♯はソファに沈んだまま、天井の木目をぼんやりと眺めていた。常識が一切通用しそうに見えないこの世界でも、木の成長は年輪を伴うものらしい。それともこの♯の目には年輪に見える模様もただそれらしく見えるだけの全く別のものなのだろうか。この年輪の背景にある一般法則すらも♯の常識とはかけ離れたものなのだろうか。
「姫君、お休みになられますか?そろそろ午後のお茶になりますよ。」
♯は背後から聞こえてきたその女性騎士の声にソファに寝たままうめき声を返した。非常に失礼な態度ではあるのだが、正直なところ全くなにも行動する気が起きない。空からアイデアが降ってくるまでは行動もなにもあったものではない。
「じゃあ、厨房にお茶菓子のクレープも必要ないと伝えてきますね。」
「エリンさん。」その言葉で♯はサッと起き上がった。「それには及びません。せっかく用意してもらうのですから。もちろん頂きますとも。」
女性騎士は非常にニコニコとしている。「ご体調が優れない時にはそちらを優先していただく方がよろしいかと。」そして笑みを浮かべた口元を隠した。「厨房には私から伝えておきましょう。」
♯は座った状態で彼女を睨みつけた。「非常に元気なのでその必要は無いです!」
「いえ、無理はいけません。」と彼女は笑いながら言い、そのままスタスタと部屋から出ていこうと歩いた。
♯は慌てて立ち上がり扉の前に陣取った。この
♯はクレープを食べるのが好きだった。特に自分で具材を乗せて作るクレープは大好きだった。それを阻止する相手は誰であれ容赦するつもりはない。
「
「はっ!」彼女は跪いた。「…しかし、幼い次期当主の判断補佐も護衛騎士としての責務だと愚考いたします。ご体調がよろしくないのでは?」
「
それを聞いて目の前の女性騎士は背後を向き数度咳払いをした。
振り向いてからも何度か咳払いをしていた彼女だが、ようやく口を開いた。「元気なんですね。それは…安心しました。」
「エリンさん。その笑顔を
目の前の女性騎士はその次期当主からの絶対命令には従わず、♯の頭を撫でてきた。
それに驚いて♯が後ろに離れると、彼女はようやく正気を取り戻したようだった。彼女は一歩後ろに下がると頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。少し度が過ぎました。」
「まあ…別にそんなに気にしている訳ではないですけど…。」実際のところそこまで真面目に謝罪をされるほどのことではない。
「いえ、度が過ぎたのは事実ではありますから。」
♯は腕を組んだ。こういう場面に関して支配者側が取るべき行動は一通り教育されている。
「謝罪をした方が良いと判断するのであれば受け入れます。」そしてさらに付け加える。「これは慈悲や配慮ではなく、今回の働きによる正当な報酬のため、お間違いなく。」
目の前の女性騎士は一度瞬きをし、そして口元を綻ばせた。それから一度敬礼をしてから数歩下がり、護衛の任に戻った。
♯の脳は先ほどまでの無気力でふわふわした頭脳から、統治のための正負の報奨などを考えるための明晰な頭脳に切り替わっていた。そして、その副次効果として
もちろん、この目の前のエリン・ウリツカヤという女性騎士は目的なく♯をからかったりはしない。少なくともこれまでの行動を振り返る限り、そういう事はしない人間だと♯は判断していた。
そして彼女の質問から始まった一連の出来事の
♯はついさっきまで無気力にソファに寝ていた。それがこの短時間で、なぜか活動力が溢れるほどにみなぎっている。
これから♯のするべきことは分かりきっている。
まず♯の持つ
先ほどまで悩んでいた直感には空から発想が降ってくるまで放置することにした。放置して良いことが起きそうにないことは経験上よくわかっているのだが、解決法が分からない以上しょうがない。少なくとも、ソファで寝ているよりは何倍も建設的だし、そもそも♯には無気力にゴロゴロするための時間など一切無い。
♯は内心でこの女性騎士に
午後、お茶休憩の後半、完璧なクレープ作成をやり遂げた♯は温かいミルクを飲みながら黙考していた。考えることはもちろん、魔法の行使に必須の要素についてである。
これまでの観察から、魔法の行使には
ここから次に解くべき問題は、
そもそも、金属における質という指標はつまりなんだろうか。
質という指標は普通、曖昧で切り分けづらいグラデーションとして存在する。品質の上下は権力者か少なくとも誰かが決めない限り、その時々によって変動を続ける。特性の良し悪しが状況に合致すればその瞬間では品質が高いと判断され、そうでなければ低いと判断される。
つまり、金属は何に最も使われているのか、質が高いと判断した好事家は金属のどんな活用方法を重要視しているのか。まずこれらを知る必要がある。
♯はカップを置き、目の前に座る母親と目を合わせた。「お母様。質問なんですが、金属はどの分野で一番良く使われているんですか?」
母はカップに口をつけた状態で固まり、眉をひそめた。「うーん。」そしてカップを置く。「やっぱり武具とかかしら…。いえ、ごめんなさい。そういうお話はお父様に聞いた方が良いかもしれないわ。」
♯は気にしていないというように頷いた。「分かりました。後で聞いてみます。」そしてミルクに口をつけた。
少し経ってから母が口を開いた。
「♯ちゃんは、今どんな事を調べているの?」
♯としては深く考えずに聞いてみただけなのだが、母は先ほどの♯からの質問に明確な答えを返せなかったことを気にしていたらしい。確かに母の視点に立つと、娘の疑問を他の人に丸投げしてしまうのは情けないし娘にも申し訳なく感じるのは理解出来ないこともない。
こうなると、♯としても多少罪悪感が湧いてくる。突然難しいことを質問することで困らせようとしていたわけではないのだ。
なので、♯は丁寧に説明をすることにした。善意の協力者が協力できていない事を気にやむ場面では、単に全部説明してしまって自身と同じ問題を悩んでもらった方がいい。それに♯自身にとっても、他者に説明をする中で得られるものがある可能性も低くはない。
ということで♯は口を開き、順を追った説明を始めた。
10分後。
目の前の母親は♯の隣に座る女性騎士の方を見た。
女性騎士であるエリン・ウリツカヤもウィッケンハイザー当主夫人の方を見ている。
♯が表情を見る限り、2人は一種の共通見解を持っているようだった。
母親が口を開いた。
「今の話を正しく理解出来た自信はある?」
女性騎士は目を閉じて天を仰いだ。眉が中央に寄っているのが見て取れる。「全然。」
「ちょっと説明が良くなかったと思います。」♯は内心の恥ずかしさを感じながら言った。「まあなんというか。要するに、
♯のその要約を聞いて母の表情はさらに困惑したものになった。
「♯ちゃんは、難しい魔法を使いたいという事?」
「いや…。」♯は辛抱強い声を出す。「どんな時なら魔法が使えないのか、言い換えれば
「特定の場面で特定の魔法を使いたくなった、みたいな話ではなく?」母親はゆっくりと確認するように言った。
「そうではないです。」♯は続けて口を開く。「魔法そのものを使うための条件が分かるとその、なんというか…嬉しくないですか?」
母親は頬に手を当てた。「そう、かも?」そして女性騎士の方を見た。
彼女も悩ましい表情をしている。「つまり、姫君はその…。魔法を使えない状況のお話をされているんですね。」
その問いかけに♯は頷いた。「その通りです。」そしてその直後、エリンの問いによって♯の無意識に感じていた困惑の部分が意識下に表出した。掴めなかった違和感に朧げな形状が形成されていくのを感じる。
母親もエリンさんも、理解力が全然ない種類の人
そういう人たちが、なぜか今回の話題は
そして一般的に、理解のしにくさとは
つまり、♯の考えている前提と、母親や女性騎士の考えている前提に
この瞬間、♯の内部の困惑の形状が確定した。
つまり、
つまり…。
「
次話はそのうち。