♯ことシャロン・P・ウィッケンハイザーはまたしても自室で机に向かっていた。
机には銅貨が1つ、それとメモ紙や筆記用具。
この銅貨が、あの
父親から受け取った資産である
書き出した案は全部で13あったが、1番現実的かつまともな案が'この銅貨を鋳潰し錫と混ぜ刃物に変え、父親を脅す'だったが、♯では筋力が足りず致命傷を負わせられそうにない事と、合金の作り方を詳しく知らなかったのでこの案は破棄した。
父親を脅すなら銅貨を鋳潰すより、娘の直筆で書かれた犯罪計画書であるこのメモを見せた方が効果的だし、脅すそもそもの目的である資産増加は父親にバレている。♯が脅し始めた瞬間から父親は自分の財布を暖炉に投げ入れ徹底抗戦の姿勢を示すだろう。
♯は大人しくメモを暖炉に落とした。紙は熱と周囲に漂う酸素により非常に素早く酸化され、表面に付いたインクの染みを跡形もなく消し去った。ように見えた。少なくとも今の紙の燃焼を説明出来る仮説は地球科学由来のものだけだったが、いずれ全てを解き明かすつもりではある。
紙を燃やしたのは、今後父親を銅貨で脅す事になっても計画的な犯行だと悟られないようにする為の措置だ。
さて、落ち着いて考えると先程の父親との会話で得たものは中央銀行が撒いた銅板のゴミの他にもあった事に気がついた。ひとつは会話パートを進めるだけで
ふたつめは♯の提案には少なくとも一定の圧力があるという事だった。父親は(恐らく)検討を進め、結果として脳が混乱し♯の事を金属ゴミの廃棄箱かなにかだと勘違いしてしまったが、それは父親を混乱させる程度には
それが親子という関係性から生じているのか、提案の内容そのものに価値があったのか、♯の説得にそれだけの力があったのか、それとも父親の中に♯には想像できない価値基準があったのか。♯の提案にあった圧力の理由は分からないが、理由は分からなくても
「おじいちゃんこんにちは!♯ね、お小遣いが欲しい!」
という事で♯の父方の大叔父様にお目通りを願い、結果として金貨3枚を手に入れた。
♯は人生の必勝法を発見した。この家の当主であるお父上は♯の中で大叔父様の3万分の1の価値の人間になった。
その日の午後、♯は父に呼び出しを受けリビングへ向かっていた。それまでの時間、♯は受け取った金貨3枚を効率的に増幅させる方法を考えていたが、あまり成果は上がっていなかった。
貴族の収入の源である土地からの税収を受取るための土地を買おうかとも思ったが、金貨3枚では屋敷のリビングの模様の一つ分程度にしかならないらしく、その範囲の税収は無いに等しかった。嫌がらせのためにお父上の執務室の扉の前の1cmを所有し交通料を取ることも考えたが、使用人さん達が払う方が圧倒的に高頻度だったため辞めた。♯が困らせたい相手はあの銅貨男であり優秀な使用人さん達ではない。
正しい自己判断が出来る自分を発見すると♯はいつも気分が良くなった。
リビングには銅貨男と母と大祖父がいた。銅貨男は多少顔を引き締めて威厳を取り戻そうとしているが、♯は多少顔が良い程度で態度が変わるような単純な女ではない。あの男がこの家の長女からパパと呼ばれるためにはまとまった現金が必要になる。そのことをこいつはしっかりと認識できているのか?と♯は疑わずにはいられなかった。
母がニコニコとしていたので♯は安心して部屋に入っていったが、奥に座る大叔父様の顔が多少申し訳なさそうな事に気が付き嫌な予感を覚えた。
「♯、勉強中に呼び立ててすまない。」と銅貨男。いつものふざけた仮初の威厳をまとって喋っている。
♯はただ黙った。ここで、今までしていた事は勉強ではなく手っ取り早く金を稼ぐ方法の考案だと訂正した所で自身にはなんのメリットも無い事を♯はもちろん理解している。
「君が午前に提案してきた件についてだが、いくら早熟であろうと5歳の女の子に実際の資産管理を任せる事には反対の立場である事は変わらない。しかし妻との話し合いの席を経て、多少の柔軟性を含ませても大きな問題にはならないだろうという事も理解した。
そこで、この家では家事資本化制を取ることに決定した。家事を行うと、それに見合った現金を受け取ることができ、現金を支払う事になった場合はそれを家事で支払う事が出来る。家庭内であれば家事の前借りとして金銭を先に受け取り、それに見合った家事を行う事で返済をすることも可能だ。この制度は今ここに居る家長である私、私の妻、私の叔父、使用人纏めのマチさん以下働いてもらっている全使用人、そして我が娘の9人に等しく適応される。この制度外での金銭の授受は原則として禁止とし、家庭内裁判で有効性が認められたもののみ、例外的にこの制度外での金銭の授受を容認する。
ここまで、質問は?」
「…あの、お父様。」♯は小さく手をあげた。「その制度についてですが。簡潔にお手伝い制と表現しない理由はありますか?」
「ああ…まあ、そうとも表現は出来る。」男はしばし逡巡した。「だけどその……こっちのほうが格好良くない?」
♯はハッとした。「
父親は♯の返事を聞いて一瞬ニヤリと笑った。しかしすぐに咳ばらいをして真剣な表情に戻った。
「さて、ここで一つ、非常に不幸な事件が起こってしまった。だれが悪いという話ではない、ただ、少しタイミングが悪かっただけの事件だ。
私は♯が資産運用の件での面会を終えてすぐ、妻との会合の席を設けた。そこで様々な話し合いをへて、今説明したとおりの家事資本化制を導入する事が決まった。そこで家庭内の立法権を一任している我が妻は、会合での決定を確実なものとするべくその場で『家庭内法』に書き込んだ。『家庭内法』では、家庭内メモ帳に記入した時点でその法令は施行されたものとされるのは周知の事実だ。そして、この法令の周知は午後にタイミングを設けることに決め解散した。
この一連の手続きを終え、しかし周知はされていない昼食前のタイミングで事は起こった。わが叔父と、娘の♯による無許可での金銭の授受である。♯と叔父は面会した際、お小遣いと称し金銭の受け渡しを行ったと報告が上がっている。その時の金額はそれまで♯が持っていた財産の3万倍もの金額になるという調べもついている。
これは家庭内法では♯が祖父に金貨3枚の借金をしたという扱いになる。金額に応じた
しかし、♯はこの男に唯々諾々と従う気など
銅貨男はなおも続ける。「そこで♯には、慈悲深い父から寛大な提案をしたいと思う。君の祖父から受け取ったお金をそのまま返すのであれば、家事の支払いも取り消しにしてあげようと思う。どうかな?優しい父の提案に賢い娘は頷いてくれるか?」
♯はそれに答えず、ポケットから銅貨を一枚取り出した。(♯は財布を持っていないので貴重品はすべて自分のポケットに入れている。そこが最も安全だからだ。)
かの有名な極悪非道の大罪人、銅貨男から接収したキラリと輝く銅貨である。
「お父上、私の寛大な計らいとして、一つ
父親は多少警戒した声で「何かな?」と返した。
「いえ。この銅貨を私に渡す時に説明した内容が、我がお母様に伝わる前に回収しなくてもよろしいのかなと思ったまでです。」
「ぬ…」と一円玉男の声。
この土壇場になって、
0×無限大は、その情報だけでは答えがひとつに定まらない。小さくする速さと、大きくする速さの程度によって0にも1にも無限大にも変化しうるのだが、この銅貨男は自分にとって都合のいい1だけをさも答えであるかのように言い張ったのだ。学部生でも分かる明快な法則だが、
そして、この銅貨男は自分の実の娘である♯を相手に
これは家庭内法ではあらゆる意味で重罪に値する。
♯はクスクスと笑った。笑いたい気分だったのだ。昼に作ったあのメモを燃やしておいて良かったと♯は心の底から思った。まさか燃やしてから一時間も経たずに父親を銅貨で脅すことになるなんて。
「分かった。」と硬貨で脅されている男の声。「その硬貨の非常に綺麗な輝きに目を奪われた。どうかその銅貨をそうだな…銀貨2枚で買い取らせてくれないか?」
♯は単に取り合わなかった。
「ぐ…銀貨10枚ならどうだろうか、マドモアゼル?」
「おじい様~。」と♯は多少かわい子ぶって言った。「お父様がいじわるしてくるんです。」
「ん?」と大叔父は手遊びに読んでいた新聞から目を離した。そして、孫に頼みごとをされた老人とはかくあるべしという行動をとった。「これ、子供が小さい頃など風のように過ぎてしまうのだから、精一杯甘やかしなさいと言うておろうに。」(祖父は自分があげた金貨が孫の手から離れるのは良くないと単純に考えていた。)
父親は絶望の表情を浮かべた。
♯は勝利の確信を得た。
しかし有効打はいつだって視界の外から飛んでくるものである。
「♯、そのくらいにしておきなさい。」
「お母様!」♯は抗議した。「
母親はため息をついた。
「屋敷の東側の壁の件も忘れないで頂戴ね。ねえシャロン、悪い事は言わないから一度お金を預けて頂戴。相応の金額を持たせられるか判断する時間も両親には必要なんです。これでも分からない?」
今の説明を聞いて、♯は両親の言い分も一理あると思ってしまった。確かに親から見れば実績のない一人娘に大金を持たせる事には相応のリスクがある。
しかしそれでもお金を手放すことは躊躇われた。♯はこれまでの人生で一度もお金を失ったことがなかった。
「うぅ………。」
母親は♯の目の前に屈んで目を合わせてきた。「賢いあなたなら何が正しい事なのか分かっているわよね。何もずっと預かっておくわけではないわ。信頼出来る事が分かったタイミングで返すと約束します。ほら、金貨を出して頂戴。」
♯はムスっとしながらポケットから金貨を取り出した。言い分は分かる。♯の事を尊重していることも分かる。それでも割り切るのは難しかった。♯はまだ13歳だ。
母は芝居がかった動作でそれを受け取った。「確かに受け取りました。あとお父さん。銅貨の話は
父親はその言葉で冷や汗が止まらなくなったようだ。♯はそれを見て多少溜飲を下げた。
母親はそしてにっこりと笑い、「じゃあ、お手伝いのために
その言葉が♯の脳にしみ込むまでにおよそ9秒かかった。(大叔父は突然止まった孫の事が心配になった。)
雄大な静寂がその場を支配した。
「えっ!?この世界って魔法が存在するの!?」♯は生まれてから一番大きな声を出した。
次話は明日の18時です。