その瞬間の♯を襲った内心の衝撃は甚大なものだった。衝撃によって目の奥がツンと痛むほどだった。♯は痛みを抑えるために目元を揉みながら口を開いた。
「詳しく説明してください。
その様子にセレスティアとエリンは互いに顔を見合わせた。その表情から完全な困惑が見て取れる。質問の答えを悩んでいるというより、質問の内容の理解が追いついていないという雰囲気がその様子から感じられた。
「えっと…。」母親がとりあえずといった様子で口を開く。「魔法を起こせない場合がない、なんて事はありませんよ。魔法は対象を視界に入れていないと行使出来ませんからね。」
♯はその答えで動きを止めた。クリティカルな発想の
短い腕を組んで真剣に悩みながら♯は質問を返す。
「その”視界範囲内であること”という魔法の発現の条件はどうやって知られるようになったんですか?」
「それは当然、魔術師第16番、プロメテウスのもたらした知恵の一つですよ。」
♯は眉をひそめた。「
「第16番と書いて
「いえ、その…」♯は言い淀んだ。神話の中の話ですよ、という風に済まされてしまうのは困るのだが、神話に描かれている出来事のまるっきり全てを嘘だと決めつけるような表現を神話を信じている人に向けることは避けたい。「じゃあ、神話ではプロメテウスさんはどうやってそれを発見したんですか?」
母親はそれを聞いて目をパチリと瞬いた。「魔術師プロメテウスは神話の登場人物ではなくて、ちゃんと実在する方よ。人々に初めて魔法を広めた
こういう、この世界の一般常識として扱われている知識が他者から語られる度に妙な敗北感を感じるのは、♯の
気を取り直して♯は確認のため口を開く。
「つまり、プロメテウスさんは魔法を伝えると同時に魔法の
母親は曖昧な顔で頷いた。「まあ、そういう見方も出来るわね。」
♯はそれを聞いて内心で頷いた。今の出来事は、立てていた仮説に反論が襲いかかり、それを仮説が首尾よく撃退したという構図だった。多少比喩的過ぎる気もするが理解は出来る。つまり、仮説の信頼度が多少高まったという意味になる。
「じゃあ、視界に入っていない場合を除けば、魔法を行使出来ない場合なんて全然ないという事ですか?」
その質問を受けて母親とエリンは顔を見合わせた。「短縮詠唱の練習が難しいと話をされることは時折ありますけど…」とエリンが口を開く。「でもこれは、単に短縮詠唱の短さに思考が追いついていないだけですから…。」
「それは…魔法を使えないというよりは、魔法を使う準備が整っていないと言った方が正確だけれど…。」そして母親がカップに口をつける。
それを見ていたエリンが再び口を開いた。「でもこういう当然の話なら、例えば杖を持っていない時とかはどうでしょう。詠唱を間違った時も当然、魔法は使えませんよね。」
「確かに、それもそうね。」
母親がソーサーにカップを置きながら返答を返した。置かれたカップが空いている事に目ざとく気づいたエリンがそれにお茶を注ぐ音が部屋に響き、そしてやがてそれも止む。
母親が口を開いた。
「というより、そもそも♯ちゃんはどんな様子のことを魔法を行使出来ない状態と呼んでいるの?」
突然の質問に驚いた♯だったが、「それはもちろん…。」と♯は言いかけ、そして口を閉じた。
その質問によって水面下で進めていたそれまでの会話内容の理解が進み、先ほどの衝撃的な気づきが新しい情報によって更新されたためだった。
けれど、それら失敗の原因は全て
つまり、魔法行使に失敗する事に
そして、ようやく♯は自身が発見した魔法の法則の仮説について思い出した。魔法はほとんど、
つまり、
杖を持たなければ魔法が使える
常識によるバイアスによって、自身は魔法が使えると
つまり、
そして♯は、
魔法は特定の個人、プロメテウスという人物によって広められたという。この個人については今はどうでも良い。ここで重要なのは、
魔法はおそらく、プロメテウスか、少なくとも意識ある何者かが
つまり、そこには
そして、♯はこの設計思想の一部を理解し始めていた。もちろん、この魔法という天才的な技術が
そして、この技術は
地球人類文明の歴史を知ることの半分は、社会に広がる常識の強固さを知ることに他ならない。規範的秩序を守るためであれ、特定集団の利益の確保であれ、広まった共通認識はやがて当然の常識として定着する。常識として定着するほどに受け入れられたその思念には、自己の形状を固定するための作用が働く。常識を変化させるきっかけになるような、革新的な発想や異端となる発見を排除するようになる。歴史は抑圧の事例で満ちている。
そして、歴史を知ることのもう半分は、その常識は絶対ではない事を知ることに他ならない。常識はやがて揺らぎ、分解され変化し新しい常識へと移り変わっていく。強固な常識であれ、いずれ破綻が訪れる。
けれど、その
この社会に広がっている常識の大半の部分は、数世紀後にはほとんど原型もないほど変化するだろうことは想像に難くない。だが、魔法に関する常識、例えば”
魔法の行使技術を高めるためにはこの言語の理解が必須であり、魔法の技術は生活水準の向上に直結する。
この一部分を取り出しても、魔法設計者の意図は
地球現代に生きている頃に、統一言語という夢物語に思いを馳せたことは♯もあったが、こんな形で後天的に言語を浸透させる方法は全く思いつかなかった。有用で利益のある技術に言語学習を紐付けて、行使者自らに積極的に言葉を学ばせる構造。♯の基準でも完璧に近いほど
♯はようやく、この魔法という技術が誰かに作られたものだという仮説の重要性に気づいた。
魔法の仕組みの根本的な部分、魔法には特定の言語体系によって構築される呪文という言葉を使わなければならない、という部分には画期的な設計思想が隠れている。魔法の呪文の設計に関しては、背後に強い強い
♯はこれまで、魔法の構造を分解し、可能ならその構造を組み換えてより魔法を万能なものにすることを目標にしていた。それが一番人類にとって有益で、
しかし、すでに魔法はある程度の善意の設計思想によって組み上げられているらしい。同じような思想で他の部分も組み立てられているのであれば、不可解な部分、例えば”
ともあれ、♯の進むべき道はようやくはっきりしてきた。これまでを批判的に振り返ると、非常に無計画に行き当たりばったりに進んできてしまっていた。網羅的な研究といえば聞こえは良いが、こういう研究手法は効率的な検証方法か人海戦術を使うべきだった。♯一人で行うのは明らかに馬鹿げているし、元々♯は網羅的な研究をしようとなど考えてはいなかった。
♯の行うべきことは、実際には大きくは変わらない。これまでと同じように魔法の構造の理解を進めること。分解し、要素を切り分け、比較し記録を取る。一歩ずつ地道に進んでいくこと。
とはいえ、これから♯が行うべき一手はあまりにも明確だった。
「お母様、大叔父様にその魔術師さんのお話を聞きに行きましょう。あと、杖作りの工房の見学もしたいです。」
そこまで言って、♯はぬるくなったミルクを飲み干して席を立った。
遅くなって大変申し訳ないです!
次話はそのうち