荷車は手紙にあった町からそれほど遠くない位置にある村まで進んだ。この村でストックウェル領の代表者と落ち合う約束をしているらしい。領地同士の規模の協力関係なのだからもう少し格式のある屋敷などで話をしてからだと♯は思っていたが、そうではないらしい。
母はこの村が待ち合わせの場所になった事について、安全に寝泊まりができて行商人が回るルート上にある分かりやすい場所だからだ、と説明してくれた。非常に合理的かつ現場に精通している有能な担当者が居るのだろうと♯は思ったが、少ししてその考えを改めた。
優秀なのはストックウェル領の担当者ではなく、
場所の選定理由には母の思想が滲みすぎている。
荒事となると母親はかなりシビアな性格になることを♯はこの旅が始まってから気づいた。準備する荷物は必要最低限だと教わった。そのため♯は着替えを1着、本を4冊しか旅行用鞄に詰めなかったのだが、そもそもその鞄を荷物として載せる事を許されなかった。♯の今の持ち物は手提げかばんひとつであり、その中には手紙や地図は別として他の書物は一冊しかない。あるのは杖とメモ用の数枚の裏紙とペンと初級魔法呪文語集だけだ。魔法呪文語集は集というより言語辞典のようなもので、魔法によく使われる呪文とその意味が並んで書かれている。魔法を学ぶにあたりまずは意味をすべて理解しなさい、というのが母の教えだった。
それだけ荷物を減らして何を詰め込むかと聞くと、食料という回答が返ってきた。思いがけない事に、魔法では食べ物を生み出すか呼び出すことが出来ないらしい。厳密な母の説明では、見た目も触れた感覚も味も食感もすべて本物の食べ物のように見えるものを呼び出す魔法はかなり昔にはあったが、それを食べると数日から二週間以内程度に死ぬらしい。魔法の非万能性について多少懐疑的だった♯だが、思わぬところで魔法の限界に出会ってしまった。
食べ物を出す魔法はない!と言われていたとしたらなんとかして見つけようとしていたかもしれないが、そんな魔法はあるけど辞めておいたほうが良い、と言われてしまうと少し勢いが削がれる感覚になる。万一のことを考えると人に魔法で作った食べ物を与えることは出来ないため、なにかしらの単純な改良方法を思いついたとしても実験のしようが無いようにも思う。この世界には実験動物として適性の高い種はいるだろうか。
という事で、話を戻すとこの荷車には大量の保存食が積み込まれている。♯と母、護衛4人の計6名の食事9日分になるらしい。更に布や塗り薬や替えの靴や金属製の武具なども積み込まれた。どれも魔法で生み出せないものだ。少なくとも今の♯の実力では出せないものだ。
意外な事に水は積み込まれなかったが、考えてみると全く意外な事ではない。飲み水はその辺りの空間から誰でもすぐに取り出すことが出来る。
荷車は三台あり、護衛二名が乗る荷車2台に挟まれる形で母と♯が乗る荷車がある。護衛対象を安全な場所に置き、前後の荷車を完璧に射程内に抑えている魔法使いも中央に配置する事が出来る。荷車にはほとんどの荷物が三等分に分けられていて、荷車を二つ捨てる事になったとしても急場は凌げる状況になっているという。
♯から見ても、安全性には十分な
村には昼過ぎについた。イメージにあった中世ヨーロッパ風異世界の村とは多少違ったが、大枠は変わらない。民家がぽつぽつと立ち並び、急な坂や川を避けるように蛇行した道が繋がっている。広場は平坦だがその先は起伏が多く、基本的に同じ高さに並んだ家はないように見えた。村と言えば木造で茅葺のあばら家というイメージは間違っていたらしく、煉瓦のような石製の頑丈な建物のように見える。石製の建造物を見ると、つい大型地震が一度来たら木っ端みじんになってしまいそうだという心配をしてしまうのは悪い癖だ。現代日本で11年暮らした経験によって染みついた耐震強度を気にする癖は5年でもなくならないらしい。
そういえば、この世界には地震や火山活動などのプレートテクトニクスはあるのだろうか。確かに火山を見かけたことはこれまでにはなかった。
いやいや、と♯は思考する。山を見たことはあるんだから、造山運動はあるはずだ。この周辺がたまたまプレートの境目ではないから、そういった地殻運動の影響が低いだけだ。
♯の頭の中の合理化を検知するランプが光り警報が鳴り響き始めたが、♯は無視する事にした。この世界が
村の講堂のような場所を貸してくれるという話がすでにされていたようで、一行はそちらに案内された。多少埃っぽいが、全く問題はない。いや、本当になにも問題はないらしい。♯は空気を入れ替えるために手ごろな窓に向かったが、母がそれを止めてきた。
「♯ちゃん、こちらにいらっしゃい。」
♯は窓を見上げ、それから母親を見た。彼女は
♯は頷き、母親の後ろに回って待機した。掃除や空気の入れ替えなどという今まで多少労力の必要だったことは、今では棒切れ一本で解決できるのだ。♯は魔法のある生活には多少慣れてきてはいたが、魔法を実生活で
母親は杖を構え、数単語を唱えた。♯は日々の訓練によって、単語数をおおよそ把握することが出来るようになっていた。今の呪文はおそらく4~20単語程度だろう。大半の呪文はその範囲に含まれているという指摘は今のところ受け入れる予定はない。
室内は風が吹いたようにも水が渦巻いたようにも見えなかった。相変らず少し長めの呪文を持つ魔法の時には魔法行使者の背中側に一瞬非常に複雑な円形の紋様が現れるのだが、すぐにかき消えてしまうため記録出来たことはなかった。潮騒の音もいつも通り聞こえるが、これについても進展は何もない。
♯は母親と共に再び建物の中へと入った。何かが起きた様子は全くないのだが、なぜかキラキラと舞っていたホコリたちが忽然と姿を消している。地面のザラザラとした砂の感覚も全くない。
母親は隣で頷いている。本人にとっては満足のいく結果なようだ。
「お母様、さっきの魔法はどんなものなんですか?」
「ああ、まだ教えたことはなかったわね。」母親は後ろに控えていた護衛の方々に荷物管理の指示を指で示しながら言った。「今のは生活魔法のうちのひとつで、消去魔法よ。」
「消去?」♯は首を捻った。「どんな魔法ですか?」
「名前の通り、ゴミなどを消してしまう魔法よ。♯も詠唱を覚えてみる?」
「ゴミなどを消す…。お母様、その魔法でなくなったゴミや埃はどこに行ってしまうんですか?」
母親は肩をすくめた。「さあねえ、どこかしらね。」
♯はその返事を
117:消去魔法はものを消しているのか、飛ばしているのかについて。飛ばしているとしたらどこに行っているのか。
♯はそこまで書き込んでから思いついて、もう一つ書いた。
118:魔法使いの魔法に対する興味のなさ、遺伝的なものなのか、習慣的なものなのか。
そしてメモを仕舞った。これはもちろん♯のいずれ
母親は綺麗になった講堂を整えるよう護衛の方に指示を出して、それから♯と手を繋いだ。驚いて母親を見上げた♯だったが、奥の部屋から椅子やら敷物やらを運び始めていた護衛の方の様子を見て頷いた。
邪魔をしないよう♯は母親に連れられて外へ出た。
夕方になって、ようやくストックウェル領の使者が村に到着した。その男性はストックウェル家当主の次男だと名乗り、遅れたことを詫びていた。母親はウィッケンハイザー家の名代としての威厳は必要ないと考えているらしく、会合には威厳たっぷりな♯の同席を許可されることはなかった。
講堂はそれなりに広く、玄関兼大広間の奥に入ると複数の個室があった。♯は今日、この個室のうちのひとつに母親と一緒に寝泊まりする予定だという。今世では初めての外泊である。
部屋には簡易的なベッドがひとつだけあった。大きさは大人が寝てもはみ出さないサイズだが、明らかに♯が使えと言わんばかりに飾りたててある。恐らく♯が参加する事になってから護衛を希望したという女性騎士の仕業だろう。どこからピンク色に染められた枕なんてものを見つけてきたのか。そしてそれをどうやって母親に隠し通して持ってきたのか。恐ろしい執念だ。
とはいえ、可愛いので文句は全くない。枕のデフォルメされた動物(おそらく猫)が非常に良い。名前はなんて言うのだろう。後で聞いてこなければ。
会合が終わり、使者の男性は帰っていった。盗賊団が居座っているらしい町の近くに作られた騎士団の野営地に戻るらしい。
男性は帰る寸前にわざわざ♯の元まで挨拶をしに来た。長い挨拶だったが内容は男性の役職と大げさな感謝と今後もよろしくと勝手に領内で雨を降らすなという話だった。率直にそう言えば15秒で終わる話だったがなぜか彼は30分も引き延ばしたうえで同じ内容を三回に渡って伝えてきた。これは♯の理解力と記憶力を薄っすらと馬鹿にする
まあ、確かにすべての言動を悪意に捉えても良い事はあまりない。と思ったが
♯は真意を尋ねない事にした。いくら♯でも母親の内面に巣食っているかもしれない暗黒に気づきたくはない。
次話は明日の18時です。