その後の話し合いを経て、♯は母に同行し、その保護のため新たに護衛をもう二人増やすことで決まった。
かなりワガママを通した自覚はあるが、未来の大きな損失を回避するために今小さな損失を起こす事は悪いことではないと言えるはずだ。…いや、実際は強いバイアスが掛かった思考パターンに入り込んでいる気もする。これで♯が同行することで問題が生じ、結果的に誰かを失う可能性も
それでも♯が母と一緒に行きたかった理由はなぜか。
それは、
もし父親の命令によって母に同行せず、母を失ったら♯はほぼ確実に父親を恨んでしまう。護衛の二人を恨んでしまう。
だからこれほど強固に同行を望んだのだ。ただのワガママだが、♯にとって譲れないワガママだった。
譲れない、というのも合理化ではある。だが、この限られた情報の中では
♯はこの自己弁護すらも、自分の判断を正当化するためのものだと自覚は出来ていた。だけどそれでも、
この判断を覆す気はない。♯はそう思考した。
♯の脳は、こいつは本当に面倒なやつだと嘆息した。
荷車が進むガラガラという音が周囲にこだましている。とは言っても周囲にその音を煩わしく思う人は見当たらない。ここは長い街道の途中で、周囲には広い草原と森が見えるだけだ。
とはいえ、♯はそれらをあまり視界にはいれていなかった。
♯の手には羊皮紙の手紙が複数枚ある。どれもこれから行くストックウェル領からの依頼の手紙だった。出発前に全て読んだ♯だったが、荷車の上では特にすることもなかったのでもう一度読んでいた。♯は隙間の時間は全て文字を読むことに費やしてきた人生を送ってきた。転生してからの初めての長旅とはいえ、生活習慣がいきなり変わるわけではない。
♯は手紙から目を離し隣に座る母親を見上げた。「お母様、ひとつ良いですか?」
「なあに?♯ちゃん。」と母が顔を寄せてくる。
「その、正直これを読んだだけではあまり分からないんですが、この依頼の内容は、手紙に書かれたこの一部勢力をお母様に倒してほしい、という意味のものなんですか?その、これから行くストックウェル領には自衛組織が存在しないか太刀打ちできないほど弱いという事ですか?」
母は首を振った。「そういう訳ではないわ。まあ、この正式な依頼の手紙は、頼み事の内容を曖昧にしてこちらの協力の範囲を広げようとしているからあまり褒められたものではないけれど、ストックウェル領には立派な騎士団があるはずよ。」
「それじゃあ、なんでこんな頼みをしてきているんですか?」
母は悩むように声をあげて、もう一度手紙を読み始めた。
少し経ってから母が口を開いた。「多分これじゃないかしら。」そして手紙の一部分を読み上げ始める。
___かねてより懸念されておりました一部勢力の動きが、最近になって顕在化してまいりました。現在、周辺の村落に対して影響を及ぼしつつ進行しており、すでに当該地域において一定の拠点的行動が確認されております。
我々の部隊においても可能な限りの対応を進めておりますが、構成員の中に高い魔法能力を有する者が含まれているとの情報があり、局地的な対応が難航しているのが現状でございます。
つきましては、当該魔法能力に対抗しうる人材のご派遣について、前向きにご検討賜れますと幸いです。また、併せて広くご支援いただける体制についても、ご助力を賜れれば誠に心強く存じます。___
「長々と書かれているから要約すると、盗賊が現れた、村を襲ってる、拠点となる場所も手に入れた、と読めるわね。そして、魔法行使の実力者も居る様子ね。」
♯は眉をひそめた。「騎士団の全員を
母は♯を見た。そしてほんの少し教師としての顔を覗かせた。「♯ちゃん。つかぬ事を聞きますが魔法戦術書は読んだことはある?」
「魔大戦史は読みました。魔王軍が次々と刃物を持った男に切り裂かれていく内容でしたが、500億年前の出来事と書かれていたので良く資料が残っていたと関心しきりでした。」
母は頭を抑えた。「それはフィクションよ。」
「あ、他には実用!マギ使用術!も読みましたよ。特殊なインクで紙に模様を書くと現実が書き換えられる方法らしいです。」
母は♯の頬を両側から潰した。「それはエセ魔術です。」
「
「まだ読めていないならそう言ってくれれば良いのに。」母は溜息をついて♯の頬から手を離した。
♯は潰された両頬に息がまだあるかを慎重に確認しながら、顔をむくれさせた。矜持として、家にある本をまだ読めていないと宣言する事は♯にとって敗北を宣言する事と等しい。とはいえ、本は自己増殖するものなのである程度は諦めてもいる。
だが、♯にとって
確かに考えてみると、これから戦闘行為が行われる現場に出発するというタイミングで魔法戦術の基礎となる本を持ち出さなかったのはかなり大きなミスと言えるだろう。♯は脳内に反省スタンプを押して後で振り返る事が出来るようにしておいた。
「お母様」♯は思考を切り替えて言った。「戦術書にはどんな話が書かれているんですか?」
母親ははっきりと教師の顔になった。「基礎的な戦術書には、魔法行使の実力差と戦力差についての内容が
魔法行使の個人の能力は、
魔法の強度は、例えば物を魔法によって生み出した時の硬度や基礎防御魔法の耐衝撃性を指している訳ではありません。強度という表現は、言い換えれば
「うーん、そうですね…。」♯は頬から手を離した。懸命な♯の介護の甲斐あっていつものモチモチとしたほっぺたに戻っている。「優先度の高い人の魔法は、例えば、低い人の魔法を打ち消せるとか?と言っても、発火魔法には対になった打ち消すための別の魔法がありますよね。」♯は腕を組んで考えた。そして口を開く。「ごめんなさいお母様、まだ正直よく分からないです。」
母はそれを聞いて謝罪するように♯の頭を撫でた。「謝罪の必要はありませんよ♯さん。こちらも理解している前提で話を進めてしまいました。」
そして教師が口を開く。「魔法行使の強度の高い人間は、低い人間の魔法行使を
相対的に魔法強度の低い人間の魔法詠唱中に、強度の高い人間が別の魔法の詠唱を始めると、前者の魔法は効果を発揮しません。例えばいま、♯ちゃんが木の棒の先に火を起こそうとして呪文を唱えた時、その呪文を唱えきる前に私が基礎防御魔法を唱え始めると、♯ちゃんの起こそうとした魔法は失敗します。もちろん遠く離れた場所の人間同士が魔法を唱えたところで干渉するわけではありませんが、距離が近ければ阻害される事はままあります。
この距離というのはその人間同士の距離という意味ではありません。魔法には、その魔法の効力が現れる
この、作用点の距離が一定以上近い場合、その魔法同士は
♯は困惑げに短い指で鼻筋をなでた。「どういう
「分かりません。」教師は端的に言った。「色々な学説がありますし、多少それっぽい理論を提唱している研究者もいますが、どれも
♯はうーん、とうなった。仮説は色々思いつくのだが、仮説を元にした単純な実験はまだ思いつかない。
♯が黙ってしまったところを見て、母が口を開いた。「♯ちゃん、難しかった?」
「いえ、そういう訳ではないですよ。」
「なら、先に進むわね。」教師が続ける。「この現象の発見によって、武力闘争において戦力差を判断するための指標は
魔法行使強度の高い人間は、強度の低い相手に対して
♯もここまで聞いて段々と分かってきた。「つまり今回の依頼は、ストックウェル領の騎士団全員より魔法強度の高い魔法使いが現れたから、それよりもさらに高い強度を持つお母様の助けが欲しいという意味ですか?」
母は頷いた。「恐らくそういう依頼のはずよ。この魔法行使強度は領内の
♯は楽観的な母の言葉に曖昧に頷いた。「その、相手は強度の高い魔法使いなんですよね。危険じゃないんですか?」
「まあ、戦闘行為に参加する以上多少の危険はあるけれど、それほど心配はしていないわ。」そこで母は目を光らせ、顔の横で人差し指を掲げた。
「では♯さん。ここで問題です。」
「はい!」♯は元気よく返事をした。問題は大好きだ。特に
「魔法行使の強度が高い人間と低い人間が1対1の決闘をしました。もちろん大きな怪我などは与えないようルールの決まったものです。結果は強度の低い人間の圧勝でした。なぜでしょう?」
「
「もう少し悩む素振りをしてちょうだい。」母親は顔をふくれさせた。「こんなにすぐ答えちゃうなんて。」
♯は母親の膨らんだ頬をつついてしぼませた。「それにしてはちょっと簡単すぎます。」
母親は見せるようにおおげさにため息をついた。そして切り替えるように頭を振り、教師の顔になった。
「魔法行使の強度は、比較的
しかし、呪文の発音訓練やイメージの想起の訓練であれば反復練習が比較的簡単で、習熟すれば一般的な水準からは考えられないほど素早く魔法を行使することが出来ます。反射神経や肉体の動き、魔法戦闘経験なども繰り返すことで高まる技能です。これらの技能を高い水準に保っている上級者と、普段ほとんど魔法訓練をしていない一般的な人間には
どれだけ高い魔法行使の強度を持っていたとしても、相手の呪文の詠唱に
教師は口を閉じ、また開いた。「けれど、
♯は手をあげた。「ではなんで、お母様はあまり心配してないんですか?今回は真剣な武力衝突ではないですか?」
母はニコリと笑った。「それはもちろん、私が
「うわ。」♯は初めて見る母の自信満々のドヤ顔にすこし気圧された。
次話は明日の18時です。