壁際にかけられた松明が、煙を逃すための窓から入る風に揺られざわめく。部屋の中心的な机は左右に大きく、椅子を二つ横並びに置いても十分なゆとりを残せる。椅子は座面と背中にクッションはついているが、肘掛けは♯の自室にあるような湾曲した手触りの良いものとは違い、垂直で無骨で頑丈そのものだった。
机のこちら側に置かれた二つの椅子のうち、片方に座る人影が喋り始めた。目元には眉が寄り、♯に厳しい視線を送ってくる。
「なんだって?♯ちゃん、悪いがそんな話は到底許可出来ない。」
「でもお父様。」♯は冷静で思慮深い声色を心がけた。「これなら、ミッチ氏もこの工房もほとんどお咎めは受けないし、私にも大きな利益があるんです。この工房を叱責して関係を悪化させるよりも、長く付き合って時々大事なお願いをする方が経済的ですよ。」
椅子に座る男性は眉間を指で叩いた。普段、♯の前ではあまりしない仕草だ。「その点の指摘については理解している。もちろん私も内々で処理すべきとは思っているが、問題は今回の事を相殺するためにウィッケンハイザー家がこの工房から得るべき利益の程度の話なんだ。私としては、騎士団の武具の新調を格安で頼むのが妥当と感じるのだが。」父親は隣に座る♯ではなく、対面に座る男に視線を向けた。
彼は滝のような汗を流しながら、モゴモゴと苦しそうな声を出した。
「それでは厳しすぎます。」♯はキッパリと言った。「やっぱり、私の要求である
男は額の汗を拭いながら熱心に頷いたが、♯ではなく領主と目が合った途端、身を縮こませた。
父親は目を細め、思案しているようだった。しかし、少ししてから首を振った。「ダメだ。これはウィッケンハイザー家とこの工房の間の話だ。♯ちゃんの要求は貴族家の利益として考えると、割に合わない。」
そこで領主は腕を組み、目線を天井に向けた。「というかそもそも、内容が曖昧すぎるんじゃないか?♯ちゃんの言う
「まあ……。」♯は視線を彷徨わせた。「例えば、装飾品とか?」
父親は数秒固まってから、眼光鋭く♯を見据えた。「具体的には?」
♯はこの窮地から脱する方法を素早く検討し、♯の脳は即座に
♯はにへら、と笑った。「……ピアスとか。」
「
荷車の4輪が路面に敷かれた砂利を踏みしめ騒々しい軽快な音を響かせている。工房はすでに遥か後方に座し、影を見ることも叶わない。時刻は昼過ぎ頃。陽はまだ高いが、これから落ちていく事を予感させる程度には傾いていた。
♯は荷車の座席に座って手元を眺めながら、上機嫌に鼻歌を歌っていた。♯の隣で窓の外を見張っている女性騎士も表面上は穏やかな表情をしている。
対面の座席では、対照的に暗い顔をした男が項垂れている。この領内の最高権力者であるプレスコット・ウィッケンハイザーその人である。
彼は荷車の床面をじっと眺めている。荷車酔いでも起こしたか、あるいは5歳の女の子に言い負かされた後のようにも見える。
結局、♯の所望するピアスは
という訳で、♯の右手の中指には
ミッチ氏は技術者としては非常に優秀だったようで、♯の提示した要件の指輪であれば食後には渡せると豪語し、実際その通りになった。
♯はそれを使って数回試してみたが、事前の予想の通り、全く問題なく行使できるようだった。♯はその時、ニンマリとほくそ笑んだ事を周囲に隠す程度の理性はしっかりと残していた。次期領主である♯が奇跡を起こせるという事は、領内防衛の観点からも周囲に知られていない方が良い場合が多いだろう、ということで。
例のグレアム鍛冶工房は結局、領主からの攻撃を逸らす事は出来なかったらしく、騎士団の武具一式を注文され、その上大幅に値切られていた。ミッチ氏が口を滑らせた以上、仕方のない事ではある。そもそも♯としてはミッチ氏にいくつか
床を眺めていた父親が重い口を開いた。「……まあ、指輪で妥協するのであれば僕もそこまで気にはしなかったんだけど。最後に署名させられた
♯はニコニコと笑って答えた。「お父様も確認したじゃないですか。新しい留め方を工夫した新型のピアスの開発ですよ。耳に穴を開けるのではなくて、こう、挟むような留め方なら良いですよね?」♯は手をコの字にして開閉させた。
父親は諦めたように首を振った。「そういう問題ではないんだが…。なんで♯ちゃんはそんなにピアスにこだわるんだ?今付けてるその指輪でも無杖__」そこですかさず♯は父親の口を塞ぎ、運転台の方に視線を向けた。父親は半目で♯を見たが最終的にしぶしぶ頷き、♯は手を離した。「__♯ちゃんの目的には合ってるんじゃない?わざわざピアスの留め方の研究をしてもらうほどの事?」
「
「いや……指輪がもうあると思うんだが……。」父親はその返事に動揺したようだった。「例えば、耳だと効果が強くなるみたいな事?」
「なんの話ですか?」♯は首を傾げた。「効果が強くなる?」
「ピアスを付ける理由についてだよ。♯ちゃんの事だから意図はあると思うんだけど、僕にはさっぱり。なんでそこまでしてピアスを?」
♯は眉を上げた。そして得心がいったかのように何度か頷いた。「ああ、そんな事ですか。」
♯は指を一つ立てた。そして冷静な口調で話し始めた。「良いですか、お父様。ピアスを付ける理由としてまず一つ目、髪に隠れる事。隠れるというのは大事な要素です。真剣な戦闘の時に、相手から武器を隠せる事の有用性は素人考えでも分かります。二つ目、手以外で触れていても魔法の行使が出来るかという検証をしたいからです。挟む構造はこういう場合には非常に大事です。三つ目、そもそもピアスってすっごい可愛いですからね。付けてると大人っぽい印象になるんですよ。こう、髪をかきあげた時に見える耳についてると、キャーーってなるじゃないですか。やっぱり大人の女性として付けておかないといけないっていうか。そういう事ですよ。お父様、そういう事です。分かりますか?」
眉をひそめてそれを聞いていた父親はそれを受けて、思わずといった様子で苦笑した。「♯ちゃんの熱量はよく分かった。そうだな、デザインはお母様によく相談しなさい。」
そして不意に真剣な表情になった。「ピアスは指輪よりもずっと小さいし、顔に近い。間違った使い方をすると、怪我をする可能性がとても高いんだ。ティアはそういう事も含めてデザインを考えてくれると思うけど、それでも僕は許可することが怖い。♯は天子である事をふまえても大人しいし、守るべきルールの事を知ってる。……守らなくても良いと判断したルールについてはその限りでは無いけど…。良いかい、♯。正直僕は、5歳の子にピアスは早すぎるとは思うけど、それでも♯ちゃんの事を信頼して身に着けることを許可します。だから君もちゃんとルールを守って正しく使うこと。いいね?」
♯は父親のその言葉に口をすぼめた。言っている事は分からないでもないが、♯は5歳児のように扱われるのは嫌いだった。
♯はわざとらしく荷車の外を向いた。車輪はやはり軽快な音を奏で、その騒々しい音色が採光窓から荷車の中へ飛び込んできている。視界には開けた草原とその奥に広がる木立、そして奥に見えるなだらかな丘と、石造りの城壁が見えた。
「エリンさん。」♯は父親の言葉などなかったかのように、隣に座る女性騎士に話しかけた。「あれが
「ええっと…。」彼女は困ったように♯と父親に視線を向け、おろおろと首筋を撫でた。対面に座る男は女性騎士のその動作に気づき、笑ってから肩をすくめた。
彼女は息をひとつ吐いてから、口を開いた。「姫君、正確に言うとすこし違いますね。端の見える街リバールまでは荷車で五日ほど掛かるので、あの見えている城壁都市から転移するんですよ。」
「
今回の短距離遠征で♯が要求したことは前述の通り工房の視察であり、これには♯としては全く文句はなかった。極めて重要そうな事実、そうではなさそうな事実、そして勘違いしていた事柄の精査が進んだ。関連の研究が一斉に一歩進んだような発見だった。これらの事実を元にした、屋敷で行うべき実験の数々もすでにメモが済んでいる。♯としては当然、この時点で一目散に帰宅するという選択肢で全く異論はなかった。なかったのだが…。
そして、短距離遠征の保護者として当主が選ばれた。
彼は言った。「じゃあ、ついでに観光しようか。」
なかったのだが、仕方がなかった。その場で
という訳で二つ返事で承諾をした結果、♯はここに立っていた。
城壁都市ヘデッジ。エリンさんの話から20分ほどの距離にあったそこは、領内外からはその固有の名前であるヘデッジではなく、ウィッケンハイザーとリバールの
巨大で黒々とした広場。地面はざらつきのある暗い色をした物質で覆われていて、見た目上は完全な水平に見える。巨大な円形の広場の一方には、幾何学的な意味の
この施設が
まあ、なんというか。
過去の出来事の目的を考えるとき、♯はやはり
そこで、突然巨大な突風が一行を襲った。♯は体の反応が追い付かず姿勢を崩し、倒れかけた♯の体を傍に立っていたエリンさんが抑えてくれた。父親も屈んでやりすごしているようだった。突風によって横転しかけた荷車が不吉な音を立てたような気もしたが、♯はそんな事に気を回す余裕はなかった。
激しい突風の発生地点である広場には、今まさに転移してきたと思われる身なりのいい男性の二人組の姿が見えた。湾曲した
♯は、自分の脳に備わった天才的な発想力をこれほど恨んだ事はなかった。
♯は口の端から薄く、小さく声を漏らした。
「まさか、
次話は来週中です。
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