つまり、つまり…。
♯には
♯の理性の部分と本能の部分は揃って「そんなはずがない」と異議申し立てを行ってきていたが、現実を観察している部分の♯はそれを黙殺した。こいつらは文句をつければ現実が変わるとでも思っているのか?自分自身と現実を比べて現実の方が間違っているとでも?
もちろんそんな事はない。ここまではっきりと観察出来たものを取り出して実験や記録の取り方に問題があったと言い出すのは、自身の間違いを
とはいえ、やはり♯には受け入れがたい結果ではあった。魔法の発現に金属がなんらかの影響を与えているという観察自体はまあ
♯がこの現実を受け入れ難いと感じているのはなぜか。それは…。
もちろん(♯の常識では)そんな事は
だが実際には、母によれば魔法には金属が必要だという知識は広まっていないという。これは明らかに
地球の歴史において、新たな発見というのはそれなりの確率で同時期に別の人や地域に渡り起きる出来事だと知られている。つまり、文化や技術などの
そして情報は生物進化の理論と同じく、伝達過程において選択による淘汰圧を受ける。その情報の有用性や分かりやすさや納得感や再現の容易さなどの観点から、他者へ伝わった情報が
つまり、魔法は金属が必要だとする単純でそれなりに直感的で有益そうで再現が容易な情報であるこれは非常に再拡散
そして、
果たしてどの部分が間違っているのだろうか。♯は最近になってようやく自覚することの出来た、自身のこの世界の一般常識への欠如を補うべく資料庫へ走った。
次の日の午前。読んでいた書籍の文面に突如として現れた真実の一端を表していそうな文言を見つけ♯は飛び上がった。
資料庫に駆け込んだ♯はその後、睡眠や食事など母親の称する「最低限度の生活」以外の全ての時間をあてて読書を続けていた。今回は特に歴史や技術発達の分野に関して手当たり次第に読んでいたのだが…。
♯は頭を抱えた。衝撃を散らすための本能的な防衛反応による動作だった。
書籍の文面にはこうある。“魔法はおよそ60年ほど前に広まった”
この主張が正確かどうかはまだ分からない。けれど、これである程度説明がつきそうな発見である事も事実だった。
♯は無意識下で、魔法は遥か昔からずっとこの世界にあったものだと思い込んでいた。少なくとも、数百年前にはすでに歴史に登場するものだとばかり思っていた。感覚的に言えば、21世紀現代から見て17世紀頃のニュートンやデカルトの時代にはすでに広まっていた技術だと考えていたのだ。
金属が魔法にとって必要不可欠なものだ、という事実は科学的方法に無知であれある程度の時間があれば発見されうるような単純な法則だ。
だが、そもそもそのある程度の時間が
魔法が広まってから60年。つまりおおよそ2世代。
21世紀現代の感覚を持ち出せば、60年間は社会が何度も変革を起こすほどの期間だと錯覚しそうになる。けれどここは地球史上の中世や近代といった、時代の進みが時間に対して緩やかな環境だということを思い出さなければならない。
60年。科学的方法に無知な人々が単純な法則を発見出来るまでの時間はどのくらいかかるのだろうか。直感的には数年もかからずに発見出来ると思ってしまうのだが、本当は60年以上の年月が必要になるのだろうか。人間の能力を過度に高く見積もってしまっているだけなのだろうか。
ということを考えながら♯は読んでいた本のページをめくり、そこに書かれていた文面によりまたしても飛び上がった。
♯は頭を抱えた。頭部の突然の破裂を抑えるための原始的な応急処置だった。
書籍の文面にはこうある。“数年前に、発展的な冶金技術が杖作り職人から市井に広まった”
つまり、
♯は最短動作で椅子から飛び降り、資料庫の扉に飛びかかって薙ぎ倒し廊下4本を一呼吸の間で走り抜けジャンプひとつで地下一階から2階まで飛び上がった。
少なくとも、魔法を完璧に行使できる理想の♯であればこういう事が出来るはずのため、これは想像力を高めるための訓練でありただの痛々しい妄想では全くない。
脳内に潜む♯の精神と似た形状の
階段を登り切ったところで♯は母親に捕獲された。甘ったるい声と共に背後から横抱きにされたのだ。
時折考えてしまうのだが、やはりこの親は♯の事を愛玩動物として扱っている節がある。別に嫌とか不快という訳ではないが、もう少し判断を信用してもらっても良いとは思うのだが。
「♯ちゃん。そんなに急いでどこへ行きたいの?パパのところ?」
「お母様、降ろしてください。」
「そんなに息を切らせて急いでる娘を放り出したりは出来ませんよ。パパのお部屋で良い?」
♯はその返事に不承不承頷いてから、慌てて言い直した。
「あ、いや。正確にはお父様に用があるんじゃなくて、少し古い金属製のものがある場所を知っている人に用があるんです。」
母親はそれを聞いてクルリと反転し、階段を降り始めた。「お料理に使う道具か、金属武器のどっちが良いかしら。」
母の腕の中で♯は腕を組んだ。「うーん。古そうな方は…。いや、どっちも行きたいです。近い方は料理道具ですか?」
「ええ。」母はそこで一旦口をつぐんだ。「いや、♯ちゃんは順番はあまり気にしない?今は昼食の準備中の時間だし、先に訓練所の方がいいかもしれないわ。」
「都合が良い方からにしましょう。」
母は♯のその返事を聞いて頷き、階段を降りながら鼻歌を歌い始めた。多少覚えがあるメロディのため、昔歌ってくれた子守唄のうちの1つだろう。ゆらゆらと体を揺らしながら母は楽しそうに歌っている。なにか良いことでもあったのだろうか。
まあ、♯も母親の気分が良い事に悪い気はしなかった。
屋敷の端に位置する訓練棟には顔見知りの女性騎士が居た。例の護衛騎士のエリン・ウリツカヤである。彼女は見たところ訓練中という様子ではなく、訓練終わりの掃除をしているらしい。
♯はその様子に気づいた途端、通り過ぎる壁の模様になぜか
「あら、エリンさんお疲れ様。今終わり?」
少ししてから母親もその女性騎士に気がついたようで(♯には若干都合の悪いことに)声をかけてしまったため、何事もなく通りすぎるという当初の♯の計画は呆気なく崩れ去ってしまった。
「訓練お疲れ様です。」と♯は今この瞬間に気がついたといった様子で母に続いて声をかけた。先ほどのちょっとした人見知りなどおくびにも出すつもりはない。あれだけお世話になった人物に対して人見知りをしていたなんて、情けなさすぎる。
「あ、奥様。おはようございます。もう着替えて午後の部隊と変わるつもり…姫君?」
♯は今になって、母親に抱かれて移動していることがどれだけ恥ずかしい状況かという事に気づいた。これではまるで本物の
どうするべきだ…?
そして♯の脳内はこの絶望的な状況を打開する一手を弾き出した。完璧な回答だ。
♯は母親の腕を優雅にポンポンと叩き、床に降ろすように命じた。そしてスカートを叩いて整えた後、尊大な様子で口を開いた。
「
「♯ちゃん、恥ずかしいからってそんな態度をしてはいけません。」
「お母様!」
「ダメよ。ほら♯ちゃん、そうじゃないでしょ?」
「ありがとうございます。」♯はふてくされながら言い、女性騎士の方を向いた。
「エリンさん、その笑顔を今すぐ辞めてもらっても良いですか。」
「ああ、姫君。」彼女は満面の笑みで言う。「それは少し難しいですね。まあともあれ、おはようございます。」
♯は薄目で彼女の事を睨んだが、反撃になっているはずもなかった。
「それで、御用はなんですか?今から魔法の練習ですか?」
「いえ、そうではなくて。」母親はそう言いながら♯の事をチラリと見た。「ちょっと借りたいものがあるだけよ。」
その仕草はうまく伝わったようで、彼女は場所を空けるため素早く身支度を始めた。非常に面倒なのだが、♯の行う事はあまり公開されるべきではないらしい。という訳で♯は母親の許可が出るまでの間少し待つことになった。
30秒後。
人払いが済むまでの間に検証のための物品集めをしようとしていた♯は、更衣室から顔だけ出したその人物が発した声を受けて思わず母と顔を見合わせてしまった。
その声はさらに言い募る。
「ですから奥様。口が固く機転が効き優秀な魔法使いであり刀剣類の扱いに長けた人間を一時的に仮採用的な扱いとしてこの場だけの雑用にしてはどうかと思ったのですが。」
母親は♯の方を向いて言う。「どう思う?」
♯は肩をすくめるほかなかった。
次話は今週中です。