「面白い冗談ねシャロン?」母がにこやかと言うにはいささか
♯は笑顔を維持してその顔と向き合った。満面の笑みだ。♯の出来る最上級の威嚇行動だ。「お母様が心配なんです。」
「心配という言葉は魔法が飛び交う戦場に5歳の女の子が侵入する事を意味しませんよ。」母も同じ笑顔を維持している。「そもそもついて来て何をするつもり?」
♯は大袈裟に腕を組んで唸った。「うーん、そうですね、例えば…。
母の目が細まった。「具体的には?」
「まあ、地域一帯を数秒で
母は膝上の♯を抱えたまま、口を閉じた。悩み始めたらしい。♯はほくそ笑んだ。
次に父親が♯に向けて言った。「却下だ。容認出来ない。」
♯は口を引き結んだ。目の前の男は交渉の席についてくれる様子すら見せていない。いつもはこんな態度を取ることはほとんどないのだが、身の安全など複数の話題の時だけはこうやって交渉の拒絶をする。本人にとって非常に大事な問題であることが多いので理解は出来るが、今回は♯にとって都合が悪い。
「却下を却下します。」♯は父親に向かって言った。「次期領主による情勢把握と戦場視察を要請します。お父様は黙っていてください。」
「父親ではなくウィッケンハイザー家当主として却下する。」冷徹な当主の顔をした男が言う。「幼児の情緒に悪影響の与えうる環境に幼い次期当主が触れることは認められない。」
♯も口を開く。「
「
「分かったよ、シャロンちゃん。意見を聞かせてくれ。」男は折れたようだった。「最初は僕とティアの言い合いを収めるためだと思ってたけど、別の意図があるんだろ?」
♯は硬い表情で黙った。
父親は腕を組んで、一転して厳しい表情になった。「戦場に娘を送り出すことについて、意見を変えるつもりは一切ない。」
♯は奥歯を噛んだ。逆側の立場なら全く同じことをしている自覚がある分、たちが悪い。それはそうだろう。一応意見は聞くだけ聞くが、それだけだ。安全に関して、本人の意見など
なので♯は父親を説得することを諦めた。
♯は安心させるように笑った。「分かりました。辞めておきます。」
父親は絶望的な表情になりこちらを見てきた。
♯がその様子を見て首を傾げると、父親は同じ表情で口を開いた。「シャロン、君は今
「え?そんなの…。」♯はまばたきをした。「さっき言っていたことですよ。」
父親は頭を抱えた。「なぜか妙に明言を避けているな。」そして核心を突く質問をした。
「
♯は内心の動揺を悟られないように口を開いた。「朝起きてからですか?まずは顔を洗います。」
父親はうなづいた。「次に着替えて、その次は移動用の荷車の中に潜り込むんだな?」
「いえ、着替えの後はまず厨房で食べ物を手に入れます。荷車の中に隠れるのはその
父親はがくりと項垂れた。「そして、第一のプランがバレた♯は次の計画では何をするつもりなんだ?寝静まった深夜に行動を始めるつもりか?一緒の荷車に乗らず乗合車の予約をするのか?それとも何かとんでもない奇跡でも起こすつもりか?」
「答えるわけないじゃないですか。」♯は愚か者を見る目で男を眺めた。「それに、そうやって選択肢を潰そうとしても無駄です。もちろん乗合車の予約はとっておきますし深夜に物音を起こすための細工はするつもりですが、その程度の発想力では私を出し抜くのは無理ですよ。」♯は親切そうな口調で言う。「お父様の能力不足ではありません。
「なあ、シャロンちゃん。意見を変えるつもりはないか?」父親は額に滲む汗を拭きながら言った。
♯は芝居がかった動作で腕を組んだ。「お母様を救いにいくことについて、意見を変えるつもりは一切ありません。」
父親はまた汗を拭った。♯は勝利を確信した。
突然♯のお腹に回された腕に力が籠った。「♯ちゃん、今のはどういうお話?」母である。
「え?」♯は声を裏返さずに発話出来たことを奇跡だと判断した。「いえ、こんなの、ただの冗談ですよ。」
「
♯は母の腕を振り解いて向いの椅子に逃げ込んだ。勝ち目がない戦いを挑むほど♯は愚かではない。
母は椅子の背もたれに向かって座る♯を持ち上げてひっくり返し、向かい合わせに座らせた。そして目を合わせてくる。
「ついてきてはいけません。」母親はそう宣言した。
「
両親は顔を見合わせた。悩ましい表情をしている。少しして母親が口を開いた。「どうして、♯ちゃんはそうまでしてついてきたいの?」
♯は口を開き、閉じた。そして父親の方を見る。
「分かった。真剣に話を聞いた上でもう一度判断すると約束する。だから話してほしい。」父親は降参というポーズで手を挙げながら言った。
こうなってしまったら♯も言わないわけにはいかない。
「その…」これは少し、いやかなり言いにくい。「このタイミングでお母様を送り出したとしたら、数日後に帰ってくるのは凶報と亡くなった母の遺体だと思ったんです。」
父親は非常に険しい目をして♯を見つめる。「どこでそんな
「プレス、言葉づかいに気をつけなさい。」と母がたしなめる。そして♯の方を向き、手を握ってくる。「私は心配いらないわ、シャロン。そんなことは考えなくて良いのよ。私は大丈夫だから。」
♯は片手で自分の二の腕を触った。どう表現すればいいか…。「お母様に対する心配が
「そして私は、
両親二人はまたしても顔を見合わせた。そして揃って曖昧な笑みを浮かべた。♯はその顔を見た瞬間に、それが大人がよくする子供の間違いを正そうとする表情だと分かった。
♯は自分が物語の主人公に相応しいと確信していた。幼いが見目麗しく、理性的で思慮深い。理路整然と事を進め、時には大胆に行動を起こし、自らの行動の責任は自らでとる。溢れんばかりの知性に翳りはなく、燦然と人類の道筋を照らす
という主張は過去に両親に複数回聞かせているが、毎回微妙な反応でうやむやにされていた。
♯の懐疑的な目に気づいた父親が顎を触りながら口を開いた。「つまり…、♯はこれが物語だとしたら、ここで悲劇が起きるだろうと言っているのか?」
♯はうなずいた。
「ちなみに、♯が生まれてからも過去に数回ティアにはこういう依頼をしてもらい毎回無事に帰ってきてくれているが、なぜ今回は危険があると思うんだ?」
「魔法を習ったからです。」
「
「私の調べでは、物語が始まるタイミングなんて大体決まっているんです。主人公が悲劇にあうか、奇跡的ななにかが起こる時から大抵物語は始まります。♯という人間の物語なら、多分椅子が勝手に動いた瞬間から物語が始まってそうな予感がします。」
「つまり、最近物語が始まったばかりだから、危険だということか?」
「まあ、そうです。プロットの一章で悲劇を起こそうと考える作家はおそらくかなり多い。そして私は
「現実を物語だと思い込むことはあまり感心出来ることではないが…。」父親はそこで言葉を切った。先ほどの言葉通り、♯の主張を受けてもう一度考えているのだろう。
♯はさらに口を開く。「お父様、私はこういう物語の
父親はどかりと背後の椅子に座り込んだ。非常に厳しい目をしている。「
そして椅子にだらりと身を預けた。「なんでこんな態度を5歳の可愛い娘に取らなきゃいけないんだ。おどかしても止まる訳がない子にこんな事しても全然意味がない。そもそも娘から嫌われる役なんて
母は呆れたようにため息をついた。「あなたがやらないなら誰がやるのよ。」
父親は目だけでそちらを見た。「それが問題なんだ。あの分身を出す魔法を使えば僕の分身とかがやってくれたりしないか?」
「プレス、私の話を聞いていた?」
「いや、ごめん。ただの冗談だし分身は鏡像にしかならないという話はちゃんと覚えてる。でも
♯は声を震わせながら、口を開きかけた。「わ、私は…。」泣き出さないように耐えていたが、声が震えることまでは止められなかった。
正直、親からここまで愛されているとは思っていなかった。♯自身、自分は
それがどうだ…?はっきりと、しかしなんのためらいもなく子への愛情を表明する親がここにいる。不気味な子供を、それでも自らの子として大切に考えてくれている。♯は突然泣きださないように耐えることが出来て心底良かったと思った。危なかった。
それに気づいた父親がハッとして口を抑えた。「シャロン、申し訳ない。こんな事を本人の前で言ってはならなかったんだが、気が抜けていた。本当にごめん。忘れてほしい。」
そこまで聞いていた♯は椅子に座る父の膝にしがみついた。肉体年齢に引っ張られすぎているような感覚はあるが、そんな事はどうでもいい。今はこの
「お父様。」♯は顔を見られないように父親の胸元に顔を埋めた。特に涙を見せないようにしたかった。「いいえ、絶対に忘れません。忘れる事なんてしません。」♯は顔を隠しながら笑った。「というより、ことあるごとに蒸し返すと思います。」
「おい!」父親が我慢出来ずにといった様子で声を上げた。「やめてくれ、僕は厳格で時々分かりづらい優しさを見せる父親像を目指してるんだ。」
「それは流石にもう無理がありますよ、お父様。」♯はまた笑った。「今から進める方向は、娘にメロメロで甘々なパパになる道しか残されてません。」
「どさくさに紛れて都合よく僕の将来を決めないでくれ。」
「私抜きでイチャイチャしてるんだけど。」と母がぼやいたのが聞こえた。
次話は明日の18時です。