宇宙連続性について
♯(シャープ)ことシャロン・P・ウィッケンハイザーは自室の机に座り一心不乱にメモを書いていた。
♯がメモの為に羊皮紙を要求し続けて31回目にしてようやくあの頭の固いお父上は書き損じの裏紙の全面的な使用を許可したのだった。いくらこの中世ヨーロッパ風世界の紙がそれなりに高級品だからといって、このウィッケンハイザー家の次期当主である♯にメモ紙の一つも渡そうとしないのはいただけない。大体もう5歳になる♯が貴重な紙を不当に使おうとすると思われているのが釈然としなかった。一体お父上はなにを考えてこの♯を捕まえて「
♯ことシャロン・P・ウィッケンハイザーは転生者である。11年間ものあいだ2000年代日本で過ごし、そこで事故に遭い(おそらく)死亡した事でこの世界にやってきた。
赤子の脳内で目覚めた時はかなり狼狽し泣き喚いた事もあったが、赤子が泣き喚くのは労働なのでこれはパニックなどという反射的な反応ではなく崇高な国民の義務を果たした結果である。精神的にもう11歳の♯が泣いていたと知られると都合が悪いから、そういう建前があって良かったなどとはこれっぽっちも思っていない。
♯はそこまで考えてから、人間の脳は非常に騙されやすいという特性を務めて無視しようとした。
2度目の生に目覚め、赤子の労働を終えて現実を見つめられるようになってからの5年間は享楽の限りを尽くした人生だった。意識がハッキリするまで生後数ヶ月はかかった事と赤子の睡眠時間を加味すると実際には3年ほどだったかもしれないが、それは些細な差だろう。
苦労するはずだった言語理解は赤子に標準装備されたソフトウェアによっておよそ2年ほどで習得した。赤子の言語理解のスピードはかなり控えめに言っても
言語を覚えてからの3年はこれまでの人生で最高の時間だった。誰にも邪魔されることなく気が済むまで本を読み、気が済むまで文字を書き、気が済むまでやりたいことをし、キノコ類を食べなくても怒られなかった。
中世ヨーロッパ風世界にもたらすべき31の技術という小冊子を作り上げ、それを元に領地経営計画を立てた。今の所お父上が管理している私の領地の財産を使い小規模な実験もいくつか行った。そのうちいくつかは破壊的な大成功を収めたため、家庭内の全員からこれ以上の実験は禁止だと言われている。
♯は机のメモからペンを離し、短い腕を組んで伸ばした。
書いたもののタイトルは「原子論」。今日の午前中にこれまでの実験の結果を振り返っていた♯は極めて深刻なとある問題に気づき、前後不覚に陥り頭を壁にしたたかにぶつけていたところだった。
♯はこれまで地球科学の再現のための実験を繰り返してきた。
しかし♯は、この天才的な科学再現をする事に夢中になるあまり、非常に重要な事を忘れていた。この問題こそ、一番初めに解くべき謎だった。この謎が解かれるまでこんな技術再現
「
宇宙原理、という原理がある。宇宙には中心も端もなく、宇宙のどこを切り取っても本質的には同じようなものだ、という原理である。分かりやすく言えば、宇宙に特別な場所は存在しないと言っているだけだ。
これは地球や月を指して、これとそのほかの場所は同じだと言いたいわけではない。この論はもっと
天体や星雲や銀河や銀河群程度のスケールでは見た目上どこも同じようだとはとても言えない。けれどもっと大きく、
この大きさで見れば、どこも大体同じようだと思えるだろう。
この大きさで見れば、地球の周りだけ特別な宇宙になっているわけでは無く、宇宙のあちこちでも
原子論、という理論がある。
人間の体は臓器や骨や血液で出来ていて、
臓器はタンパク質などの集まりから出来ていて、
タンパク質は鎖のように繋がったアミノ酸から出来ていて、
アミノ酸は複数種類の原子の繋がりで出来ていて、
原子は複数の飛び回る電子と中央に位置する陽子と中性子で出来ていて、
陽子はより小さなものたちが集まって出来たものだ、とする理論である。
つまり、
この小さな粒の一つ一つに違いは
これら二つを見た瞬間に分かる、あまりにも明白なある法則がある。
表面だけをなぞった技術再現では、いずれ地球物理では解明できない謎が見つかりプロジェクトが
更に悲惨な事に、そこまでの技術をもたらした理論が
「
もしここが地球と同じ宇宙なのであればあまり問題はない。地球で蓄積された科学を輸入してこの世界を一段階押し上げたとしても全く問題はないし、それどころか既存の地球科学の範囲でそのうち地球に戻ることが出来る場合もある。
しかしもし、この宇宙が仮に地球とは別の全く知らない宇宙なのであれば…それは…多少悲しくもある。
ここに♯が来たという事はここから元の宇宙に帰る方法も探せばあるはずだとは思っているが、この世界で地球科学を使って一足飛びに世界の支配者になる事は出来ないという事でもある。自分の将来の最大値が地球におけるアインシュタインの100倍程度の実績しか残せないと気づくのは気分の良いものではない。♯は宇宙の解明を終わらせ、その知識を使って宇宙を変革する事までを自分の使命だと考えていた。
♯の精神年齢は現在13歳程度。ちょうど中学2年生の頃だった。
ここが同じ宇宙だと判断する簡単な実験はまだ思いついていない。この5年間(眠すぎて寝てしまった日を除けば)毎日夜空を眺めていたが、雲が晴れて星が見えたことはなかった。というより一日中薄い雲で空が覆われているせいで、この世界に来てから直接太陽を見たことすらなかった。
大きな反射望遠鏡をお父上に作らせようと何度か頼んだことがあったがそのいずれも途中で却下されていた。毎回、中央がへこんだ形状の、大人の身長程度の円形の鏡が必要だと説明する辺りで退出を命じられてしまうのだ。このプロジェクトの科学的重要性を理解すれば領地の年間予算の1.8倍程度の金額の鏡くらいポンと支払ってくれるはずなのだが、お父上は科学に対して無知であり、またこの程度のリスクも取れないような小心者なので仕方がないと諦めていた。
しかし、事ここに至っては予断を許さない状況になった。ここが地球と同じ宇宙かどうかを判断するための材料は多ければ多いほどいいし、それを集めるための方法は一つも逃してはならなかった。この問題を解決する事は、♯の将来の地位が神になるか天才科学者止まりになるかを知るための非常に重要な問題だった。
実際、雲が晴れた夜を狙って望遠鏡を向け、夜空の星々を観測しても大したことは分からないかもしれない。空を見上げそこに全く別の星座が描かれていたとしても、宇宙の構造に繋がるような発見ではないかもしれない。反対に、夜空を見上げそこに並ぶ星々が地球とほとんど同じ星座のように見えたとしても偶然そうなった可能性は否定しきれない。…否定しきれないというだけで、もし仮にそうなったとしたらここが地球や地球近傍惑星だという説を推す根拠の強い証拠としては扱うだろうけど。
とりあえず、この宇宙について知るために必ず手に入れなければならないものが一つあった。
お金である。
♯が神になる(かもしくは天才科学者になる)ための第一歩として、まずは自由に扱うための資産を手に入れる事から始めるべきだと結論づけた。
経済世界では一般的に、資産を増やすには資産が必要になる。元手すら持っていない状態では、資産はとても増やしにくくなる。
♯はこの5年間(と11年間)でまだ自由に使えるお金を持っていたことがなかった。
そこで♯は、元手が必要のない金を稼ぐ手段を真剣に考えて、会話パートを進めるだけで資産が増える方法を思いついた。
つまりお父上にお小遣いをせびった。
♯は自分に愛嬌があるということを自覚しているが、お父上にこの時間制限付きの精神汚染兵器が効かないこともまた知っていたので、なぜ自分にお小遣いが必要なのかを理路整然と説明した上で自分に[投資]して欲しいと話を締めくくった。
父親であるプレスコット・ウィッケンハイザーは顎を撫でてから、言った。
「つまり資産運用をしたいから元手が欲しいということ?」
「そうです。お父様。出来ればたくさん。」
父親はまた顎を撫でた。髭の剃り残しが気になる訳ではなく、何かを検討しているようだった。
少ししてから、父親は引き出しの中から硬貨入れを取り出しながら質問をした。
「ちなみに♯は今いくら持ってるんだ?」
「無です。全く何も持っていません。お父様。」と♯はほんの少し声に悲惨さを滲ませながら言った。
これが演技だということは7割くらいの確率で見抜かれているが、演技をするほど必死だと思われて少しでも金が増えるのなら儲けものだ。文字通り。
返事を受けて、父親は満足そうに頷いた。
そして、おごそかに一枚の硬貨を取り出して♯の手のひらに乗せた。
「我が愛しの♯の為に、私はたくさんの資産を渡す事にした。この硬貨は君の持っている資産を100倍しても届かない。1億倍でも、君の思いつくどんな数を掛けても届かない程の大金である。君の資産を無限に増やすと、ようやく届くぐらい価値のある資産だ。大事に使いなさい。」
♯は手のひらを見た。
銅貨が一枚だけ手のひらに乗っていた。
♯はまじまじと父親を見つめてしまった。
父親はそっと視線を逸らした。そして仮初の威厳を捨てていつもの口調で言った。
「資産形成を勉強する事はいい事ではあるけど、5歳の子に実際に取り組ませる事は流石に出来ないよ。」
♯はもう一度手のひらを見た。
変わらず銅貨がキラリと輝いている。
父親の意思は変わらなさそうだ。
「キライ!」
♯はそう叫んで、精一杯の抵抗として足をドスドスと踏み鳴らして部屋を出ていった。
初投稿です。よろしくお願いします。次話は明日の18時です。