それから1週間、♯はひたすら魔法の修練を積んでいた。一度魔法が成功してしまえば、それ以降は自分は魔法を使えるというイメージを持ちやすくなるようで、♯はあの発火魔法から今までほとんどつまづくことなく魔法を成功させ続けていた。初日に教わった4種類の他にもいくつか使える魔法も増えた。
♯は魔法が使える。そういう妙な確信が出来てからの魔法訓練は驚くほどスムーズに進んだ。何かを思い込もうとしたことについて
魔法が使えるという確信が生まれたあとは、決まった呪文を唱えると同時に起こしたい現象を脳内に描くだけで魔法が発現するようになった。確かに、最初の一歩目が大変だという母の言葉は正しかった。
そして、♯は魔法行使の訓練の第一歩を踏み出せた直後から
魔法は思考によって操作できる。特定のろうそくの一つに火がつく様子を正確に思い浮かべながら発火させると、ちょうど思い浮かべたものと同じように火がつく。それは火の
これに気がついた時に♯を襲った衝撃は甚大なものだった。
立てられたろうそくの火が横を向いた状態で現れることは
♯は最初、火の形状が変わって見えたのは風による影響だと判断しそうになった。中庭ではなく室内でも同じような現象が見られたので、全ての窓や扉を閉め切った狭い個室で試してみることまでした。ここまでやっても、炎は真横に伸びた状態で始まるのだ。
♯はこの現実を説明できる
とはいえ、見たままをそのまま受け入れるのであれば、魔法の万能性は♯が思っていたよりずっと高いということだった。発火魔法は火をつける魔法
水呼魔法は水を呼ぶ魔法だと説明を受けたが、その水はどこから呼んでくるのかという説明はされなかった。水を呼んでいるのか、それとも水を生み出しているのかという質問は、その質問の前者と後者は一体なにが違うのかと聞かれてしまう始末だった。この世界では、
水呼魔法はコップに水を溜めるための魔法だという。水は器の底から湧き出るように現れ、器の大きさに合わせてちょうどいい量まで溜まったところで止まる。
魔法行使の優れた人物なら、25mプールほどの水を呼ぶことが出来るという。
水を呼ぶための容器に指定は特になく、指定するそれに水を呼ぶイメージを持てさえすれば良い。
ということで、♯は水呼魔法を空に向かって唱えながら、雨が降ってくる様子を思い浮かべた。
樹木の数多の葉に落ちる水滴の音、湿って薄らと濁る視界、鼻先に落ちる小粒の雨、濡れた土から漂う独特の香り、雨雲が陽光を隠すことで影となる屋敷、逆に空の高い位置では上面に当たった陽光によって真っ白に輝く雨雲、遥か下界では洗濯物を取り込み始める使用人さんたちの姿と、雨を呼び寄せられる能力を持つ5歳の少女である♯が、降り始めた雨を眺めにっこりと笑う。
大地を水を受け止める容器だと指定し、どうやって水が現れてほしいかを決め、それによって起こる様子を想像できる限り詳細に思考する。これを思考している脳を魔法に伝えることで、おそらく
♯はゾクゾクとする感覚に身を任せ、天を仰いだ。♯は独力で天候を変えることが出来る。
天候を変えられる。地球科学ですら実現出来なかったことを、魔法を少し学んだだけの♯は起こせる。
火をつけることは、地球科学では専用の設備によって全く労力なく行うことが出来た。ろうそくに火をつけることは、ただマッチやライターを使えば済むことだった。汚れを取ることは、専用の設備と薬剤を使えば多少の手間で済んだ。どれも、魔法によって楽になることはあれど地球科学で再現出来そうなものだった。
ただ、
♯はクラウドシーディングという技術があることは知っていた。自然に出来た雲の中に雨粒の種となる物質を散布することで、雲を雨へと成長させる方法であり、実際に降雨量が増えた記録があることも知っている。しかしこの技術は、元々雨が降りやすい時期や場所の降水量には効果が期待出来るが、快晴が広がる場所や乾季の乾いた空に
そんな、地球の内陸国が切望してやまないけれど実現出来ていない人工降雨を、♯は
なにより♯を興奮させたのは、魔法についてよく知っている母でさえ、水呼魔法で雨を降らせることが出来るとは
つまり、まとめると。
♯は天候を変えられる程度には万能の存在になったということだった。
中庭で雨を浴びながら笑っていた♯を発見したのはお母様だった。彼女はすぐさま風呂の準備をさせ、有無を言わせない態度で♯を入浴させた。今しがた起こした現象についてはおろか、魔法の
数十分後。
温まった体で出てきた♯を迎えたのは、やはり母親だった。予想に反して母は叱る表情はしておらず、純粋に心配しているようだった。
「体に痛いところとかない?」母は泣き出す寸前のような声色で言った。
「え…」♯は自分の体を見下ろした。桃色の手のひらを眺める。ツヤツヤでもちもちとしている。「なんともないと思います。」
その返事を聞いた母は非常に安心したようすで、感極まったように♯を抱き抱えてきた。
♯は脳内の自分に向かって、
二人は千日手と判断し、先後を入れ替え最初から指し直すことで合意した。
♯は抱きついてきた母の背を撫でた。なにが起きているか全くわかっていないが、そうするのが自然なような気がした。
「お母様、一体なにをそんなに心配しているんですか?」
♯は母親の耳元に向けて言った。
母はその言葉で驚きの表情をし、♯と顔を合わせた。
「雨に直接触れた自分の娘を心配しない親はいません。」
♯は首を傾げた。「風邪をひくから?」
「まあ、それも少しはあるけど…」と母。「危険なものに触れた子を心配するのはそんなに不思議?」
♯の中で違和感が膨らんだ。「
そこで母は何かに気がついたようで確認するようにゆっくりとした口調になった。「♯は、雨について詳しく調べたことはある?」
雨とは、大気に含まれる水蒸気が凝固し雲となり、雲の中で水滴が集まることで成長しやがて重力によって地上に落下すること。というのは現代日本では当たり前の知識だったため、この世界に生まれてからあえて調べようとしたことはなかった。
「いえ、今気がつきましたが…。調べたことは全然ありませんでした。お母様、雨とはなんですか?」
母は仮説が立証されたというように頷いた。「雨とは、ただの水とは違い非常に危険なものです。長時間浴びれば命に関わります。雨に触れた肌は激しく痛み、放っておくと溶けてしまいます。雨が降ることはほとんどないですが、外に出る時に雨の対策をせず無防備でいることは自殺行為です。雨とはこういうものです。」
「
母は♯の頭を優しくなでた。「そうよ。でも雨からはお家が守ってくれるから、♯は心配しなくても…」
♯は母の元からさっと飛びのき、そのまま厨房へ走った。後ろから驚いて声をあげる母の声が聞こえるが今は無視だ。
厨房ではなにかしらの作業をしている男性の姿が見えた。いつも料理を準備してくれる使用人のロレンツさんだ。
「ロレンツさん!ほんの少しだけお肉とか下さい!今すぐ!」
♯はそう言いながら生ごみを覗いた。ちょうど指先ほどの大きさの肉のかけらが野菜に混じって捨てられている。♯は肉のかけらをつまんだ。
「これください!あとなんか棒!」そう言いながら厨房の中をぐるりと見まわした♯は、鍋の横に集められた刺し棒を一本掴んだ。
ロレンツは大きな肉の包みを取り出した所だった。「お嬢様、お肉はどれくらい必要でしょうか?」
「あとで返します!」彼に手に持った刺し棒と肉を見せた♯は身を翻して厨房を後にした。
「あー、ん?」ロレンツは早すぎる展開についていけずに首を捻った。
♯は一番近い窓に走った。中庭に面した窓で、いつも明るくないのであまり近づかない場所にある窓だ。とはいえ構造はどれも同じなので♯は普通に窓を開けた。
そこで母が追いつき、なにか文句のような事を言いかけたが♯はそれを遮り、母に抱き上げるよう要求した。母は溜息をつき顔と顔が向き合う方向で持ち上げようとしたので♯は拒否し、♯の頭が窓に向くように抱き上げるよう再度要求し、母はそれに従った。
♯は手に持った刺し棒の先に肉のかけらを刺し、窓から外に伸ばした。♯の体に取り付けられた5歳児平均の腕では屋敷のひさしから肉の欠片を外に出せなかったため母に窓にもっと近づくよう要求すると、母は♯から刺し棒を奪い取りそれを窓の外に出した。
母が窓の外に出してから数秒経った。♯は待ちきれなくなって聞いた。
「お肉はどうですか?溶けてそうですか?」
母は結果は知っているけど子にそれを先に言ってしまう訳にはいかないというように、わざとらしく「どうかしらねぇ」と言いながら刺し棒を近づけてきた。
♯はまじまじとそれを見た。「あんまり変わってないように見えます。」
母も肉のかけらをちゃんと見たようだった。そして少し不思議そうにしながらもう一度窓から出した。
今度は2∼30秒ほど雨に当ててから戻した。母はかなり色々な角度から眺めて、不可解そうにまた窓へ出した。
今度はどう見積もっても2分は経ってから戻した。腕が疲れたのか途中で♯が下されたほどだった。
母は刺し棒の先についた肉のかけらに重大な欠陥がある事を知らされた担当者のような顔つきでそれを見ている。この肉にある欠陥を見つけなければ宇宙が崩壊してしまうと事前に非常に厳しい警告を聞かされているようだった。♯もその肉のかけらの観察に参加させるよう要求すると、母は身をかがめて♯の目の高さまで刺し棒を下ろしてくれた。
しばらく無言の時間が経った。
「溶けてるようには見えないです。お母様」♯は素直な感想としてそう言った。
「うーん。」と煮え切らない反応をする母親。
「ちなみに、普段ならどんな様子になるんですか?」
母は目を瞬いた。「そうね。いつもなら濡れたところが黒くなって、これだけ当てていたら白い煙が上がることもあるのだけど…。」
それを聞いて♯は厨房まで走り、ひしゃくを掴んで来た道をそのまま戻って母の横の空いている窓から出した。雨水が多少溜まっていくのが分かる。
少し経ったところで引き戻すと雨が数ミリ溜まっている。♯はそこに母の手の中の肉のついた棒を突っ込んだ。
母は抗議の声をあげたが、何も起こらないことに気づくと黙り込み、ひしゃくを覗き込んだ。
「なんで溶けないのかしら。」母は心底不思議そうに言って、降っている雨を気味が悪そうに見つめた。
「その、お母様。」♯はそろそろ白状する頃だと思った。「えっと。この雨の原因は私なんです。」
「
「この雨は私が降らせたんです。その、魔法で。」
「
「だからその、私が水呼魔法で雨を降らせたんです。なのでこれは知られているような雨ではなくて、体に害のない雨なんじゃないかと__」♯はそこまで言ったところで言葉を止めてしまった。本来なら全部説明するべきなのだが…
母に浮かんだ
「
「な、なんでしょうかお母様。」
「
「じ、実演」♯の脳はワーキングメモリを母親の表情を解析する事だけで使い果たし、言語回路は全く動くことなく一時的に聞いた言葉を返すだけの機械になった。
♯の反応に気が付いたのか母が元に戻った。「実際にやってみせて欲しいだけよ。歴史的発見なのかもしれないもの。」
「
「詳しく調べなければならないけど…」と母。「その可能性はない事もないわ。雨を降らせるような人物自体は神話に登場するけど、それは神の怒りの代行として大鍋を持った人間として描かれている。杖を持った人間とは一言も書かれていないし、私も魔法で雨を降らせることなんて出来るわけがないと思ってる。」
♯は眉をひそめて母親を見た。「じゃあなんで、お母様は私の話を真面目に聞いているんですか?」
「それはね、♯ちゃん。」と諭すようにいう母。「あなたが二歳のころからずーーーっと
「素晴らしい事じゃないですか!!」♯は最高の気持ちになって叫んだ。母は頭を抑えて溜息をついた。
次話は明日の18時です。