♯が母の元に運ばれそっと降ろされた時も、お母様はクスクスと笑っている。父親は呆然とした様子で荷車の上に起き上がり、心底困惑した表情で頭を振った。心ここにあらずといった様子でハンカチをポケットから取り出し、それで額の汗を拭いてからハンカチの濡れ具合に顔をしかめた。
その顔を見てお母様は声を出して笑い始めてしまった。♯も多少愉快な気持ちになっていた。
「
♯は親切に教えてあげることにした。「実は、この世界には魔法があるんです。」
父親は♯のその言葉をどこで聞いたか瞬時に思い出したようだった。「魔法が!魔法がある!!」そして頭を抑えた。大声を出しすぎて頭が痛んだようだ。
母親は笑いすぎて座ってられなくなったのか隣に座る♯に縋りついてきた。容赦なく体重をかけてくるので正直少し重たかった。
少しして、父親は正気に戻ったようだった。何かを真剣に検討する表情になった父親はしばらく黙った。そして♯と目を合わせてくる。
「実際には
「見たままですよお父様。」♯は肩をすくめた。「水を呼んだんです。」
「まあ、確かに詠唱は水呼魔法と同じものではあった。」父親はそう言いながら上を指差した。雨音が断続的に響いている。「でもその魔法は世界を
「死の底?」
「いや、すまない。雨のことをどんな生き物も生きていられない場所という意味で神話に登場する死の底という地名に例えることがあるんだ。違う、そんなことの説明は今は傍に置いておこう。♯、いったい君はどんな方法でこれを成し遂げたんだ?」
♯は悲しげな顔をせざるをえなかった。魔法の仕組みをうまく使うことで雨を降らせたことは事実ではあるが、仕組みを解明できたわけではない。
「それが、正直に言えばあまりわかってはいません。魔法は多分思考によって操作できるけど、なんで雨が降ってくる様子を想像しながら水を呼ぶと雨が降るのかは
父親はそれを聞いて非常に真剣な表情になった。「どんなことを考えながら水を呼んだんだ?」
♯は目を閉じた。思考の言語化には非常に注意を払う必要がある。特に色々複雑な思考をしていた時の思考を言語化する時は、
「肌に触れるヒヤリとする湿気。質感をともなう大気の流れの変化。テントに落ちる最初の雨粒の音。足元の葉に水滴が落ち、揺れる様子。霧によって僅かに視界の悪くなる平原。鮮やかさの失われる影と、コントラストが落ち灰色に染まる空。湿気った地面の特有の発酵臭。テントの端から一定の間隔で落ち続ける雨水。その音。落下の加速が水滴の空気抵抗によって相殺され、地表には初速のみが届く。霧のような水が空を覆い、地表に届く陽光の量を減らす。雲の上部は陽の光を浴びて真っ白に反射し、その中では集まって重力に逆らえなくなった水滴が次々に落下していく。5角形に広げられた、天空からではほとんど点にしか見えないほど小さなテントとそれ以外の地表に向けて降りしきる数多の雨粒。その落下は10分から20分ほどかけてゆっくりと地表まで__」
「まった、分かった。ありがとうシャロン。もう大丈夫だ。まとめて悪いがまとめると、♯は雨について想像しながら水を呼んだということでいいのか?」
「ありていに言えば、そうです。私は雨が引き起こしそうな様子を端から端まで想像しながら魔法を起こそうとしました。どの程度まで想像すれば目的にあった魔法になるのかはまだ分かってません。」
父親は呆れたように♯を見た。「水呼魔法で雨を降らせる方法を見つけて次にすることが、雨を降らせるための条件を見つけること?」
「ただの条件ではありませんよお父様。水呼魔法で雨を降らせる時の
「ふむ。」父親はとりあえず返事をしたというような様子でうなづいた。
「今重要なことはそこじゃないですよ。」母がそこに割り込んだ。「今は、
父親はうなづいた。「帰ったらすぐに知り合いに声をかけてみるよ。今年中には画期的な魔法の新発見が公表されるかもしれない。」
母もにっこりと笑った。「私も馴染みに手紙を出すわ。」そしておもむろに♯を抱き上げた。
「おめでとうシャロン!凄いわ!人生のこんな早くにもう歴史を変えてしまうなんて!!」
「ちょっと大袈裟だと思います…」♯は担ぎ上げられたままゴニョゴニョと言った。
「いやいや」と父親が言う。「5歳の子が歴史上初めての現象を起こしたあと、その親が大袈裟に騒がないわけがないだろ。」そして母親にグルグルと回されている♯に目を向けて真剣な声を出す。「シャロン、この魔法による降雨で人間の
♯は母の頭をペシンと叩いて動きを止めさせた後、腕を組んだ。「すぐに思いつくことはあまりないです。生活に必要な水は魔法で呼べますよね?例えば、植物とか…。お父様、農業はどうやって農作物に水を与えているんですか?」
「は?」と父親。「農作物に水?」
♯は首を傾げた。何か変なことを言っただろうか?
「いや…」と困惑した声で父が答える。「農業をする上で水が必要だとは聞いたことがなかったが…」
ぐらり、と♯の頭が揺れた。「
その瞬間♯は違和感に気づいた。平原に余す所なく広がっている緑の絨毯。細長い葉を小さく千切って観察してみたとき、地球の同じような植物との違いが分からなかったためそれ以上の興味を持てなかったそれら。
♯の常識では、水は植物の生育に
RNA分子と呼ばれるDNAとタンパク質の両方の機能を担うことが出来る分子がある。初期生物に必須のものだったRNA分子はその立体構造の維持を水素結合ネットワークに依存しているため、周囲に水がなければ破壊されてしまう。さらに、RNA分子内に備蓄された電池のような高エネルギー結合を起動させるための切断を起こすためにも水は必要不可欠だ。
そして、初期生物が十数憶年の時間をかけて少しづつその構造を複雑化させていったものが人や猫や昆虫や樹木だ。これらのルーツはすべて同じところにある。
つまり、地球生物は水に完全に
♯は地面に広がる植物を見た。地球と同じような見た目の同じような機能を持ちそうなこの植物は、実はほとんど雨が降らない場所に生えているという。雨は生物にとって害のあるもので、滅多に降らない。
違和感がみるみるうちに膨らんでいく。
そして決壊した。
♯は半狂乱になって叫んだ。「
息をあえがせた♯を襲ったのは、純粋な恐怖心だった。この宇宙は♯の知っているような見た目をしただけの完全な別物だった。少なくともこの惑星は、地球の地上から見た世界ととてもよく似ているが、現実を一歩進むとそこには
しかしこれは違う。植物の必須構成要素が変わっているというのは、
そもそも生物の基礎の部分が全て
♯は頭をかきむしった。ぜんっぜん分からない!
「♯、大丈夫か?」と聞いてくるのはこちらを見る父親。「心配なことでも思い出したか?」
♯はそちらを振り向いた。「お父様、農業に水がいらない理由を詳しく説明してください。」
「いらない理由?その、植物を育てるには土の質と生育を妨げる雑草の除去が必要だとは聞いているが。♯は水が必要だと思うのか?」
「さっきまで思っていました。」♯は正直に言った。「でも、今は何も思ってません。」
いや、と♯は思考する。
この世界の常識が一変した、そんな時まず何をするべきか。
これまでも父親の書斎の本は読み漁ってきたが、読んだ本は領地経営の方法論であったり国家関係家系図であったり歴史書であったりした。父親は非常に周到だったようで、魔法という文字はおろか、その存在を匂わせるような文章や超常的な力がなければ成立しない状況が含まれた本は全て別の場所へ移動させていたという。正直にいうと♯に魔法の存在を知らせないためだけにそこまでの労力を払うのは多少の
有能な狂人は扱いが難しすぎるので周囲にはいない方がいいというのが♯の率直な意見だ。
実際、♯は本を読むときに些細な常識の差を感じ楽しむことはあれど、
「そろそろ雨が上がりそうですね。」とテントの端の方でマチルダさんの声が聞こえた。そういえば雨が止むまでの間安全な空間で待機していたんだった、と♯は思い出した。あまりにも衝撃的な事柄が次々と起こったため多少忘れかけていた。
その5分後雨は上がり、♯たち一行は屋敷へと帰還した。
(誤字報告本当にありがとうございます…恥ずかしいやら申し訳ないやらで…)
次話は明日の18時です。