♯は基礎防御魔法を完璧に唱えきり、置かれたペンは従順に防御をまとった。これは完全に想定内だ。そもそも静止した物体に防御をまとわせる方法から勉強したのだから当然の事だ。
♯はひとつ頷き、再び口を開く。
「na-dora ebonelth closak.
na-shielda bron--lth readyak.」
♯はわざと、5節目の単語の一部を発音せずにふんわりと濁して詠唱してみた。
またしてもペンは防御をまとった。周囲に現れる特有の僅かな歪みが見える。
♯は内心の動揺を表に出さないように苦労して表情を制御した。一度目でこれほど上手くいくとは思っていなかったが、実験はここで終わりではない。
「na-dora ebonelth closak.
na-shielda bron--lth re--yak.」
♯はもう一度詠唱を唱えきり、ペンは同じように防御をまとう。
「na-dora ebonelth closak.
na-shi--da br----lth re--yak.」
もう一度。またしてもペンは周囲の空間の歪みを伴って防御を纏った。
「na-dora ebonelth closak.
na------da br----lth ----yak.」
もう一度。
「na-dora ebonelth closak.
na------da ----- ----yak.」
♯は目をつむり、基礎防御魔法を作り出す思考に集中しようとした。息を浅く吐く。
「na-dora ebonelth closak.
---------- ----- -------.」
ペンの周囲には、前回と全く同じように基礎防御魔法が発現した事を表す特有の歪みが現れた。今までの魔法の行使となにも変わりはなく、これからもなにも変わりはないという様子だ。
♯は試しにペンを持とうとしてみたが、今のペンの周囲にはなんらかの力場が発生しているらしく、数センチ以内に指が入り込めないようになっているらしい。
♯は額の汗を手で乱暴に拭った。淑女らしくする余裕なんてものはあるはずがない。画期的な魔法の新発見をした直後に余裕ある態度の出来る人間がいるなら、一度お会いして魔法の欠陥について熱く語り合いたい。
つまり、♯の仮説がおおよそ実証されたという事だった。
魔法の呪文というのは実際にはまるで大事なものではなく、意味が通る程度の原型を保つ必要もなく、そもそも半分削ったところでなんら問題は無いという事だった。魔法を発現させるために必要な事は、魔法を作り上げる思考の形状と、杖だけ。なんらかを発声しなければならないという制約はあるのかもしれないが、その内容については魔法にとってあまり重要ではないらしい。
まあ、たまたま基礎防御魔法という魔法がこういう詠唱の改変への耐性が高く出来ているだけだという可能性はないこともない。もともと3節の魔法だったこの魔法が、時代と共に後半部分が追加された結果今の形になっただけで、前半部分だけで魔法を行使することは可能だったという可能性もないとも言えない。
割ともっともらしい仮説ではある。
実際にないとも言えないため、♯はもう一度杖を構え実践してみた。
***
15秒後。
「なんでこれじゃあダメなの!?」
♯は戦場だという事を忘れて大声を出した。
***
♯の護衛として今回の遠征に参加していたエリン・ウリツカヤは今目の前でシャロン姫君によって起こされていた一連の事実をどうにか理解しようとしていた。衝撃によって目の奥が軽く痛むほどだった。
事実として提示された以上認めなくてはならないとは理屈として分かるものの、あまりにも受け入れがたい出来事だった。
魔法は詠唱を完璧に発音し、その上で思考を構築しなければ行使出来ない。これは魔法を行使するためのルールであり、これを満たせない人間は単に魔法を使う事の出来ない人間という意味になる。要するに完璧に詠唱を発音することは魔法行使の前提であるということ。詠唱をわざと発音しない事の意味は、単に魔法が失敗するという意味以上を持たなかった。
つい先ほどまでは。
詠唱の一部分を声に出さずに魔法を発現させるというのは、詠唱そのものの意味が全く別のものになるという事を表す。魔法の内容が全く違うものに変化し、ほとんどの場合そんな内容の魔法は存在しないため発現することはない。
そもそも、詠唱は魔法の前提なのだから、詠唱を削って魔法を行使しようとすることは単に間違っているどころか、論理的に不可能な事をしている。お椀だけ用意して中身をよそわずに腹を満たそうとしているようなものだ。想像を作り上げながら詠唱を進め、その途中で詠唱を意図的に間違える。これで魔法が発現するはずがない。
という考え方は、この瞬間に姫君によって完全に破壊された。論理的にありえない事がつい先ほど起きた。天子の奇跡というほかなかった。
エリンは内心の混乱を振り払い、姫君を囲んでお守りしている残りの三人と目配せをした。この出来事は、姫君が誰かに伝えるまでは一切外へ漏らしてはならない。天子の起こす奇跡を目の当たりにした人間には、極めて厳しい秘匿命令が下される。今の出来事は明らかにそれに値する。
エリンは湧き上がる感情を伝えるべく、祖に祈るため薄く目を閉じた。姫君しかいない。やはり、姫君でなければならない。
***
今までの一連の現象(の前半部分)を纏めてまず思いつく仮説は、魔法という現象に詠唱はなんの関与もしていない、というありきたりなものだった。詠唱はこれから行う現実を改変する作業の目標や結果などを明確にするために人間にとって必要なものだ、という仮説だ。
この仮説は言い換えれば、詠唱は魔法にとって必要なものではない、という事だった。
詠唱のある一部分を濁して発音しても、魔法の発現にはなんの問題もない。詠唱の単語ひとつをまるまる発音せずとも、魔法の結果に変わりはない。詠唱そのものを半分切り捨てようが魔法はまったく頓着せず従順に現実を書きかえる。
発音以外の思考や杖やその他諸環境にほとんど変化はないはずだ。多少の差はあるかもしれないが、魔法の発現に必要な程度の範囲に収まっていることは(実際に魔法が発現していることから)間違いない。
大きく変わっているところは詠唱だけ。そして、詠唱を大きく変えようが魔法は変化なく現実へと現れる。
この観察からまず初めに思いつくべき事こそが、詠唱は魔法にとって必要なものではないという仮説だ。
詠唱が必要なのは魔法ではない、詠唱は人間にとって必要なのだ。
電気を起こすためのコイルと回転体は、人間が電気を起こすために必要なものだ。電気にとってみればコイルと回転体は一切必要ではない。電気の本質は、場の変化によって電子などの粒子が影響を受ける相互作用であり、これの発生にコイルという構造体はもちろん全く必要ではない。電気を発生させるために人間にとって必要なものが、コイルと呼ばれる構造体というだけ。
思考を伝達するための言語は、人間が他者へ思考を伝えるために必要なものだ。思考にとってみれば、言語などなくとも思考そのものとして存在しうる。思考の本質は、神経回路上での電気的なエネルギー交換のパターンとしてのみ存在し、そこに言語と呼ばれる特定の構造体はもちろん全く必要ではない。思考を他者へと伝達しなければならない段階になって初めて言語の必要性が生まれる。人間が思考を伝えるために言語が必要なのであって、思考そのものに言語は必要ではない。
人はその本人にとって必須に見えるものを、世界のルールだと思い込んでしまう。詠唱を使用する事で人間は魔法を行使することが出来るから、魔法には詠唱が必要不可欠なものだと思い込んでしまう。
だから♯はこう考えたのだ。
魔法を起こすための詠唱は、人間が魔法を起こすために必要なものであり、魔法そのものにとって必要ではない。
そして、この仮説は実証されたように見えた。実験の前半の部分では。
実験の後半の部分では、以下の文言を変化させることで魔法の発現にどんな影響が出るかという検証を行った。
na-dora ebonelth closak.
この文言は詠唱全体の前半部分であり、後半部分は完全に発音せずとも魔法は発現した。そのため♯はこの前半部分の文言も後半とたいした役割の違いはないだろうと踏んでいた。
それが、♯には受け入れられない事なのだが…。
ほんの少しでも発声を抑えたり濁したり止めたりといった事をすると、魔法は完全に効果を発揮しなくなる。na-doraという部分の、naとdoraをほんの少し滲ませるようにnudoraと発音するとたったそれだけで魔法は発現を辞める。sの発音をほんのわずかに濁すだけで、まるで電源が切れたかのように何も起きなくなる。
3節2連の詠唱の全ての中で、前半の取るに足らない一部分だけ変化させたとしても、魔法は発現しない。後半の取るに足らない一部分ではそんなことは全く起こらず、魔法は発現する。
突如として♯の仮説と一切合わない結果が続々と集まってきてしまったのだ。
まるで意味が分からない、というのが♯の率直な感想だった。まだ、実験の一番初めの段階から仮説に合わない結果が現れ続けていたのなら話は分かる。その場合であれば、魔法は♯の仮説ほど単純な構造ではない、と判断するだけの事だった。次の仮説を考え始めなければならなくはあるが、そんな事は問題にすらならない。一つ目の仮説が反証されることは偉大な進歩だった。
しかしこれはどうだ…?
途中までは驚くほど上手く実験が進んでいた。詠唱を変化させようと結果に変化はまったく出ず、実験は思い通り進み、結果は思い通りになった。詠唱のまるまる半分を消失させてなお、魔法の発現に影響はないように見えていた。
そしてなにかが壊れた。
さっき適当に考えた仮説が信憑性を帯びてきてしまう。時代と共に詠唱が増えることなどあるのか?と批判的な♯が言うが、そんな意見はなんの役にもたたないためその他の♯によって一蹴された。
実際、詠唱に必要不可欠な部分が、正しいと思われていた詠唱の半分しかなかったとしても♯の見ている世界に変化は起きないはずだ。だれしもが、本来は全く必要のない後半の部分を発声していたとしても、なにも知らない♯であれば全く違和感は感じないだろう。それが普通の事であり、それが正しい事にしか見えないのだから。
♯はこの結果をしっかりと記録した。あとで、より慎重な実験を計画しなければならない。
とはいえ、最初に考えていた計画にはまだ残りがある。最初の段階でここまで妙な事になるとは思っていなかったが、かと言ってその後ろの計画を進めてはならない訳ではない。というより、こちらが本題の計画だ。
♯はまた杖を握った。