百鬼姫を闇落ちさせたかっただけの話(旧題:忘却の灯火)   作:you are not

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まだ闇落ちさせられねぇorz。まぁ、たぶん曇りはするよ次回


約束の彼方、鬼の涙

百鬼姫の自室は、いつもよりひときわ静寂に包まれていた。夕暮れの赤い空を映す窓の外とは裏腹に、部屋の中は蝋燭の炎だけが、かすかに揺れる影を壁に落としている。百鬼姫は、机の上に散らばる縁談書の山を前にして、うつむいたまま秘伝書の頁をめくることしかできなかった。指先に触れる古びた紙の感触が、怒りでも悲しみでもない、ただ退屈さえも同時に感じさせる。

(つまらんな、この本――)

姫は心の中でそう呟きながらも、大事な術の秘伝書を閉じるわけにはいかず、読む手を止めることもしなかった。今ここで、相手の下心と用意した縁談書を相手にするくらいならば、この本の退屈さがどれほどありがたいかと思った。

 

そのとき、ふすまの向こうからかげ老師の足音が忍び入った。干した袴の裾の端が床をかすめ、百鬼姫はそれに気づいても顔を上げようとはしない。

 

「姫様。」

低く、しかしいつになく硬い声。百鬼姫はため息ひとつで応じた。

「なんじゃ」

かげ老師は畳の縁に膝をつくようにして、わずかに頭を下げた。彼の手には、また新たな縁談書――ではなく、書見台で使うような古びた簿冊が握られている。

 

「恐れながら、いつまでもお心を決めぬのは、国中が案じております。どうか、一度だけでもお返事を――」

百鬼姫はやっと顔を上げ、かげ老師の瞳を睨みつける。

 

「爺や、お主が不安になるのはわかる。じゃが、私にはどうしても縁談に答える気など起きぬのだ。あの約束を破りたくないと思ってしまう」

かげ老師は眉をひそめ、静かに続けた。

「その約束とは、天野ケータ殿とのことでございますか? 姫様が深く想われた方と伺っております。されど、かの御仁はもはや妖怪を見ることはおろか、姫様のことさえ覚えておられぬ。義理を果たそうと試みるだけ無駄なことであると、ご自身が理解しておいででしょう?」

 

百鬼姫は、その言葉を聞きながらも秘伝書を両膝に抱え、かげ老師を睨みつけた。しかし次第にまぶたが重くなり、視線が手鏡に映る自分の横顔へと漂う。

 

「わかっておる。わかっておるのじゃ、私がこんな約束に縋り続けるなど――愚かであると」

その声は、いつもの凛とした姫のものではなかった。揺れる炎がその表情を刻々と変え、手鏡に映る疲れ切った姫の目には小さな涙が光っている。

 

「じゃが、割り切れぬのだ」

姫は切なげに頷くと、膝の上に置いた手鏡に映った自分の指先が小刻みに震えているのを感じた。

かげ老師はその震えを見逃さず、深い憐れみを込めて、そっと手を差し伸べようとしたが、百鬼姫はそれを遮った。

 

「今日は、もう寝る。縁談の話は、もう少し考えさせてほしい」

 

そのひと言に、かげ老師は静かに頷き、ふすまをゆっくりと閉じた。蝋燭の炎が最後の一瞬、深く揺れ、そのまま書斎から静寂が消えた。

 

 

 

 

――そして数年の時が流れた。

 

地獄の書斎は、再び蝋燭の炎で淡く照らされている。百鬼姫は相変わらず縁談など眼中にない。秘伝書を閉じることすら億劫になり、縁談書の山はなお積み上げられたままだ。

かげ老師はため息を一息つき、古びた簿冊を机に戻して背筋を伸ばした。今日こそは、家臣としての立場を超えてでも告げねばならぬ――己の心を鬼にして。

 

「姫様、お耳に入れておきたいことがございます」

かげ老師は自室のふすまを再び開け放ち、改まった調子で声をかける。

 

「なんじゃ」

百鬼姫は興味なさげに応じるが、そのままふすまを閉めようともしなかった。

「恐れながら、ケータ殿についてのことでございます」

かげ老師の言葉に、百鬼姫の動きが止まる。緊張が書斎を満たし、蝋燭の炎すら揺らめいた。姫はゆっくりと顔を上げ、瞳をかげ老師へと向ける。

 

「何だというのじゃ」

その表情には興味、恐怖、不安、焦りが渦巻いている。そしてかげ老師は、重く息を吐き、決意を込めて告げた。

 

「先月、天野ケータ殿が人間の女性と婚姻の契を交わされたと――報せが届いております」

その瞬間、百鬼姫の掌にあった湯飲みが、重力に従い床へと滑り落ちた。割れる音さえかすかなほどに、世界は凍りついた。

 

「な、なん‥じゃと‥‥」

 

百鬼姫は立っているのか座り込んでいるのか定かでないまま、その場で崩れ落ちるように膝をついた。耳を突き刺すような耳鳴りが響き渡り、かげ老師の慌てた声は遠のいていった。

 

(なぜじゃ、どうして…信じたくない。しかし、理解できてしまう。納得などできぬ。憎い、愛しい、悲しい、辛い――)

 

百鬼姫の思考は感情の波に翻弄され、唯一確かなのは、頬を伝う冷たい涙と、胸を締めつける痛みだけだった。やがて、姫は深く息を吸い込むと、そのまま立ち上がり、書斎の扉を勢いよく開け放った。

「姫様、どちらへ!」

かげ老師の声も追いつかない。百鬼姫の脚は衝動にかられたかのように震え、地獄の石廊下を駆け抜けた。闇夜を切り裂く足音だけが、まだ追いかけてくるかげ老師を引き離していく。

 

そのまま門を飛び越え、百鬼姫は地獄の国を背にして、人間界へとひた走る。胸に刺さったトゲが、やがて二度と抜かれることのない、永遠の悲しみの証となるとも知らずに。




俺の力ではこれくらいしかできぬ。
百鬼姫をもっとじっくりコトコト丁寧に曇らせたいのに‥‥
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