20秒後。
「もう一回説明してください!」と叫ぶのは♯。「〈静かなる地〉という名前の盆地があるのは分かりましたが、実際そこでどんな現象が起きるのかという説明が全くないじゃないですか!一番重要な部分は
父親は顎を触りながら喋り始めた。その表情には発言以上の困惑が乗っていた。「いや、その…。古代の呪いの影響で荷物や身体が重くなって動きにくくなって、ただ生活するだけで不調になる人間も居る…という説明では何が不満なんだ?実際の訓練の内容が知りたい訳ではないだろ?」
「それじゃあ全然なにも説明出来ていないじゃないですか!〈
お父様、説明してください。実際にはその〈静かなる地〉ではどんなことが起こっているんですか!?」
「うーん。」父親は困ったように腕を組んだ。「そう言われてもな…。」
曖昧なその返事を聞いて♯は頭を抱えて叫んだ。
20秒後
「は?エリンさんの故郷は体が軽くなるんですか!?」
「はい、姫君。私の実家は元は北の工作員ですから。」
「へえ。騎士エリンは北の生まれか。確かにこちらでは聞かない姓だとは思っていたが。」
「待ってください。き、
「ああ、北の高原は物が軽いので重工業が盛んなんですよ。私は燃料関係の方だったのであまり詳しくは知らないんですけど。」
「ちょっと待ってください!あまりにも!あまりにも情報量が多すぎる!!!」
2分後。
♯はこの局地重力問題に関する一連の問題に一旦の結論を置くことに成功した。
非常に不本意ながら…。
___つまるところ、
ということらしかった。
正直なところ♯には全く理解できないのだが、不思議な現象が起こる土地を発見した人間は基本的に「なんでそんな事が起こるのか」ではなく「どんな事に使うか」を考えるらしい。確かに体が常に重くなる場所は基礎体力の向上には効果的だろうし、暮らしている人間の筋肉量がそれほど変わらないのに物が軽くなる環境であれば重工業は発達するだろう。北には燃料鉱山があると聞いたこともあるし、そういう方面も追い風になっているだろうと予測出来はする。
することは出来るのだが…。
♯は釈然としない気分をため息を吐くことで押し流した。本当に悲しいことではあるが、自身以外の人間の反応に期待し、それが叶わなかったことに嘆いたところで問題は解決しない。
「♯ちゃん。」と恐る恐る声をかけてくるのは父親。「落ち着いた?」
「まあ、ある程度は。…落ち着いたというよりはなんというか、諦めたというか。そんな感じですが。」
「その、姫君。お力になれることがあればなんでも仰ってくださいね。」というのは騎士エリン。♯が騒いだことでそれなりに恐縮させてしまったらしい。別にエリンさん当人を批判していた訳ではないのだが、聞いている人間に内省を促すような内容ではあったのは確かではある。
なので♯はひとまずの結論を置いたこの話題を辞め、元の軌道に戻すことにした。
「それで話を戻すんですが、二つ目の理由はなんですか?」♯はごく自然に騎士エリンへ話題を向けた。内容はもちろん、局地重力問題が発覚する前のものまで戻っている。
「え?」騎士エリンは口元に手を当てた。「ああ…。てっきりその話題は流れたものだと…。」女性騎士は着ている制服の皺が急に気になり出したようだった。
彼女のその神経質な様子を見て♯は今更ながら気づいた。「…もしかして、かなり言いたくない事でしたか?その…別に無理に聞き出したい訳ではなくて、ただの、ちょっとした興味というか…。」
女性騎士は♯のその様子を見て目を瞬き、そして半目になって♯を見てきた。
「姫君は悪い人ですね。」エリンさんはそう言って口を尖らせた。「そうやって罪悪感を感じさせる作戦ですか?」
「違いますよ!」♯は焦りと衝撃を感じ立ち上がった。何を勘違いしているのか、まったくの誤解だ。「そんなんじゃないです!そんなに言いたくない内容ならそれを無理やり聞き出そうとするのはよくないし、それでも立場の上下があるからこちらから言わないと選択肢を奪ってしまいそうだと思っただけで__」
そこで♯は言葉を切った。見るとエリンさんは口元を抑えクスクスと笑っている。
女性騎士は楽しそうに話し始めた。「姫君、ごめんなさい。ちょっとした仕返しでした。姫君が優しいことは知っていますよ。」
♯はその返事を聞き憮然とした面持ちで座り直した。どうやらからかわれていたらしい。♯は不機嫌そうに頬を膨らませた。「なら早く理由を言いなさい。」
その様子を見てエリンさんはさらに大きな笑い声を上げた。
「早くしてください。」♯は女性を睨みつけた。
「失礼しました。」とまだ笑いを抑えきれていない女性騎士は言う。「別にそんなに大層な理由はないですよ。ただ、シャロン姫君が亡くなった妹によく似ているというだけです。」
♯は息を止めた。
エリンさんはそんな♯の方へ体を向け、♯の肩に向けて手を伸ばした。肩口で切りそろえた、僅かに灰色にも見える白髪がそこに垂れている。
彼女は髪に触れるかどうかの所で手を止めた。「実は…妹もこんな色の、綺麗な白髪でした。あの子はもう少し長くて、首の後ろで一つに結んでいたんですけどね。」エリンは寂しげな笑みを浮かべそう呟いた。
♯はその様子に、何を言えば良いのか分からなかった。
女性騎士は椅子に体を戻した。「…あまりよくない事だとは自分でも分かっているんですけど、時々、姫君に妹の面影を重ねてしまっているんです。だから、その…何か少しでも力になれる事があればしたい、と思っているだけですよ。」
「それ、は…。」♯は顔を伏せた。エリンさんにこれほど悲しい過去があるとは、正直な所全く思っていなかった。彼女の振る舞いは基本的にいつも明るく朗らかで、その言動には背後にいつも持っていたであろう悲しみを想像出来る余地はなかった。
♯は顔を上げ、彼女を正面から見据えた。「エリンさん。エリンさんはどんな事を嬉しいと感じますか?その、例えば私を妹さんだと思っていても良いと言われるのは嬉しいですか?もしくは、私が髪をもう少し伸ばしたら…」♯はそこまで言った所で言葉を切った。隣に座っていた父親が♯の両肩に手を掛けたからだ。
「お父様?何を__」と言い掛けた♯は肩に乗せられた腕に力を込められた事で口を閉じた。父親を見ると、目を閉じて首を振っている。
「騎士エリン、すまないが運転手に荷車の速度を落としてくれと伝えてくれないか?それが済んだら御者台で日に当たるか体を動かしていてもらっていて構わない。長いこと座っていては体も鈍るだろう。」
その父親の突然の言葉に♯が困惑していると、エリンさんはその命令に従順に返事をしてそのまま御者台へと姿を消してしまった。
♯は段々と不安が込み上げてきた。
肩から手を離した父親の様子を伺うと、彼は目を閉じて唇を引き結んでいた。何かを堪えるようなその表情に♯は衝撃を受けた。
「シャロン。」しばらく無言の時間が続いた後、父親は搾り出すように♯の名前を呼んだ。「突然割り込んですまなかったな。ただちょっと聞きたい事があっただけだ。」
♯はその言葉にただ頷いて、続きの言葉を待った。
「♯はさっき、騎士エリンに向けて多少の提案、いや質問をしていたな。あれにはどういう意図があったんだ?」
「え?」♯は目を瞬いた。そんな分かりきった質問をする意味が分からなかった。「エリンさんのために何をすれば良いか分からなかったので、直接聞いていただけですよ。」
父親は仮説が実証されたというように頷いた。「ああ、そうだろうな。それが♯の優しさの発露だということも分かる。」
父親はそこで言葉を切り、♯を優しく撫でた。「シャロン、君の優しさは美徳だ。それを否定する気は全くない。君のそのきらめく宝石のような思想は、どうか大切にして欲しい。けれどね。」父親は♯と顔を合わせた。「君はその優しさを上手く使う方法を覚えなければならない。君のさっきの提案は、嘘を孕んでいる。君は騎士エリンの妹にはなれないし、代わりになることもできない。その場しのぎの嘘は、彼女をもっと傷つけることに繋がりかねない。」
「いいえ。」♯は激しい怒りを感じて立ち上がった。「
♯は目元を乱暴に拭った。♯も内心では分かっていた。父親の指摘はもっともだった。「私は、ただ……エリンさんの悲しさを少しでも紛らわせられればと思って。」♯は目元をもう一度拭った。「でも、これも嘘だということは私も分かっています。でも、なら。ならどうすれば良いんですか!?
「そうじゃない!」父親は一瞬息を荒らげたが、呼吸を戻した。「シャロン、そうじゃない。もっとちゃんと見るんだ。もっと色んなものを見るんだ。騎士エリンは君がどんな事をしてでも守らなければならないほど苦しそうに見えたか?彼女は苦しいから助けて欲しいと直接言っていたのか?」
「それは……。でも、だからってあの瞬間になにもしない事は
「
♯は大きな音をたてて立ち上がった。「そんな事言われなくても分かってますよ!分かってましたよ!でも、なら…!……なら、私はどうすれば良いんですか。分かんないですよ。」♯は頭を振って叫んだ。「分かんないですよ!!どうすればいいかなんて全然分かんない!」
「そりゃそうだ!僕だってなんにも分かんないよ!」父親は一度そこで息を吐いた。「でも、君はそれを無視して、自分はほとんどなにも分かってない事を無視して事を進めようとしていた。それは良いのか?」
「それは……!それは、」♯は自分のつま先を見つめた。涙が靴に、ぽつぽつと当たるのが見える。「それは、良くない事でした。」
そう言ったと同時に、♯の中に苦い後悔が広がってきた。父親の指摘の通りだった。♯は手段を間違えていた。甘さと善を履き違えていた。あの瞬間、エリンさんの背後に常にあったであろう悲しみを認めた瞬間、♯は目の前の人間に何かしなければ、という使命感が溢れ出てきていた。止められなかった。
でも善はそうではない。優しさはそういうことではない。
♯は拳を握りしめた。てのひらに爪の跡が残るほど強く握りしめた。そして口を開いた。
「それでも…。もし、エリンさんが今も悲しんでいるのなら。私は、力になりたいです。」
父親はそれを聞いて、柔らかく笑って頷いた。「そうか。なら、直接そうやって言えばいいんだ。」
そして♯の両手を握り、ゆっくりと荷車の椅子に座らせた。そしてふと思い出したように喋り始めた。「単純な疑問なんだけど、人見知りする♯がエリンさんをここまで気にするのはなにか理由があるの?」
それを受けて♯は小さく笑みを浮かべた。「なんというか…、ちょっとした恩があるんです。」
「そうか。」父親はそれ以上は詮索しないようで、♯の手にハンカチを持たせた。「目元を拭っておきなさい。騎士とはいえ外で待たせたままには出来ないぞ。」
♯はぎょっと目を見開き、慌てて目元を拭った。なぜ泣き出してしまったのか自分でもはなはだ疑問ではあるのだが、エリンに泣いていたと知られるのは都合が悪い気がした。
20秒後。
♯は面倒そうな感情を隠そうともせずに座っていた。
父親は御者台との出入り扉を開けた状態で固まっていた。
酷い顔をした女性騎士は5歳の少女に抱き着いていた。
運転手は「まあ、薄い壁ですからねー。」と朗らかに笑っていた。
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