三階建て程度の高さの建物の屋根からは四方向の門から伸びる大通りと中央の広場を見渡すことが出来た。町の中はぽつぽつと松明のようなものに火はついていたため完全な暗闇という訳ではなかったが、それでも個人を識別することはおろかどちらがどちらの陣営であり、民間人はどれかすらもあまり分からなかった。元々は整えられていたであろう街並みは荒れ果て、陶器や荷車などの良く分からないゴミが散乱していた。魔法は視界に入っていれば行使する事が可能だというが、この暗闇では人なのかゴミなのかすら分からない。魔法は状況把握がかなり大事な技能だが、視界が悪いこの状況では対象がどんな様子かすら分からない。
というか…。
♯は目を擦った。これで三回目だ。♯は警戒はした状態で屋根から下を見下ろしていたのだが、薄暗い広場のあちこちに明らかに人間の形状をした白いもやが掛かっているように見えるのだ。それに、時折金属音は聞こえるが人の声はほとんど聞こえてこない事もおかしい。中央で明らかに突撃の号令を出している動きをしている人の声も微かにしか聞こえず、その号令に従って大きな建物の中へ突入していく人の声に至っては全く聞こえない。望遠鏡で様子を見ているわけでもないので、聞こえなければおかしいのだがなぜか全く聞こえない。
頭をひねった♯だったが、ふと先程の母親が♯に対してかけたと思われる魔法を思い浮かべた。あの時母は何と言っていたか。…確か、怖い思いを減らしたいというような事だったと思う。文言は多少違うかもしれないが、ニュアンスは間違ってはいないだろう。
そして♯は気が付いた。ほとんどの声が聞こえないのは、それが怒号のような声量の大きな激しい声だからだ。広場に白く塗りつぶされた場所がちらほらとあるように見えるのは、そこに痛ましい姿の人間かなにかがあるからだ。母親は町に入る直前にこの魔法を♯にかけた。
つまり、怖いものを知覚しにくくする魔法が今の♯には掛かっている。
♯は、母親への強い感謝を覚えた。前世から、♯は人が戦う所を、怪我をしないように決められたスポーツや作り物と分かっている映画などでしか見たことがなかった。血が流れるのは怖く、大声で身がすくんでしまう人間だった。本物の殺し合いを見る事などなく、人生で一度も見ることなんてないと薄っすらと思っていた。そんな人間がいきなり、戦場の真ん中で戦いを見学することなど
今なら、お父様の言っていた事が分かる。これは5歳の子供がいてもいいような環境じゃない。
広場の奥では、明らかにみすぼらしい服装の人間が金属鎧を纏った騎士にのしかかられている。騎士は腰に佩いた短刀を取り出して__という所まで暗闇でも薄っすらと見えたが、母親の魔法によって二人は白く塗りつぶされた。真っ白に塗りつぶされたなにかが飛び散り、それによって地面が白く染っていくことさえ分かる。
♯は唇をぎゅっと噛んだ。♯はこの戦場ではなにも出来ない。ほとんど誰の死も止められない。自分の中で決めた優先順位は必ず守らなければならず、その最上位には、今この瞬間に傷つけられた盗賊のひとりの名前はもちろんない。
♯は涙を堪えて目をつむった。それが逃避だという事には気づいていた。
セレスティア・ウィッケンハイザーは軽やかに屋根上を走りながらもう一度索敵魔法を唱えた。広い範囲内の魔法行使を検知出来る優れた魔法なのだが、欠点として検知できる時間が索敵魔法の発現から三秒間しか持続しない。16節3連のこの魔法をセレスティアは6秒間隔で唱えられるが、発声している状態で索敵の検知反応に気づけるほど自分の能力を過信してはいない。
それに、索敵ではなく目視で魔法光を見つけた時に瞬時に対抗魔法を唱える必要もある。盗賊団は実質、魔法使い一人との戦いではあったが、それ以外の盗賊全員が魔法を使えないという訳ではない。
そもそもとして、セレスティアは敵の魔法使いがどこにいるか大体見当がついていた。
魔法は目で捉えられる範囲が効果範囲になる。例外は起動のタイミングを指定するような、罠や門などに使われる魔法に限られる。
これまで起きた規模の大きな魔法戦による教訓から、魔法戦闘ではまず、広範囲を視界に収められる場所を確保することが定石になっていた。
つまり、敵の単騎最大戦力である魔法使いは町で一番大きな時計台に居座っている。ほとんど確実にそこに居を構えているはずだ。
敵の魔法使いにとって大きく有利に働く地形であることはもちろんだが、敵が位置を読まれることを予想しあえて別の場所に移動する事も考えにくい。相手視点に立てば、もしそれによって一度目の襲撃を回避できたとしても、それ以降は最大の地の利を敵にまるまる明け渡すことになる。その選択は初撃で敗北することは防げるが、同時に勝利も手放す選択肢になる。まともな判断ができる人間ならそんなことはしない。
今回はこちら側が攻め込む形のため地形による不利があるが、迎撃側の場合はもちろんセレスティアも全く同じように高い建物や丘の上に居座ることにしていた。真剣な相手であれば必ず取る選択肢だ。
セレスティアは屋根の上で跳躍を辞め、左に二歩、後ろに一歩歩いた。屋根には煙突が立っていて、時計塔から彼女の体をほとんど隠している。見えるのは煙突についた小さな
そしてその場で索敵魔法の呪文を唱え始めた。
その1.2秒後、詠唱を続けながら彼女はほんのわずかに腕を内側に入れた。それ以外、変化はなにもない。
内心苦々しげな顔をしたセレスティアは索敵魔法を唱えきり、魔法は従順に発現し、索敵にはまたしてもなにも反応はなかった。
詠唱の途中で対象が視界から外れると魔法は発現しない。それでも、長年の経験による動物的な勘で魔法を回避したことを確信したセレスティアは、相手が思っていたよりも実力のある魔法使いだと警戒度を引き上げた。
目を閉じた♯は、暗闇が広がるはずの視界にあるはずのないものが現れていることに気づき、驚きの声をあげた。
恐怖を感じそうなものに掛かっていたあの白い塗りつぶしが、目を瞑った状態でも見えている。暗闇が広がるはずだったまぶたに隠された視界には、なぜか未だに白い人影が映っている。
他の事に気を取られていた♯は、言われてみればこの白い塗りつぶしがどんな原理で現れているか想像もしていなかったが、確かに目の表面が直接白くなっていれば魔法が掛けられている人が事故的に見てしまう事はかなり少なくなるはずだ。
♯は試しに、目をつむった状態で頭を振ってみた。ほんの少し知的好奇心が湧いたのだ。
すると、その白い塗りつぶしは頭の動きにあわせて暗闇の視界の中をぐるぐると動き回った。頭の振る速度を速めると白色の動きも早まり、遅ければその動きに合わせるように遅くなる。まるで目を開いていれば丁度その白い塗りつぶしの位置に死体や傷ついた人がいて、それを隠しているかのように。
♯は目を閉じたまま、震える指をあげて真っすぐに白く塗りつぶされた先を指差した。その先には、腹を抑えてうずくまる男性騎士のような形状の白い影がある。
「
時計塔の上部のガラス窓が微かに光った。セレスティアは反応が遅れた事に歯噛みしながらひと呼吸で基礎防御魔法を五度、短縮詠唱によって自分自身にかけた。
そのまま彼女は時計塔への最短経路を家屋を軽やかに踏みつけながら進んでいく。一度、軽い衝撃が彼女の脇腹辺りにあったが、それにはほとんど頓着する事なく進んだ。これはセレスティアの防御を剥がすための牽制であり、彼女も相手がそのつもりで唱えたものだと分かっているため適当な防御で済ませた。この全てをどちらの魔法使いも認識している。
セレスティアは屋根上を跳躍しながら、更に4節の詠唱を唱え空中で体を半回転させ後ろに向いた。それは視界方向から自身に向かって突風を吹かせる魔法で、自身の脚力より早く移動する方法のひとつだ。欠点として進む先の場所を視界に入れられないため追撃や接近に使う場合無防備な姿を晒すのだが、今回はめくらましが成功したという実感があったため使う事が出来た。そう判断した根拠はないが、数秒経った今でも魔法が発現されていない事が後付けの証拠となる。
十分時計塔まで近づいたセレスティアは下を向き、突風の向きを上昇方向へ変更させた。人一人を持ち上げるほどの突風はその後
内臓が撫でられるような浮遊感と、暗闇に飲まれたような街並み。湧き上がる恐怖を抑えて彼女はニコリと微笑んだ。長杖を持った魔法使いと目があう。彼はこちらを見上げ、驚きの表情で止まっていた。
セレスティアは頭を地面に向け、構えた杖の照準を時計塔の上部窓の内側に合わせて魔法を唱えた。
空に閃光が走った。
更新ペースに追いつかれてしまったため、一旦明日の更新の後から書き溜め期間を設けます。
次話は明日の18時です。次々話は6/13 18時を予定しています。