百鬼姫を闇落ちさせたかっただけの話(旧題:忘却の灯火) 作:you are not
鞄の革が、最期の音を玄関に響かせた。
春の暖かな朝日の中、ケータが新生活への一歩を踏み出そうとしている。
「気をつけてね、ケータ。ちゃんと食べるのよ」
「困ったことがあったら、いつでも連絡するんだぞ」
両親の温かい言葉に、ケータは笑顔で応える。
「うん、大丈夫。行ってきます!」
玄関の扉に立つケータの背後には、引っ越し業者のロゴマークが張られたトラックが止まっていた。天野ケータは、普通の高校を卒業し、普通に大学に進学すると同時に一人暮らしとなり、引っ越すこととなった。
その様子を、少し離れた場所から百鬼姫、ウィスパー、ジバニャンの三人が静かに見守っていた。三人は絆が切れてなお、ケータの旅立ちを見送らんとしていた。
「ケータ君、完全に『大人』になっちゃいましたね」
「やっぱり、ケータがいないと寂しいニャン」
ジバニャンはしっぽを揺らしながら、少し寂しげに言った。
「‥‥そうじゃな」
言葉の重さをしっかりと噛みしめるように百鬼姫は答える。
しばらく沈黙が流れた後、ウィスパーが口を開いた。
「実はわたくし、エンマ大王からお誘いがありまして。妖魔界で新たな役目を果たすことになったでうぃす」
ジバニャンは驚いた様子でウィスパーを見た。
「にゃんと!?エンマ大王がウィスパーみたいな知ったかぶりを!?」
「あ”ぁ”!?誰が知ったかぶりカンニング隠しだ。ジバ野郎!」
売り言葉に買い言葉。ウィスパーは激怒を表す。と、いってもいつものじゃれ合いだ。
「うるさい、グルグル頭。エンマ大王に仕えるものがそんな態度でどうする」
「‥‥そうですね」
ウィスパーは何かを待つような反応を見せた後、しおらしくなる。それはケータの反応がないことだった。
「‥‥はぁ、それで赤いのお主はどうするのじゃ?」
「オレっちは地縛霊だから魚屋の交差点に帰ることにするニャン」
「あー確かにありましたね。そんな設定」
「それで、百鬼姫はどうするニャン?」
「あっ、無視ですか」
百鬼姫は胸元を握りしめながら、静かに言った。
「わららは、人間界にいてもケータとの思い出ばかり蘇って辛くての、故郷の地獄の小国に帰ろうと思う」
ウィスパーとジバニャンは驚きつつも、百鬼姫の決意を感じ取った。
「そうですか‥‥」
「寂しくなるニャンね」
彼女は目を閉じて深呼吸してからウィスパーとジバニャンにそっと別れを告げた。
「‥‥さらばじゃ、白いの。腹巻。達者でな」
二人は言葉は発せず、ただ静かにその背中を見送った。
―――
百鬼姫は、橙色の光が差し込む大広間で、普段より豪華な姫装束に身を包み、どこか遠くを見る目をしていた。この日、鬼KING納める地獄の小国にて、他国を招いた宴が開かれていた。それは美しき姫が帰ってきため、地獄の国々が浮足立ち、縁談を申し出たのだ。
漆黒の天幕の下、豪華な膳が並び、琴の調べが静かに響く。だが百鬼姫は、杯を傾ける手を何度も止め、そっとため息をついた。
「はぁ‥‥」
「姫よ、先ほどからため息ばかりついてどうした?」
横にいた眼帯をかけた父、鬼KINGがが百鬼姫の顔を覗き込む。
「父上。何でもありませぬ」
百鬼姫は袖で口元を隠しながら答えるが顔には汗がにじんでいた。
「そうか。なら、良いのだが‥‥」
鬼KINGはそう言ってまた酒を直飲みする。その様子に百鬼姫はほっと溜息を吐く。今回の宴は百鬼姫が国から帰ってきたことを祝う目的もあった。なので、ここで主役である百鬼姫が退屈な姿を見せるのは父親に申し訳なかった。しかし、楽しくないと思うのも本当である。なぜなら、
(ここにケータがおればな‥‥)
頭の中にはその考えしか浮かばないからだ。どうしようもなかった。こちらを値踏みするような視線も下心しかない親切な態度も、心がどこか冷めていくのを感じる。呆れるほど真っ直ぐな善意も損得など考えない親切心もそこにはない。それをしてくれる男もここにはいない。比べるべきでないと頭でわかっていてもどうしても比べてしまう。自分の惚れ込み具合に百鬼姫は呆れるように、かすかに笑みを浮かべた。
―――
その後も縁談の話は次々と来た。碧玉の箱に納められた未開封の縁談書は山のように高く積まれ、扉のそばには破棄された手紙の束が無造作に置かれるほどだ。
百鬼姫は部屋にあるそれを見たくなくて、窓辺に寄りかかり外を眺めることにした。
「姫様、またお手紙でございます」
扉が開かれ、侍女が小さくため息を漏らしながら、百鬼姫の元へ新たな申し込みを手渡す。
「見せぬでよい、ただ流せ」
百鬼姫は振り返ることなく、指示を出す。侍女は慣れたように手紙を山に投げ捨てて部屋を出て行った。
そんなことも気にせず、百鬼姫は遠くの空を眺めていた。その空は紫がかっていて、とても人間界で見た空の美しさには似てなどいなかったが、それでも思い出に浸るには十分だった。
「ケータ‥‥」
昔、いつだったか一緒に星を眺めたことがあった。ケータと二人で見上げた星の瞬き。彼の笑顔が、美しかったのを思い出してしまう。
「思い出しても辛いだけじゃ‥‥」
手のひらを胸元に当て、そこに残るかすかな温もりを確かめるように彼女は指をすべらせた。
(ケータ、約束違えるでないぞ‥‥)
心臓が締めつけられる痛みだけがその場を支配した。
次回、『ケータとフミちゃん結婚』