工房には荷車で3時間ほどで到着した。
ウィッケンハイザー領の中でいちばん王都に近い境界の街、そこにほど近い位置にある城壁のない街の中、大型のものを扱う工房の一角にある鍛冶工房だった。本拠点としていそうな建物の隣に、今まさに建築中という様子の建物が見える。聞いていた話では改築という扱いらしかったが、この規模ではほとんど増築や新建のような扱いではないだろうか。申告内容で納税額が変わるのであれば脱税になりそうなのだが……。とはいえ、♯は気にしない事にした。
荷車の中で父親から説明された話では、この工房__グレアム鍛冶工房__は領内でも数本の指に入る規模の金属加工業者で、新技術を取り入れた事による品質向上によってここ数年さらに業績を伸ばしているという。
金属加工の新技術の内容自体は外部に公表されている訳ではないが、前職が杖作りだったという人物が数年前から工房に勤めている事は事実のようで、書籍に書かれていた“発展的な冶金技術”という話はある程度の信憑性があるようだった。
父親に金属製品の
♯は正直な所材料工学に全く詳しくないため、具体的な加工法のなにがどう変わったかを推測することは出来なかった。♯が現状唯一分かることは、製造に関わるなんらかが変わったのだろう、ということだけ。
荷車はグレアム鍛冶工房の正面入り口で停止した。♯はエリンさんの膝の上から立ち上がり軽快に外に出ていこうとしたが、四本の腕によって阻止された。
「姫君はもう少し待っていてくださいね。」と言うのは♯の行動を阻害する四本の腕のうちの二本の持ち主。彼女は♯の頭を撫でてから、周囲を警戒しながら外へ出て行った。
その後、もう二本の腕の持ち主に説明されたことによれば、この短距離遠征はお忍びとはいえ工房の人間にとっては領主と次期領主の視察になるため、ある程度“
ということで♯は今、恐らく先に降りたエリンさんが設置したのであろう手すり付きの乗降階段を、先に降りたお父様の手を取りながら優雅に降りていった。これから♯は、“
♯は近い将来、この
目の前の男性はミッチと名乗り、元杖職人かつ現技術開発担当だと所属を示した。すでにある程度の情報共有が済んでいたようで、責任者との挨拶や規模説明といった可欠的/付加的/二次的/任意的/必須ではない行為はほとんど行われなかった。あの荷車から降りた時間差はエリンさんと♯で大体5分ほどしか無かったはずだが、どんな手段を使えば女性騎士一人が権力に飢えた複数人の工房管理者たちを抑えられるのだろうか。
と、♯は当初思っていたのだが、エリンさんの襟につけられた領主認命騎士章を見て得心がいった。確かに、権力に敏感な人間にはそれが一番効果的だろう。
ミッチ氏は紙の資料を応接室の机の上に一枚取り出し、父親の方へ押し出して説明を始めようとした。♯の前にはなぜか温かいミルクと焼き菓子が置かれている。
「資料ってもう一枚ありますか?」そのまま話を始めようとした男性に向かって♯は我慢できずに言ってしまった。横の席で父親が仕方なさそうにため息を吐くのが見えたが、♯は意図的に無視した。事前に余計なことをしないこと、という約束はしていたが、これは意味のある正当な要求だろうと♯は判断していた。そもそも♯は人生で余計なことなど何一つした事がない。
「え?」と声を上擦らせるのはミッチ氏。「あ、ああ。いえ、お嬢様。これからお父様と少し難しいお話をしますからね。お菓子は美味しいですか?」
♯は腕を組んだ。まあ、確かに外見的には5歳の女児である♯に対する対応としては恐らく間違っていないのだろう。一般的な大人は、基本的に幼児を全く信頼していないし、信頼すべきとも思っていない。そしてそれがわるい事だとすら思ったことがないのだ。
♯は、もちろん自身がイレギュラーであるという自覚は持っているため、感情を表現することを目を細めるに留めて口を開いた。「お気遣いありがとうございます。それで、資料はありますか?」
対面に座る彼は何度か口を開きかけたが、やがて困ったように父親に目を向けた。それを受けて父親はもう一度ため息をついた。
「ミッチ氏、申し訳ない。こちらの通達不足だったようだ。娘のシャロンは歳のわりに聡明でな、この視察も娘の要望で計画されたものなんだ。申し訳ないが、出来ればもう一部資料を…」父親はそこで言葉を切った。
「いや、♯はこちらを見ればいい。私は文字を読むより話を聞いた方が頭に残りやすい
♯はそれを受け取りながら、多少不思議な気持ちだった。単純にもう一枚資料を貰うだけで良いと思うのだが、何か問題でもあるのだろうか。
という疑問は非常に恐縮そうにしているミッチ氏の態度で推測出来た。普段♯が生活している領主邸宅という環境にいると忘れがちになるが、確かにこの中世ヨーロッパ風異世界では、同じ資料を複製するのはそれなりに大変な作業なのだろう。もちろん、客を待たせてそんなことを始めるわけにはいかないことは♯にも分かる。
♯は父親に“道徳的態度”的なお礼をし、受け取った資料に目を向けた。几帳面な文字でつらつらと数字が書かれている。経営報告書として見ると丁寧なものだが、技術開発を担当している彼が書いたものにしては違和感があった。工房管理者達からこれを説明しろと言われているのだろうか。
恐縮そうな態度をしていた彼だが、ようやく本題に入るようで持っていた資料に目を落とした。「ええと、それではお手元の資料をご覧ください。左上が今年の現在までの売り上げ、ひとつ右に売り上げ原価、隣が純利益となっていて、下の列には去年との比較を記載しております。さらに右には種別毎に工房用の大型製品の販売と修理、同じく小型の販売と修理、一般家庭用の大型、小型のそれぞれ販売、これらは修理とは別で、さらに隣に修理を記載しております。ご覧になられている通り昨年、一昨年と比べ全体的に上向きに__」
♯はその話が始まって20秒で資料を机の上に置き、父親に見えるように向きを変えた。もちろん♯も、投資先を検討する段階であればこういう説明も真剣に話を聞く気になるのだが、今の♯の優先順位は決まっている。というかそもそも、♯はこの工房の技術開発担当の方に数字を読み上げて欲しいなどと頼んだ覚えは全くないのだが。
とはいえ、♯は1ページのプレゼンに割り込むほど狭量でもなかったため、ひとまず話が終わるまで焼き菓子でも食べて待つことにした。
10分後。
♯は己をこれほど恥じたことはなかった。侮っていたわけではないが、まさか…ホットミルクにハチミツが入っているとは思わなかった。焼き菓子も、素朴ながらサクサクとした良い食感で美味しい。♯は食べ合わせなどという概念を正直なところよく分かっていなかったが、甘いお菓子に甘い飲み物が最高の組み合わせだろうというのは分かっていた。それを堪能することは至福のひと時だと言えるだろう。
総じて期待以上だったと言わざるを得ない。
プレゼンの方は無難に纏まっていた。紙の資料の読み上げが終わってからは他工房との比較が始まり__他領との交易が他に比べ秀でているらしい__工房の拡張があと数週間で終わることなどを挙げられ、最終的に非常に迂遠な表現で継続的な支援をお願いする形で終わった。彼は過去に何度か同じようなことをした事があったようで、話の中で領内の有力者の名前が挙がったが、父親にとって対抗派閥に属する人物の名前は出なかった。権力に敏感な人間が工房を管理しているだけあって、その辺りに抜かりはないようだった。
対面の席に座るミッチ氏は一旦の説明を終え、多少緊張の解けた顔をしている。ここから、父親と経営陣との本格的な商談になるのであれば恐らく彼は下がる手筈になっているのだろう。つまり、彼が事前に工房管理者達から指示された仕事はここまでという事。
父親は話を終えた彼に“道徳的な笑み”を見せながら口を開いた。「どうも、大変魅力的なお話をありがとう。」父親はそこで言葉を切り、机の上に置かれた紙に指で触れた。「この資料だが、よく出来ていた。ただ…そうだな、ここの数字について聞きたいことがあるんだが、この資料をまとめてくれたのはどなたかな?その方も交えてもう少し話を__」
「
「シャロン、言葉遣いが乱れているようだよ。」父親は“道徳的な座り方”を崩さないようだった。「もう少し待っていなさい。いいね?」
♯はニコリと微笑んだ。「分かりました。じゃあお母様には、お父様が商談に夢中で何もさせてくれなかった、とご報告しますね。」♯は手を口元に当ててクスクスと笑ったあと、小指をピンと立ててハチミツ入りホットミルクのカップを手に取り一口飲んだ。3歳からの(主に家庭教師の)努力によって鍛え上げられた、洗練された“
父親はいつの間にか取り出したハンカチを額に当てていた。「いやいや、シャロンお嬢様。我が娘よ。そんな事を報告をしてもお母様が困るだけだからやめておいたほうが賢明だよ。」父親は話の流れで椅子から立ち上がりかけていたミッチ氏に手振りで座るように指示した。
「ミッチ氏、すまないが資料の話は少し待ってもらいたい。いや、妻との関係は良好だよ。もちろん。」
父親はそこで逡巡した。♯が推測するに、今父親は領主としての体裁と家族関係のどちらを優先するのかを悩んでいるようだった。
少しして、父親は諦めたように口を開いた。
「分かった♯ちゃん。降参だ。すまないがミッチ氏、少し次期当主であるシャロンのなんというか、わがま_」父親は♯の“にこやかな道徳的な微笑み”を見て言葉を止めた。「いや、
ミッチ氏は戸惑ったように椅子に座り直した。困惑とかすかな好奇心が見て取れる。「それは構いませんが…。」
椅子に座る二人の男性から視線を向けられた♯は、机の上の資料の紙を裏返してから満面の笑みを浮かべた。扉の前で護衛していたエリンさんがいつの間にか♯の隣まで歩み寄り、持ってもらっていたインク壺と羽根ペンを机に並べてくれる。
♯は紙に[金属加工について#1]と書き込み、喋り始めた。「さて、ミッチさん。仕事の話をしましょう。」
次話は来週中です。