♯は対面に座る技術開発担当の男性の表情を眺めた。困惑と多少の恐れ、そしてちょっとした好奇心を持っている事が伺える。恐らく彼は、対面に座るウィッケンハイザー家次期当主である♯の行動を推測して、その行動にどう対応すれば良いのかを考えているのだろう。つまり、♯はこの瞬間、彼に
警戒を解く手段は、これまでの人生で父親から多少教わっている。その技術を適切に用いれば目の前の男性程度なら簡単に懐柔できることは想像に難くない。自身の無害さを主張し、仕事の話をさせ、時折褒め、そして責任をこちらが負う事を認める。これらを守りながら進めた会話で失敗する事はほとんどない。父親の教育はそれなりに有用そうだという事は♯も認めていた。
ただしこの方法には一つ欠点があった。つまりは、ある程度のまとまった
そして♯はもう、これ以上待つことに耐えられそうになかった。
「少し、噂を聞いたんですが。」♯は口を開いた。「元は王都で杖を作っていたとか?」
対面の技術開発担当者は突然の質問に肩を震わせた後、おずおずと肯定の返事を返した。
♯は満足そうに頷いた後、扉の前に立っているエリンさんと目を合わせた。彼女は♯が言葉を発する前に扉を開き、外に人影がないことを確かめてから扉を閉めた。
♯は、彼女の一連の動作が終わったことを確認してから口を開いた。
「では、そんな元杖職人のミッチ氏に質問なんですが…」♯は息を吐いた。「
「
♯は柔和な笑みを浮かべた。「お父様、言葉遣いが乱れていますよ。」
「そういうのは一旦置いておこう。それで魔法がなんだって?」
♯はその父親からの追及を手を振って流し、対面に座る元杖職人と目を合わせた。
ミッチ氏は目を細めて♯を見ていたが、目が合うと誤魔化すかのように困惑した表情に戻った。「その、大変失礼ですが私も、仰っている意味がよく分からず…」
♯は椅子を少し引いて足を組んだ。「いやいや、ミッチさん。
♯の小さなつぶやきを拾って完全に困惑している二人を置いて、♯は足を組み直した。「言い直します。
「いえ、その…。」困惑の表情の裏にかすかな焦りを浮かべた対面の男性は口を開く。「私にはあまり、なんというか理解が及ばない内容が多く…。その分野に詳しい別の担当をお呼びしますので少々お待ち頂けれ__」
陶器と金属がぶつかったような「チリン」という高い音が部屋中に響き、それまで喋っていたミッチ氏の焦りをはらんだ声が不意に途切れた。
♯は手に持ったスプーンを丁寧にソーサーの上に戻し、対面の彼に向かって薄く微笑んだ。
「すいません、質問がいくつかあるので聞いてくださる?」♯は目を細めた。「魔術師プロメテウスが伝えたであろう杖の作り方は一般的な金属加工とどんな部分が違いましたか?特定の金属によって魔法が使えるようになる、という事実を広めた時のペナルティは例えばどんなものなんですか?杖工房で数年前に起きた事故は実際には事故ではなかったという仮説を考えているんですが、それについてはミッチ氏はどう思いますか?例えば、なんらかの秘密が漏れたことが原因で対外的には事故と処理されるような、後ろ暗い出来事が起こったのではないか、という仮説をどう思いますか?」呼吸を挟まずにそこまで言い切った所で♯はにこやかに微笑んだ。「どなたかから秘密を聞きだした訳ではもちろんないですよ。たまたま、ちょっとした伝手から杖作り職人の秘伝書を見せてもらった事があるだけです。」
それまで表情を制御していたミッチ氏だったが、♯が秘伝書と口に出した瞬間、明確に唾を飲み込んだ。明らかに顔が強張り、微かに緊張から来る汗の香りを感じた。
♯は微笑みを深くした。理性的な♯の脳が脳内メモに大きく勝利と書き、本能的な♯の脳がそこに花丸のスタンプを押した。
♯は足を組み、わざとらしく肘掛けにもたれかかった。「その、聞こえてます?」
杖の製法はこれまでの間、杖作り職人が独占し続けていたという事。そしてその製法を記した図録は、秘伝として外部に流出させてはならないとされていた事。
その秘法とされていた杖作りの技術が市井に流れた結果、金属製品の品質が向上したと評価されている事。
これらの客観的な事実から、つまりそれまで市井の鍛治工房で脈々と育まれていた金属加工の方法とは別の、なんらかの
特定業種にだけ伝播し、外部にほぼ完璧に秘匿され、鍛治工房による漸進的進歩とは別軸の技術。ここから、このなんらかの技術が
これを基盤に推論を重ねる。この、杖作り職人に伝えられたとするなんらかの技術は金属製品の品質を向上させると同時に、その金属製品が
ここから、当然の事ながらある歴史上の人物の名前が挙がる。
魔術師プロメテウス。街々を巡って杖を配り歩き、魔法を実演し、魔法の失敗条件を伝えた人物。人々に魔法を広めた伝道師。自称、神の遣い。
魔法を伝えた人物であるこの魔術師が、杖作り職人にだけ伝わるなんらかの技術と関連がある、と考える事は極めて自然に思える。というより、関連がないなどという事は
むしろ完全に破壊するような証拠があるのであれば、見てみたいほどだ。
そして、♯はここまで考えてから、これまでの金属と杖についての仮説を更新しなければならない事に
魔法が登場してからの数十年間、杖以外の金属で魔法が行使出来なかった理由は綺麗に説明付けられる。まず、杖作りに用いられたなんらかの技術、一般的な金属にその技術を適応するとその金属が
しかし数年前、王都の杖職人の大家の工房の事故によって市井に杖職人が流れ、彼らの持っていたリモコン化という技術も同時に鍛治工房へと伝わることで、魔法の使える金属製品が少しずつ流通するようになった。これによって杖とリモコン化という技術が分離し、二つの独立した概念として漂い、やがて♯によって発見された。
♯は杖と金属をそれぞれ
というこれまでのシナリオは現時点の♯の持つ情報を統合しても概ね間違っていないように思えた。
今まで出会ってきたこの世界の人間達を振り返ってみる。両親や使用人さん、護衛の方々や取引と挨拶にウィッケンハイザー邸に訪れる数々の客人。好ましい人格者もそうでない方も、多様な人物達がそこには居た。
彼らを俯瞰して眺めてみると、正直なところ現代日本で出会った人間達とそれほど大きな違いは♯には感じられなかった。もちろん持っているであろう背景知識の差は現代日本と比べてしまうとかなりはっきりと感じたが、それらを纏める
例えば、科学的な背景知識を持たない今世の両親は高校数学の内容についてほとんど何も知らなかったが、♯の順を追った説明であればある程度の速度でもついてくることができた。父親は♯の講義を受けてから、素朴な関数を使って領内物流の最適化問題を解こうとしていたことも覚えている。
もちろん、♯の今の両親や周囲の人間がそれなりに
重要なのは、この世界に住む人間の何割かは、♯が
そして、そんな人物が杖作りの工房で
その目的が好奇心であろうとも、利益追求であろうとも、それとも想像もつかない別の目的があったとしても、何が起きているのか必ず検証しようとするだろう事は想像に難くない。少なくとも、♯と同じことを考える人間なら
そうして発見したものが、
ほぼ間違いなく社会は今のこの形状を保ってはいない。
だから♯は考えたのだ。情報伝達が
けれど、これらの仮説を統合しても、
♯の直感としては、杖そのものを配り杖の作り方を秘匿する事は、薬の完成品を配る事と製薬方法を広めないことと似ているようにも見える。けれどこれは現実に即しているかを検証していない以上、確証度は妄想とほとんど大差がない。
♯は事前に、つまり魔法の背後にある設計思想の重要性に気づいた時からこれまでの間に、ここまでを仮説として置いていた。これ以降は直接杖職人からの話を聞くことが出来ればこれらの真偽を確かめられるだろう。何度か質問をして、他の金属製品との具体的な違いを説明してもらうのが良いだろう、と思っていたのだ。
ところが。
なんというか、♯は事前に全く予想していなかったのだが……。
「あの、ミッチ氏。いえミッチさん。その…」
短髪の頭頂部を♯とその父親に向けた男は、その姿から一切微動だにしない。上半身と下半身が腰を起点として完全に垂直方向に伸ばされている。
♯は体温が上がってきたことをハッキリと自覚した。「いや、脅迫とかではなくて。ちょっと、まあ、口が軽くなって貰いたかっただけというか…」
頭頂部の男は悲痛な声を出した。「シャロン様!これまでの大変なご無礼を、お許しください…!なんなりと、なんなりとご命令をいただきたく…!」
「だからその…、そこまで恐縮されるとは思ってなくて、ちょっと脅かしただけで…!」
ミッチ氏はやはり一切微動だにしないが、頭頂部から声だけが響いてくる。「私はどうなっても構いません。ですから、どうか家族だけは…!!」
♯は焦りのあまり父親の腕を掴んだ。「お父様!どうすれば良いんですかこういう時!!教わってないですよこんなの!!ねえ!助けてくださいお父様!!」
次話は来週中です。