円盤大地仮説
〔ここまでのおはなし〕
♯ちゃんことシャロン・P・ウィッケンハイザーは現代日本で育ち、ウィッケンハイザー家長女としてこの世界に誕生した。庭の物置で粉塵爆発の実験を成功させたことがある。宇宙の基本法則を解明するために、まず先に解きやすそうな問題である魔法を解明しようと思っている。
プレスコット・ウィッケンハイザーは彼女の父親として5年間過ごし、その間に生え際が少し後退した。物置きの爆発事故の安全管理を騎士団に追及された時、神の祝福だと主張して難を逃れたことがある。
セレスティア・ウィッケンハイザーはその妻として5年間過ごし、魔法戦闘の腕が鈍っていた事を最近自覚した。娘の話を理解するために一旦学生の頃まで戻りたいと思っている。
護衛として♯の外泊に同行したエリン・ウリツカヤは名前を覚えてもらう名誉をシャロン姫君からようやく受けることが出来た。
くまのぬいぐるみであるカミル・トラヴィスは5歳の女の子に嫌われているかもしれない事を少し気にしている。
次の日。♯ことシャロン・P・ウィッケンハイザーはまたしても自室で机に向かっていた。
目の前には石ころがひとつ、それとメモ紙や筆記用具。
この石ころが今の♯の頭を悩ませている元凶だった。いや、正確には石ころなど全く関係ないのだが、語弊を恐れずに分かりやすく表現するのなら、この石ころが元凶だった。
ある物全体を対象に基礎防御魔法を唱えると、その物全体を覆える最低半径を持つ球体状の
ここまでが、この基礎防御魔法という
そして、♯がこの魔法をうまく行使することで見つけたと思わしき法則は、この魔法の対象はある物の全体ではなく
この謎にあふれた異世界という世界に原子論(と呼べるようなもの)があるかどうかの判断はまだ出来ていなかった♯だったが、
ここで大事な部分は、♯は原子の存在を確信していた
この仮説と検証による一周目のサイクルに、原子の存在の予言やクォークのスピン問題への深い知識は全く必要ではない。それらは
現代知識をこの世界に適用出来ると確信しているのなら、確かにそれらは有用な道具になるばかりか、現行の理論の数歩先の画期的な知識になるだろう。けれど、そう確信出来ない現実にいる以上、非常に慎重になる必要がある。
この、
何も
♯が屋根上の石ころを拾ってつぶさに観察したところ、そこには欠けや割れや色味の違いや質感の違いがあった。ふたつを見比べたときには、それぞれに違いがあり、二つ以上の石ころのそれぞれに
そして、物のある一部分を対象に基礎防御魔法を行使すると、それは
棒などの細長い形状の一部分に防御を纏わせると棒全体が空間に固定され、強い力でそれを動かそうとすると防御面を境に綺麗に切断される。切断面は滑らかで、折れたや割れたと表現するよりも、するりと切られたという方が適切な様子に見える。
という現実を見た♯の最初の感想は、「
実際、今考えても仮説はある程度いい方向に向かっているように思える。
防御面が生まれた瞬間から固体が貫通している時、その固体と防御面が触れている各地点のそれぞれには、力に対して逆向きに同じ強さの力が働く。そして、防御面の各点と防御の中心となる一点の位置関係が変わらない事から、全体が固体の物は全てその場に留まる。
というのが仮説だが、これは一見正しそうに見える。この仮説であれば、棒状の物が切断される事への説明も付けられそうに思える。
だが、この仮説では
知っての通り慣性とは、移動し続けるものは移動を続けるという古典物理学の原則であり、そこには
反対に、もし慣性に影響される何かがあるとすれば、それは地球表面に留まることが出来る代わりに、
慣性に影響されるか、されないか、という二項命題である限り、結果も上記の2種類しか許容されない。つまり、地表に留まることなくどこかへ吹き飛んでいくか、荷車と等速で移動を続けるか、という二つの様子しか許されていないということだった。
この一連の仮説のどこかが
確証の持てないことを信じることは罪なのだが、そんなことは今の♯にはどうでも良くなりつつあった。
この地表が、天体や惑星と名前をつけられそうなものではなく、もっと異質で奇妙でおかしなものだとしたら。
♯は頭を抱えて机に突っ伏した。冷や汗と鳥肌が止まらない。
♯は、初めて現実を知ることへの恐怖を経験した。
ややあってから、現実を怖がる意味はないことを♯はようやく思い出した。昔読んだ本に書かれていた言葉が頭の中を巡り、少しづつ♯の精神を落ち着かせていく。
真実を知ることを恐れる理由はない。自分の常識が破壊されることを恐れる理由はない。脳内に描いている理想的な様子より現実は良いものではないかもしれないが、現実が現実より悪くなることはない。
恐れることはなにもない、臆さず進め。
♯は努力して笑みを浮かべた。現実に向き合うための
なにを怖がる必要があるんだ?ただ宇宙の構造が根本から崩れ去るかもしれない程度のことで動揺してどうする?君はこれからもっと大きな変革をもたらすんじゃないのか?
♯は脳内の自身からのその分かりきった問いに、答えを返す。
そうだ。私の夢は世界征服だ。この現実を私は支配しなければならない。
脳内の♯も笑みを浮かべ、頷いた。それでいい。
それで♯は正気に戻った、というか平常に戻った。
そして、本当はこの大地がどんな形状になっているのかを調べるために資料庫へ向かった。
「地動説?」
資料庫の閲覧机に座って分厚い書籍を読んでいた父親が顔を上げた。天窓からの細い陽光が本にあたり、活字(と呼べそうな書体)の一行だけを照らしているのが見える。光の当たった部分が真に重要な一文だと日光が示唆しているようにも感じる。ただの印象でしかないのだが。
「地動説とは、天空が大地の周りを回っているのではなく、丸い大地がもっと広い場所を回っているんじゃないか、とする話です。お父様は聞き覚えはないですか?」
父親はそれを受けて眉を寄せた。悩んでいるようにも思い出しているようにもとれる仕草だ。
「確か、一昨年くらいに生まれた天子が、そんな話をしていたと読んだ記憶があるが…。私はその時、根拠なしと判断したような覚えがある。」
♯は父親の対面の椅子を引いて登った。「どんな内容ですか?」
「あー、正直あまり注意を払っていなかったが、主張の羅列みたいなものだったはずだ。確か……。」
そう言って父親は机から立ち上がり、棚から紙束を取り出しそのうちの数枚を引き抜いた。
♯も椅子から飛び降り父親の手元を覗き込んだ。
すぐに紙の一部を指さされ、♯の頭上から声が届く。
「これだな。
__この大地は非常に大きな球体であり、それより遥かに大きな空間に浮かんでいる。大地は自分で回転をしながら光の玉の周りを回っている。日夜があるのは大地が回転しているからだ。__
という主張らしい。これが事実なら凄いことだが、今のところ証拠の発見の報は上がってきていないな。
♯の言っていたことはこれと関係があるか?」
♯は肩口の髪をつまんで、少しいじった。「まあ、おおむねその通りなんですが。その方の証拠もなく言い切る姿勢はあまり評価出来ません。」
「それは僕も同感。」父親は頷いて席に座った。「でも、♯も同じ主張をするのなら、多少それらしい証拠はあるんだろう?」
「いえ、その…。この
♯も父親の動きに合わせて椅子に登った。この部屋には都合の悪い事に子供用の背の低い椅子は置かれていないらしい。恐らく父親の失態だろうと判断した♯は父親評価ポイントを1点減点しておいた。
「それで、お父様はこの主張を見てどう感じましたか?この世界の常識ではどんな反応になりますか?」
父親は机を指で叩いた。「気になっていたのはまさにそこなんだ。なんでこの天子の男の子もシャロンも、この大地が丸いと言っているんだ?」
♯は椅子から転げ落ちそうになった。「
「いやその、確かに湾曲しているらしいとは聞いたことがあるが、球体とは全く言えないだろ?」
「
「だから、大地には終端があることはずっと昔から知られているし、僕も実際に端っこを見たことがあって、なんで球体なんて発想になったのかな…と。」
その言葉の1.2秒後、♯は机に身を乗り出したことで座っていた椅子を倒しもみくちゃになって地面へと転がった。頭に直撃する寸前だった椅子は間一髪で使用人さんが掴んでくれた。この件によって♯は今までの人生で三度この使用人さんに命を救われたことになる。
などという思考はほとんど♯の脳内に留まらず、うめき声へと変換され♯の口から排出された。
父親であるプレスコットはほとんど反射的に椅子を蹴とばして倒れる娘の方へと体を寄せ、バクバクと鳴る心臓を落ち着かせるよう深呼吸をした。ほとんど娘への心配で支配されている脳内の片隅にチラリと毛根の心配がよぎった。
父親の経験と常識と文献で得た知識をまとめると、大地には本当に
崖や滝の先は空と同じ薄い霧がかかり、見渡す限り大地も水も島もなく、ただ空が広がっているという。
♯の脳はここまでの理解で処理回路を使い果たし、それが果たして何を意味しているのかまるで分からなかった。
つまり、
あのエセ科学の根拠のかけらもない主張の書かれた本の何割かは、事実を元にした考察だった可能性が出てくるということだった。大地がカメの背中に広がっているものだとする主張にも、どこかに事実を元にした根拠が書かれていたのかもしれない。
♯は無力感を感じながら、一応脳内のメモに
「そろそろ満足出来た?」と対面に座る父親が声をかけてくる。左右には山のように積まれた書籍たちが鎮座している。
「はい。それなりの信憑性があるということは分かりました。」という♯の両側にも小山が出来ている。重たい本は父親側に置かれたためこちらは綴じられていない紙束などが大量にある。
父親は頷き、「じゃあ、一旦お茶でも飲もうか。」と席を立った。
「お父様。使用人さんに片付けを任せきりにするのは良くないですよ。」
父親は♯を見た。
♯も負けじと父親と目を合わせた。
ややあってから、父親はいいことを思いついたような仕草で指を鳴らした。
「時に♯ちゃん。資産形成に興味はないかな?今ならお片付けをするだけで銀貨3枚…。」
「お父様、
「さて、シャロンちゃん。まずは手前の棚の分とそれ以外で分けていこう。」
♯は頷いて父親の横に立った。「銀貨3枚になりますよ。」
「
2人の掛け合いを後ろで聞いていた領主付きの屋敷使用人は嘆息した。そういう作業こそこちらの仕事だというのに。
ちょうど部屋の外を通った足音に気づいた彼は扉を静かに開け、通りがかった使用人のロレンツに誰か来させるように頼んだ。お茶の時間に間に合わせるには自分一人が手伝うだけでは足りないだろう。
部屋の中からはまだ2人の声が聞こえてくる。
「報酬は前払いの方が印象が良くなりますよ。」
「貴族家の人間ともあろうものが結果も見ずに報酬は渡せないよ。」
「ケチ。」
「半分の仕事量で満額払うんだからそれで良いじゃん!」
彼は思わずそれにクスッと笑ってしまった。大変微笑ましい。
遅くなりましたすいません!次話は数日中です。