事態は、
なによりも♯が恐ろしさを感じていたのは、彼らは転移の間一切の
担当者を問い詰めたところ、この移動装置は対面の装置が送り出す状態になった場合、受場周辺に人間が入れなくなるらしい。彼らはそれにより安全は担保されていると考えているらしく、受け取り側の担当者との通信は一切行って
♯はそれを聞いて、久しぶりにこの世界の人間の危機意識の低さを認識した。
この装置は
そうして、♯の明晰な頭脳は脳裏に透徹な映像を浮かべた。__目を閉じた人間が空中を切り裂き飛び立つ。意識はない。しかしほんの少し射出方向に誤差があった彼は、意識の無いまま岩肌に突き当たり消滅する。__自身が消滅するその瞬間でさえ、彼は自分がどうなっているかを知覚する事は出来ない。もしくは__子供が親と共に横断歩道を渡る時、交差点に黒い金属塊が突入してくる。その金属が瞬間移動と見紛うほど高速で移動していて、彼らは跡形もなく蒸発してしまう。__
被害者の肉体すらなく、記録も残らないのなら、
こういう事が、実際に過去にあったかどうかは定かではない。しかしそうでなかったかどうかも定かにはなっていない。
これらの反応は全て自身の想像によって引き起こされたものであり、単に恐怖を増幅させているにすぎないという事は♯も自覚していた。
けれど、それでも。
♯は死ぬ事が怖い。
結論を言えば、♯は“端の見える街リバール“の転移装置の広場で、黒々とした硬質の壁にもたれかかって立っていた。移動は♯の意識下では完璧に転移として機能していた。広場に立って、目を閉じて、目を開いたらここに居たのだ。
♯は意識して、というより意識を
♯は感情の部分の脳に止めるよう要求を出したが、帰ってきたのは
感情の部分の脳がこんな様子なので、♯はこの転移装置の仕組みの部分を真剣に検討しようとしても全然上手くいかなかった。
♯は立ち上がり、スカートをはたいた。強い風で髪が乱れてしまっている事をそのままにしておくのは気が咎めるが、手鏡を持っていない以上しょうがない。いや、現状の♯の手元にないのではなく、そもそも手鏡を所有していないのだ。手鏡という物体はウィッケンハイザー家次期当主という役職を遂行する上で
母親に借りてくるという選択肢もあったが、荷車の移動を伴う旅に傷付きやすい高価なものを持ち込む勇気はなかった。まあ、実際の所それほど大きな問題にはならない。
♯は父親と女性騎士の方へ向いた。そしてほんの少し止まった。だが基本的に選択肢はあってないようなものだ。
「その。」♯は前髪を抑えながら父親に向かって声をかけた。こんな事をエリンさんに頼むわけにはいかない。「髪を……やってもらえますか?」♯は自身のボサボサの髪を指した。
父親はいつものように櫛で髪を整えてくれた。優しいが、多少雑であるのは毎回変わらない。
父親の「よし。」という声で目を開けると、なぜかちらとエリンさんと目が合った。5歳のかわいい女の子が親に髪を整えてもらうのは当然の権利なため、おかしな部分はどこにもないはずだが、エリンさんの習慣的にこれはおかしかっただろうか。……とはいえ、あまり影響はないだろうと♯は判断し、気にしない事にした。そもそも起きた出来事はただ目が合っただけだ。
「お父様、世界の端ってどっちですか?」♯は広場の外に歩き出しながら父親に声をかけた。
崖。踏み固められた土と、そこに根を張る低地草たち。ここは周囲に樹木がなく日当たりが良いようで、隅の方には猫じゃらしのような雑草も茂っている。そしてその数歩先には、まるで当たり前のように広大な、ただの空間だけが泰然と広がっている。
崖際には申し訳程度に♯の腰ほどの高さの柵が設置されているが、体重を掛けるとそのまま倒れそうなほど朽ちている。
♯はその柵の手前まで進み、目の前の空間、ただ空間だけの場所を全身に浴びせるように見た。
ここでは、距離という単語は意味を持てなくなる。クリームがかった霧のような薄雲が真上から足元までを完全に満たし、それ以外のなにかはほんの少したりとも存在しない。♯はもしかしたらと思っていたのだが、予想は外れたようで島が浮いていたりすることも無かった。雲のほかに唯一見えるものは、♯の立つ位置からほぼ真左に顔を向けると見える、わずかに突き出たような半島のような崖だけだった。
♯の全身には非常に強いロープがくくりつけられており、先は奥の大木に結ばれている。この処置をすることに♯は積極的に賛成し、結び目は♯自身も確かめていた。足を踏み外した程度で死の底に落ちるようなミスは避けたい。
♯は崖ギリギリまで進んでから、足元を覗き込んだ。無意識に肌が粟立つのを感じられる。ここは♯の立つ地面が一番広かったようで、下を見ても景色は全く変わらず、期待外れな事にただ空間だけがある。
「姫君!気をつけてくださいね!」という声が後方から聞こえた。エリンさんは♯の安全のための準備を買って出てくれたのだが、なぜか崖ギリギリまで向かう事になっている♯よりも遥かに不安そうに見えた。まあ、理解はできる。妹さんと重ねて見てしまうのであれば、不安にもなるだろう。
♯は立ち上がり、慎重に崖際から離れて後ろを振り向いた。父親とエリンさんは♯のロープが繋がれている大木の陰に座り、なにかを話している。内容は聞こえない。そもそも大声を張り上げなければ声が聞こえるような距離ではない。
♯は自身の状況を見下ろした。全身を覆う、茶色い分厚い布。その脇や腿には太い紐が縫い付けられていて、もし紐に張力が掛かったとしても強く擦れたりしないようになっている。紐は背中で一本へと纏められ、その先は前述のとおり父親とエリンさんの下に伸びている。
♯はため息をついた。なんというか、全然想像とは違っていたのだ。もちろん崖の先に広がる距離感が分からなくなるほどの空間についてはなにも文句を言うつもりはなかった。これを見るために来たようなものだし、これだけを見るためにここに来る価値のあるものだと感じた。
♯の不満はそうではなく、なんというか、
こういう場面では基本的に、崖ギリギリに♯を先頭に父親とエリンさんが後ろに立って、広い広い空を眺めながら気の利いたことを言うのが筋ではないのか。もちろんこんな野暮ったい分厚い布ではなく普段着のままで。もちろん♯も、世界の端周辺では魔法が効果を発揮しない場合がごくたまにあるらしいから、十分な安全を確保しなければならないという事は分かっている。分かっているが、正直な所文句のひとつも言いたくはなる。
♯はもう一度ため息をついて、茶色い布の塊のまま、多少重たいロープを引きずりながら大木の下へ向かった。
頭上の枝が風に揺られ、音を立てる。原っぱのような草原の真ん中付近に生えているこの大木は悠々と枝を伸ばし、大きな影を作っている。葉で出来たまだらの影は三人を雑に覆い隠し、風によって光と影の位置が動きあうことで複雑な迷彩を生んでいた。
♯は茶色い布の塊を脱ぎ捨て、大きく体を伸ばした。布の重量が取り除かれたことによる解放感がある。それに恐らく、崖際ではかなり緊張していたのだろう。多少の疲労感も感じた。
「どうだった?」と少し静かな雰囲気の父親が♯に声をかけた。
♯は腕を上にあげた格好で上半身だけでそちらに振り向き、ニヤと笑った。「お父様がどういう反応を期待していたのかは分かりませんが、率直な感想としては、現実味がなかったですね。」
父親は眉をあげ、そして何度か頷いてから口を開いた。「詳しく聞ける?」
「そうですね。なんというか、直接見ることでしか得られないもの自体は恐らくありましたが、それは話で聞いていた事が実証されたという意味の方向でした。実際に見る事で新しい知見を得たかと言われると。体験することそれ自体は面白かったけど、それだけだったと言ってしまえそうな気もします。」
そこまで言うと、♯は父親の反応を待たずに体の向きを変えて、置いていた荷物へ駆け寄った。
「そろそろ実験やりましょう!エリンさん、魔法って今頼めますか?」
荷物から器を取り出した♯が振り向くと、彼女はすでに杖を手に持ち構えていた。「いつでも大丈夫ですよ。」とにこやかに笑う。
♯はエリンさんに合図を出してから、手に持ったボウルのようなガラスの器に水呼魔法を唱えた。もちろん杖は手に持っていない。♯は万能なため、杖を持たずとも魔法を行使できてしまうのである。
器に7割ほどの水が溜まった辺りでエリンさんの魔法が行使され、眩い青緑光と共に__見た目上はなにも変化は無い。だが全く問題はない。事前の確認によって、♯はこの魔法が無色で無反応という事を知っている。
エリンさんがすぐそばまでやってきて、♯の手からボウルを受け取って目の前の(なにも変化の無い)空間に差し出した。♯自身がやっても良かったのだが、事前確認のタイミングで危険だと指摘され今の形になっていた。
♯はエリンさんの持っているボウルの持ち手の一点を対象に基礎防御魔法を唱えきり、騎士エリンはそっとボウルから手を離して宙へ浮かぶ器を見た。
♯もその透明な容器と、その内側に入った水面を見た。
そして崩れ落ちた。
♯の体はすぐ近くまで来ていた父親によって支えられた。「大丈夫か。♯ちゃんはお疲れかな。」
♯は父親を睨みつけた。「そういう話ではないです。お父様は
「ああ、分かるよ。」父親は頷いた。「♯ちゃんが見つけた防御魔法の新しい活用方法だ。どんな原理でああなっているのかは、まあ、さっぱりだが…。」
「違いますよ!よく見てください!あの器の中の水面を見てください!あの周囲は大体真空になっていて__要するに風の影響を受けないので波立たないので観測がブレる事もなくて。その…つまり
「どうって、うーん。静かな水面だね?」父親は首をかしげた。
「そういう意味じゃないですよ!!
父親は目を細めた。「いや、見えないけど。」
「エリンさんはどうですか!?」♯は頭を抱えながら、父親の膝の上で言った。
「いえ、その。姫君。残念ながら……。」
♯は父親の服に顔を埋めて叫んだ。
次話は来週中です。