5話
目の前に垂らされた、蜘蛛の糸。
それを掴むのに、躊躇はなかった。
躊躇えるような余裕など、俺にはないのだから。
「さっさと殺せ」
「私は君を殺すつもりはないよ」
女はそう言って、俺に微笑みを返した。
口調は中性的だがこちらを煽るような感じはない。あの時は完全に俺が暴走していたとはいえ、今は敵意はないらしい。黒い服、漫画やアニメで見る拳法家を彷彿とさせるそれは、彼女のスレンダーなスタイルを浮き上がらせる。
こんなひょろひょろの奴に負けたのか、俺は。
いやまぁ、俺もひょろいのだが……
今現在、俺は馬車……いや、獣車?に乗せられている。
引いているのは馬ではなく巨大なイタチっぽい生き物だが、なんでも獣車というらしい。豪華な箱型の部屋にはソファが置かれ、俺はその女と向かい合うように座っている。
ちなみに、前と同じように布切れを服代わりにして。
「ふふ、熱烈な視線だね」
「………いっそ殺せ」
「悪い気はしないよ」
女は愉快そうに口元に手を当てて笑っている。
気に食わない、と思うところだが、なんだか妙に人懐っこいその笑みに、絆されたような感じがして自分が嫌になる。
そこで、気がついた。
その口元に当てられた手の皮膚は、ひび割れたように荒れ、そしてそれは、腕にまで続いている。その逆の手、その顔に視線を向ければ、そのひび割れた腕は変色までしている。
痛々しい、傷。
「…………その手」
「あぁ………うん。
お察しの通り、君にやられたものだよ」
やはりそうか。
だが、炎の攻撃は届いていなかったはず。崩落でこのような傷がつくとは考えにくい。抜け落ちた記憶、その合間にある出来事だろうか。………この女が何かしたのか?
いや、今は。
「どうして俺を買った」
「そりゃあ、珍しいものは買ってしまうものだろう」
「どこが?俺はただの奴隷だ」
「おかしなことを言うね。
だって君、魔物に姿を変えただろ?」
「はぁ?」
こいつ何言ってるんだ?
イカれてるのか?
「おや、だって私と戦ったのは覚えているだろう?
炎をあんな風に纏う魔物なんて初めて見たよ」
「狂ったらしいな」
「んん?記憶がないのか……
或いは魔物の姿が本来の姿……?」
「人をバケモノ扱いしてんじゃねぇ。純正の人間だ」
「ふむ………まぁそういうワケさ」
「どういうワケだよ」
溜め息をつく。
どうにもこいつといるとペースが乱される。
……しかし、魔物に変わった?俺が?
記憶を失っている間は、そういうことか?
それにこの右腕は、確かに切り落とされたのを思えている。一時的に魔物になったとして、再生したのか?
「成程、どうやら君にも思い当たる節はないと」
「記憶がない。恐らくその間だろうが……
お前、俺に何をした」
「仕留め損ねて、君はアルフレト坑道に生き埋め。
君は私を殺すことしか考えてなかったようだけど、
私としてはただの視察だ。すぐに撤退したさ。
この腕は、その時に君にやられたものだよ」
「………」
不可解だ。人間が、魔物に変わる?
前世でいえば魚が犬に変わるようなもの──────
いや、ここは異世界だ。ありえない、なんてことはない。
炎を纏った魔物、と言ったか。
なんらかがマナに作用して人間が姿を変えるのか?
そんなことが………
いや、そもそも魔物とは人間を害する存在の総称だ。本当にそれは魔物なのか?そうだ、魔物ではない別の何か……
「まぁ、人間が魔物になる例は幾つかあるからね」
「……そうなのか?」
「うん。そこから戻ってこれるのはいなかったけど」
「…………つまりなんだ、
俺はお前の研究対象だと?」
「そういうこと」
奴隷から解放されたと思ったらまたも奴隷で、炭鉱夫の次はモルモットときたか。拷問じみたことでもされるのだろう。絶望した。俺の滅茶苦茶な人生に絶望した。デジャヴ。
「………はぁ」
「あはは。まぁなんだ、君に酷いことはしないさ」
「生きてる時点で酷なことだが」
「じゃあ、私が殺してあげようか」
首元に、氷の刃が当てられていた。
「………」
「生きたくて足掻いたんじゃないの?」
「さぁ……どうだろうな」
首に、熱が走る。
「それじゃあ、何故あの坑道で君は戦ったのかな?」
「死なせたくない人たちがいたからだ」
食い込む刃の冷気が、熱を奪い、激痛を以て襲ってくる。
「なら、他人に使われて、生きて死ぬのかい?」
「少なくとも俺の人生はずっとそうだった」
更に、さらに深く、冷たい刃が食い込んでくる。
「今、君はなぜ生きている?」
「理由なんてない。今から死ぬんだ」
死が、近づいてくる。
足首を掴み、背筋を登り、首筋に刃を当てられる。
「そっか。じゃあ、私のために生きていいよ」
刃は消えて、手が差し出されていた。
いつか俯いていた顔を上げれば、そこに憎たらしいドヤ顔を浮かべた女が笑っている。腹が立つ。
………しかし、そうか。
「君の人生に、意味を与えてあげよう」
そこまで、言ってくれるのなら。
我ながらチョロい気がするが、悪くない提案だ。そも、俺は奴隷だ。こんな人生に意味なんてものがあるのなら、いや、意味を貰えるのなら、これ以上のことはない。
差し出された、細く白い手。
生きていいというのなら。意味をくれるというのなら。
「うん」
差し出された手を取り、握手を交わす。
女は一つ頷くと、大きく息を吐いて手を離した。
「金貨が無駄にならなくて良かったよ」
「積まれた大金の分は働くつもりだ」
「そうして貰おうかな」
女は頷き、微笑む。
不可解だったことがある。聞いておくべきだろう。
「お前は、俺が憎くないのか」
「え、なんで?」
「………」
やっぱり馬鹿なんじゃないだろうか、この女は。
呆けた顔に知性は一つも感じられない。大丈夫なのか。
「………その腕のことも、
あの坑道にいた連中もだ」
「あぁ、別にいいよ。腕は怪我の一つだし。
あいつらね、王国軍で汚職して左遷されてたんだよ。
ちなみにこれ軍の品位落とすから軍事機密ね」
「今その品位も地に落ちたがな」
納得した。
やはり豚だったらしい。男に欲情し鞭打ちしている連中だ、しかし軍部の人間だったとは思えないほどの見目だったが。まぁ死んでいい奴らだろうとは思っていた。予想通りだ。
と、そこで、獣車の揺れが止まった。
「着いたね」
「……」
「降りようか」
女が扉を開け、獣車から飛び降りる。
俺も立ち上がり、それに続く。
カーテンに塞がれて見えなかった街並みが、視界に広がる。思えば、とても久し振りに青い空を見た気がした。実際にも10年以上前に、前世の空ではあるが。
煉瓦、石造りの街並み。
街路樹が並び、水路が道の脇を流れている。そして空には、青い空と、点々と小さな光が並ぶ輪があった。何だアレは。知識にある中では、土星の輪に少し似ている気がする。
「ああ。そういえば君の名前、聞いてなかったね」
「……アルガリアだ」
「珍しい名前だね?」
「自分で適当につけた名前だ。
生まれつき奴隷なんだ、名前なんてなかった」
「へー。あげようか?」
「いらん」
「それは残念」
くすくすと笑って女は大きな屋敷、その門の前に立つ。
風が吹き、黒服の裾と、長い黒髪が揺れる。
「私はレイラ・アルカード。
まぁ、好きに呼んでくれて構わない」
レイラはそう言って、胸に右拳を当てて軽く会釈する。
「これからよろしく、アルガリア」
奴隷に対する挨拶ではないだろうとは、思った。