れるという話をしたら、乾きにくい洗濯を乾かしてくれと言われて。
魔法を使うにはたくさんご飯がいると説明すると。
それでちゃんと美味しいご飯が出てくれた。
砂漠だと、暑い日中に洗濯を乾かすと、砂だらけになってとても乾きはしないらしい。だから、夜の内にどうにか工夫して洗濯を乾かすそうだ。
わたしは砂を舞いあげないように、干されている洗濯ものを乾かしていき。
それで言われた事を、だいたいこなして見せた。
おなかが何度もすいたけれど、その度に美味しいご飯が出てくるので、それはそれで悪くはなかった。
トイレについても、大量の糞便を乾かして、臭いとかが出ないようにするような仕事もさせられた。
乾かした糞便は砂漠に埋めるそうで。それで砂漠を肥沃な土地に少しずつ変える事ができるそうである。
そうしてスポリファールは、本国付近にあったちいさな砂漠を、幾つも肥沃な土地に変えてきたそうだ。
決して優れた指導者が続けて出たわけでは無い国だそうだが。
逆に、愚かな指導者も出なかった。
それが救いであったらしい。
何度かオアシスで、そうやってできる事をやっていると。その度に褒めて貰った。それで、何やら兵士達が耳打ちしていた。
わたしは監視が増えるのに気付いたけれど。
今は、もうどうにもできなかった。
こうしてアイーシャは「祖国」を離れました。
一章で二度目の追放です。