♯は自動で動く荷車の上で、先ほどとは違いだいぶ楽しんでいた。周りには結構な数の荷車が並走していて、暗い丘を進んでいる。
街道は通らない。整備されて綺麗な道なため素早く目的地まで進めるが、開けているためそれだけ素早く発見される。班長以上が参加したブリーフィングでは移動時間の短縮として提案した者が居たが、早朝に奇襲するという面倒な策を使っているのだから、その意図と反する事をするつもりはないと一蹴された。
♯は揺れる荷車の上で不敵な笑みを浮かべた。
これは
これほど心躍るものもなかなかない。軍隊の一員として参加し、護衛対象のか弱い姫を守る騎士、シャロン・P・ウィッケンハイザー。そして守られる深窓の姫君、シャロン・P・ウィッケンハイザー。
頭で妄想するとばかばかしくなってきたので♯は辞めた。なんでよりにもよって自分で自分の身を守らなくてはならないのか。守る側か守られる側のどちらかであれば役に集中出来るのだが、どちらもこなすのは妄想世界では難しすぎる。
しかし、行軍に参加しているという興奮はなかなか抑えられなかった。まるで物語の一幕のように感じる。実際には暗闇を大量の荷車が並走しているだけなのだが、これからここに居る全ての人々が同じ目標を達成するために協力する。そう考えると、♯はとても嬉しくなる。
さらにそれが、誰かを救いに行く行軍だというのが良い。盗賊に占拠された町では、今も虐げられている人間が居る。我々がそれを助け出す。そうでなければならない。
♯が任された仕事は、姫であるシャロン・P・ウィッケンハイザーが無傷な状態で戦闘を終える事。そして♯がするべき一番大事な事は、母親を無事に家まで送り届ける事。この二つを完遂しなければ、
そろそろ町が見えてくるという。つまり相手がこちらに気づく可能性があるという事だ。♯は気合いをいれた。
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背後から後方火力部隊の一声乱れぬ詠唱が聞こえてくる。いや、ほんの少しずつ全員がズレたタイミングで始めているようだ。魔法強度の高い順に詠唱を始めていけば、確かに複数人がほぼ同時に魔法を行使する事が出来る。
荷車の集団は速力を保ちながら町の城壁に向けて一直線に進んでいく。こう見ると、確かに壁が一切ない場合と比べて防衛能力はあるように感じる。
後方で一瞬、特有の青緑の光が瞬き城壁を照らした。草原は暗い青緑の霧のような色に包まれ、赤茶色のレンガは暗く、城壁は藍緑に染められた。非常に短い光だったが極めて強烈で、城壁からの反射光ですら目を覆いたくなるような光だった。
それの光のほんの数舜後、荷車の集団が目指していた城壁の一角が忽然と消失したのを♯は見逃さなかった。風穴が空いた訳でも、完全に崩壊したわけでもない。ただそこには元から何もなかったかのように、壁一面がぽっかりと空いているのだ。城壁の面同士を繋ぎ合わせる役目を持っていたはずの尖塔は、元からそうだったかのように城壁の片側の端を守る塔として変貌していた。普通、塔の両端に城壁が接続していたのなら連絡通路の出入口のため塔には穴が空いているはずだが、そのような痕跡は一切見当たらない。その奥の街並みもなぜか開けた通りのような状態になっている。まるで魔法によってこの町の
その直後、同じ荷車に乗っていた母親が♯の方を振り向いて杖を構え、少し長めの詠唱を唱えた。
「お守りのようなものだから、♯ちゃんは気にしないでいいわ。」そう言って母親は♯の髪を撫でてくる。
「実際には
「怖い思いを少しでも減らしたいの。今度説明するわ。じゃあ、シャロンちゃんは護衛のおじさんとお姉さんの事をよく聞いて、危ない事はなにもしない事。約束よ。」
♯は深く頷いた。「お母様も、約束です。もしお母様が危なくなったら、私はなにをするか分かりませんから。」
母親は渋い顔をした。「その脅迫の方法はお父様から禁止されていなかったかしら?」
「お父様に対しては禁止になっていますけど、お母様に対してはそういう訳ではないですからね」
母親は♯の頬をつついた。「なら、私からは
♯は驚きの表情で母親を見つめた。条件付きとはいえ、♯の自己判断に任せても良い部分をこれほど多く残すとは。
「そんなに驚かなくても。」母親はクスリと笑った。「これから危険な場所に行くのだから、緊急時に身を守る手段を残そうとするのは自然な事でしょう?それに、シャロンならその時は上手く使えるでしょう?」
「もちろん!」♯は喜色を声に混ぜた。
母親は町の城壁を超えた直後に優雅に建物の屋根へと飛び去っていった。あの魔法は一人用なのだろうか。どうにか頼みこめば♯も一緒に空へ連れていってもらえないだろうか、と思ったが安全に関してはかなり頑固になる父親と使用人さん達を説得できるほどの論理展開が出来そうだとは思えなかった。
正直、母が単独で行動する事はかなり不安な気持ちになる。なにかがあった時に即座に気づける状況でなければここまで来た意味がかなり薄れてしまう事はもちろんの事、♯自身の安全という意味でもそれなりに怖い。身を守る為の最低限の魔法はかなり初期の頃に教わったが、真剣な戦闘の中でそれが効果的に機能するかどうかは分からない。
♯と護衛の4名が乗っていた荷車はゆっくりとスピードを落として最終的に止まった。元々の計画の通り、♯とその護衛2人は戦場を俯瞰出来る場所で防衛を固めた状態で待機する事になっている。ほかの2人は母の独断で♯の護衛に追加された。
戦場が俯瞰できる場所という指定は、♯とぬいぐるみの双方から提案されたものだった。♯の目的である母親の安全確保という面では戦場を見渡すことが出来る場所で待機することが最も効率がよく、また♯が参加する対外的な理由として用意された次期当主による視察という建前を重視していたぬいぐるみ側にも利益のあるものだった。
という事で、♯は壁の横から(護衛の方の魔法により)せりだされた階段を登り、それなりの高さの建物の屋上で待機していた。♯が転んで三回転しても落ちないほど
♯は杖を構えた。すでに周囲の四人のうちおじさん三名は大きな金属盾を構え♯の周囲に立っている。無防備になる詠唱中を守るためだと言うが、多少暑苦しい。残りの一人である女性騎士はすでに杖を構え詠唱を始めている。
彼女が詠唱を終えると、♯たち五人の周囲の空間がほんの少し
それが終わった事を確認した♯は即座に詠唱を始めた。内容は先程女性騎士が唱えたものと全く同じもの。
「
唱え終わると、やはり先程と同様に周囲の空間が少しだけ歪んだ感覚があった。地球科学で説明しようとすれば、空気の屈折率がほんの少し変化したようなイメージになるだろうか。もちろんそんな理屈ではこの魔法世界の現象を説明出来ているはずがないが、見た目だけでいえばそんな様子だ。
♯が詠唱を終わらせると、盾を持っていたおじさんのうち一人が即座に杖を取り出し呪文を唱え始める。またしても同じ文言で、同じような現象が起きる。
そしてもう一人。
そしてまた一人。
全員が唱え終わると、僅かに五人の間に弛緩した空気が流れた。もちろん緊張感は変わらずあるが、一番集中しなければならない局面は凌いだ、というような雰囲気だ。
さきほどの魔法は、基礎防御魔法と呼ばれる最も一般的な身を守る手段であり、最も
そして、この魔法の真に驚くべきところは、この魔法は
多重化とは、複数の人間が同じ対象に対して同じ魔法をかける事で効力や規模を大きくするという技術であり、多重化を前提として作られている魔法や古くから多数の人間が行使してきた儀式魔法のようなものに備わる希少な特性だという。
それを、基礎防御魔法は備えている。
一重の防御を纏った対象に対して、もう一度基礎防御魔法を行使するとそれは二重の防御となる。力場の消失は二重になったとしても一度目の衝撃で消えてしまうようだが、衝撃の軽減はかなりのものになる。三重に防御を纏えばさらに、四重ではそれを超える衝撃軽減を達成できる。20回以上の多重化は防御を
つまるところ、♯たち五人は全員が全員に向けて五重の基礎防御魔法を掛け合った。これによって運悪く流れ弾(流れ魔法?)に当たって重篤な怪我をするリスクはかなり抑えられる。
基礎防御魔法は戦闘ではもちろん、日常生活でもそれなりに活用されているようで短縮魔法が発見されている魔法でもあるという。♯を除く残りの四名は全員この短縮魔法を習得しているという話だったが、初学者が多重化に混ざる場合は万が一の場合を考えて参加者全員が完全詠唱を行うルールになっているらしい。万が一とはなにかという質問には、
次話は明日の18時です。