つまり、これで♯の持ち合わせている背景知識である地球現代の知識のほとんどは使い物にならなくなった、ということだった。
突然大地が途切れ、その先にはただ空だけが広がっている世界。大地の先の世界についての観察はほとんどなく、根拠のない粗製濫造された妄想が蔓延している。この世界の誰一人として、実際のところ本当はどうなっているかという事を真剣に考えてはいないらしい。少なくとも、
まあ、それも無理はないのかもしれない。この中世ヨーロッパ風異世界ではまだ、真に重要で
科学は一般に、幾何級数的に増幅する。そしてそれは逆の方向にも働く。
元々蓄積されていた知識が少なければ、それだけ知識の蓄積はゆっくりとしたものになる。知識の蓄積そのもののモチベーションが低い状態では、新しい発見という稀有な出来事は地球現代では考えられないほど長い時間をかけなければ現れる望みは薄い。
そんな世界に♯は誕生した。幸運にも、知識の
♯のするべきことは変わらない。この宇宙(と呼べるかどうかすら怪しい世界)の全てを
♯が
そして副次的な効果として、地球上で3000年以上の年月をかけて醸造された科学的方法論によってこの世界のまだ未成熟な科学のレベルを引き上げること。
異世界人類史に現れた幸運の当事者である♯には、これを果たす
だからこそ、これから取り掛かる実験は、どれだけ無駄に思えても、どれだけばかばかしく思えても人類の発展のために必ずおこなうべき事だった。
♯は手に持った乾燥パスタを高く掲げた。そして完璧に覚えきった3節2連の詠唱を途切らせる事なく唱えきった。中庭に設置された魔法練習用の松明が自然と燃え上がる様子を端から端までイメージすることも出来た。いつも通りの完璧な出来だった。
それでも、松明は
この絵面についてなにか
乾燥パスタで宇宙を書き換えようとする5歳の女の子のなにがおかしいんだ?確かに見た目上ほんの少し愉快な状況になっている可能性が多少ないわけではないことは事実だが、これを笑うものはこの光景の背後に存在する科学的方法の重要性にまるで思い当たらない幼稚で未熟な人間だと判断しなければならなくなる。
♯は頭を振って思考を追い出しながらため息をついて背後を振り返り、その乾燥パスタを調査済みの机に置いた。これで16種類目。調査済みや未調査の机の上にはいま♯の置いた乾燥パスタの他にも、様々な棒状のものが置かれ少し乱雑としている。
例えば、羽ペン、チョーク、縦笛、ろうそく、孫の手、木の枝、木炭、手鏡、火かき棒、金属鍵、タバコ用のパイプ、縫い針。
そしてもちろん、対照実験としてのルールに則り杖も置かれている。
分かりきった事だが、この一連の行動は杖が魔法にとって
事前の検証の通り、杖は鉄心の周りに木材が張り付いた構造になっている。肘から手首まで程度の長さの短杖も、足から肩ほどに達する長さの長杖も構造に大きな差はなく、ただ構造の縮尺が変化しただけだという(と、杖職人の秘伝書には書かれていた)。
つまり、魔法使いは魔法を行使する時、一度の例外もなく鉄心と木片を棒状に加工したものを持っているという事にほかならない。魔法を行使するには杖を持って
というのは(♯の予想では)もちろんありえない。
確かに、杖の構造や素材が特殊で不思議で謎に満ちたものだったのなら、魔法には杖という構造物が必須だと判断する可能性もあった。理解の追いつかない現象に理解の追いつかない技術や素材が使われてたとしたら、それが原因だと判断してしまうこともあるだろう。
しかし、杖の構成要素はこの世界で非常に馴染みの深い素材である、木材と鉄のような金属だ。どちらの素材も、特に加工のしやすい木材は周囲の物品の多くに使われ活用されている。鉄と木材が組み合わさって棒状に加工されたものは杖の他にも大量に存在する。例えばナイフとか。火かき棒も持ち手には木材が使われている。
しかし、これらの
ここで、♯はようやくこの世界の
ここまでの魔法と杖に関する推論を素材という観点から考えてきていた♯だったが、考えてみるとそれは間違ったアプローチだったのかもしれないと思えてきた。確かに、素材が同じであれば性質も同じだと判断してもいいとする根拠はどこにもない事に気が付きもした。
素材や構造などは、実際にはほとんど重要ではないとしたら?杖はただ、杖っぽいというだけで魔法に必須だと言われているとしたら?杖を持っていなければ魔法を使えないと誰もが考えているだけだとしたら?魔法使い全員がただ強い思い込みによって杖が必須だと信じてしまっているだけでは?
という所まで♯は考えたのだった。ここまで♯は考えたのだった。
そして、そこで力尽きた。
ある古い格言が脳裏をよぎる。
♯は今、
ということで、♯は非常にシンプルな実験を組み立てた。つまり、まず観察の
行うことは簡単だ。まず第一段階として、棒状のあらゆるものをかき集める。第二段階では、それら一つ一つで実際に魔法を起こそうとする。最後に、結果をまとめる。
この実験の結果次第では、棒状
♯は未調査の机の上から無造作にひとつ取り出した。今度はろうそくだ。
ある意味では当然なのだが、完璧な詠唱と理想的な思考を持ってしてもろうそくでは宇宙を書き換えられないらしい。これで17種類目。
♯はまた未調査の机の上からひとつ手に持った。屋敷のどこかの鍵らしいそれは、無骨な金属製でキー溝までの軸部分が長くなっている。確かに見ようによっては杖に見えなくもない。少なくとも、棒状というオーダーには合致している。
ということで♯はその鍵を握り言い慣れた完璧な3節2連の詠唱を唱えた。詠唱と同時にいつも通りの発火現象を思考によって想像し、いつも通りに松明が発火した。
いつもより少し綺麗な形状で炎が現れたため気分が良くなった♯は、2節2連の消火呪文でその炎を消して手に持った無骨な鍵を調査済みの机に置いた。
気の抜けた「
松明からはまだ細く煙が上がっていた。
大変な騒動はひとまずの落ち着きを取り戻した。この気味の悪い無骨な鍵の扱いを巡った現当主と当主付き使用人による一大討論は大変面白かったが、その後の追検証によってこの鍵はこれからも変わらず鍵として運用される事となった。
魔法行使の実力者による慎重な(と表現すると語弊があるため、
次に、この鍵に備わった特有の魔法や魔法的能力がないかということが綿密に調査され、最終的に領内魔法行使技術最高実力者の口から、そんなものはないと宣言され狂乱は収束した。
最後に、大人達の狂乱と落胆を恐怖の様相で見ていた♯の独断での調査により、おそらく今日の出来事の中で最も
金属の鍵の握りの部分を持ち魔法を行使すると、それは発現する。
金属の鍵のキー溝の部分を持ち魔法を行使すると、それは発現する。
金属の火かき棒の持ち手の木製の部分を持ち魔法を行使すると、それは発現しない。
金属の火かき棒の炭に触れる側を持ち魔法を行使すると、それは発現する。
杖の握りの金属部分を持ち魔法を行使すると、それは発現する。
杖の先の木製部分を持ち魔法を行使すると、それは発現しない。
つまりは、非常に単純なことに、そういう事らしかった。
「そんなわけないじゃないですか。」♯は思わず世界に向かって語りかけてしまったが、もちろん返答はなかった。
次話は数日中です。