ざわめきを降らす巨大な木陰の下に、ひざ立ちになった幼い少女がいて、もう一人の軽装の女性に手を差し出している。もう一人の女性は、その腕を両手で支えながら、顔を伏せて肩を震わせている。
♯は両手に包まれている自身の右手を無意識に眺めながら、エリンさんの父親の今の状態を明確に推察してしまっていた。『あなたはまだ、父さんと話ができるんですよ。』という言葉には、どこかあまりにも悲痛な背景が広がっている。騎士エリンの父親は、彼女の妹と同じく、恐らくもう……。
「お父上に、なにが……」♯はその発想に至った瞬間に、彼女にそう問いかけてしまった。口に出した瞬間にそれを後悔した。
女性騎士は顔を伏せたまま首を振った。「私のことは良いんです。」彼女は肩を震わせたまま言った。「姫君、あなたのお父様と話をしてあげてください。それだけで良いんです。それだけで良かったんです。ねえ姫君、」そこで彼女は顔を上げた。真っ赤になった肌と瞳。♯はそれを真正面から受けた。
騎士は口を震わせて、息を吸ってから言った。「どうか、お願いできませんか?」
♯は口を開こうとして、強い自制心でそれを抑えた。今回は衝動のままに言ってしまわずに済んだ。危ないところだった。
♯は女性騎士の目を見ながら、じっと冷静になって思考した。目の前の女性騎士は明らかに、♯と父親の関係を誰かに重ねている。それはエリンさん本人とその父親かもしれないし、妹さんとのそれかもしれない。詳細は把握できない。
現状の問題は、♯自身が彼女の望む反応をする事が、実際に彼女にとって
だから♯は、そのままの状態から動くことが出来なかった。なにをすればいいか、
突然、♯の肩に手が置かれた。見上げると、父親が隣に立って♯を見下ろしていた。その顔は珍しく、♯にはなにを考えているのか読めない表情をしていた。
「♯ちゃん。バカなことを考えてはいけないよ。」父親は♯に、務めて優しい笑みと声で喋りかけようとしているようだった。「戸惑う必要はない。エリンさんはシャロン、きみの事を心配してくれているだけだから。」
♯は父親の言葉に目をまたたき、正面の女性騎士を見つめ、そして彼女の言葉を思い出した。彼女のあの懇願は、確かに何かを重ねているゆえの期待もあっただろうとは思う。けれど♯と父親との関係を、純粋に案じている部分も確かにあった。♯はその前者だけを見て、後者を見ようとしていなかった。
「その、エリンさん。」♯は口を開いた。「……すいませんでした。エリンさんの言っていたことは正しい。お父様は敵ではない。その通りだと今は思います。……さっきは、なんというか。そういう部分をちゃんと考えずに、口論に勝とうとしてしまって__」
♯はそこまで言ったところで息を止めた。女性騎士が胸を圧迫してきたためだ。彼女は♯に回した腕を一瞬だけ強め、そして離した。
「姫君、それを言う相手は私ではありませんよ。」女性騎士は♯の肩を持ってくるりと回し、父親の方へ向けた。「はい、もう一度どうぞ。」
♯は顔をしかめた。♯が謝りたい相手は全く持って目の前のこの男ではない。
「いえ。」♯は尊大な態度で腕を組んだ。「
父親はその言葉に笑みを漏らした。そしてふざけた表情で口をひらいた。「まあ、見識ある知的で余裕のある大人として、♯ちゃんの要求に応じてこちらから謝罪してあげることは可能だよ?」
♯はその言葉に思わず言い返しかけたが、肩に置かれていた女性騎士の手によって平静を取り戻した。
そして冷静に反撃を行った。「お父様はそうやってすぐふざけるから娘から嫌われるんですよ。」
「え、待って。」衝撃を隠せない父親が狼狽した声で言う。「僕ってそんなに♯ちゃんから嫌われてるの?」
「本当にごめん。」と口を開くのは父親。「僕がさっき言った、君の安全と自由に関することは訂正はしないけど、確かにこちらの反応が過剰すぎたことは事実だ。実際、より安全なものに変更しようとする話をするべきだったと今の時点では分かるけど、そうではなく完全な拒絶だけをしてしまった。ごめん。」
♯も息を吐いた。「私も、すいませんでした。正直、ちょっとふざけて危険すぎる提案をして、反発される事を期待していた気がします。その……転移装置の問題や実験の失敗をぶつけたかったという感覚もないではないですが、それは言い訳です。その…単に、私が愚かでした。ごめんなさい。」
「いいや、それは違うよ。君は色々なことに真剣に取り組んでいて、ほんの少し心がささくれ立っただけだ。それを受け止めることはこちらの役割で、僕がそれを怠ったんだ。悪かったのは僕の方だよ。」
二人はおたがいに、相手は謝りすぎだというような不満そうな笑みをうかべた。
♯はそして、
「さて」その様子を見ていた女性騎士が切り替えるように声をあげた。目元はまだ赤いが、気分は落ち着いているようだった。「それで、姫君は実際にはなにをしたかったんですか?単純に下の方に行きたいということですか?」
「いや、そうではないです。必ずしも崖の下の方まで降りる必要はなくて、崖の下がどうなっているかを直に見たいんです。何かに接続しているのか、それとも浮遊しているのかを調べたくて。」
顎に手を置いた男が口を開いた。「♯ちゃんがずいぶん前に言ってた、鏡を使った遠くを見る器具じゃだめなの?」その男は崖の方向を指差した。「あそこから左を見れば突き出た崖が見えなかったっけ。下の方も対岸になるここからなら見えそうじゃない?」
「現当主、その…。姫君の仰っていたものがどんなものかは正直あまり分かりませんが、距離が離れすぎると
♯は無意識に腕を組み、顔をしかめた。「あれくらいの距離ならガラスの望遠レンズでも十分な拡大倍率になりそう……。霧を動かすのは風が鉄板だけど、境界では魔法は使えない。いや、使っても効果が出ない場合があるだけだから、何度も試せば良い。いや、それよりお母様を遠くの上空に配置して、あのビームで吹き飛ばしてもらえば良いか。」
♯は頷くと、♯抜きで何かを話し合っていた父親と女性騎士を見上げた。「あの、エリンさん。一応の質問なんですが、エリンさんって任意の高さに滞空した状態で高密度レーザー光線を打てたりしますか?あの霧を吹き飛ばすくらいの威力のものを。」
女性騎士はその質問をうけて、一度まばたきをした。
もう一度まばたきをした。
そして目を伏せて心苦しそうに首を振った。
「♯ちゃん、それが出来る人は国中でも両手の指の数に収まるほどしか居ないんだよ。」と父親が嘆息しながら言った。
「そうですか。じゃあ、ちょっとお母様に頼んでみます。」
父親は額に手をあてて空を仰いだ。
「それじゃあ」♯はその様子には目もくれず、歩き始めた。「方針も決まったので、帰りませんか?」
「急に性急すぎないか?ちなみにどういう案?」と小走りになってついてきた父親からの質問に♯は振り返らずに答えた。
「今の話を聞いて分からないのであれば、お父様はもう次代に席を譲る方が良いかもしれません。」
「そんなにパパの事嫌いになったの?」
荷車の車輪と地面の擦れる音が内側に響いてきている。室内では父親は足を組んで書籍を読み、女性騎士はじっと外を見つめている。♯は磨かれた板の上に裏紙を置き、ペンを握り腕を組んでいた。
磨かれた板とその上に置かれたインク壺がなぜかほとんど揺れていない事への追及が仮にあったとしても、現時点の♯に答えられる事はない。女性騎士の説明では、
という事で、話を戻すと。
あのエキサイティングな”ワープ”や世界の端よりも更に話を戻すと。
魔法は特定の作り方によって作られたある程度特徴的な金属が関係している、とまでは言えそうに思える。そしてその製法は静鉄と呼ばれる金属をゆっくり冷やす技術が必要で、”
ここからまず注目したい一つ目の要素は、
ミッチ氏は静鉄と呼ばれる技術を、金属を真っ赤になるまで加熱させ、耐火布に包んで、木製の小屋でゆっくりと冷ますと説明していた。急いで冷やしてはならない、という事も。
正直な所、♯には冶金学の専門知識がほとんどなかった。仮説として地球現代を想定するとしても、一般に普及している鉄をゆっくりと冷ますことでなにが起こるのかは正直な所良く分かっていない。水の凝固や蒸発と同じように考えてしまっても大きな間違いではなさそうではありそうだが、実際に確証は全然持てない。もしくは、もっと柔軟な発想をするのであれば、ゆっくりと冷ます仮定でなんらかを定着させるような意味なのかもしれない。いずれにせよ根拠はない。
♯はここまでをメモに書いて、下線を引いてから腕を組んだ。詰まってしまった時に無理に悩み続ける必要は薄い。
そして♯は原料の問題に目を向けた。リモコン化には静鉄の他に、細かい原料の選別が必要になるという。原料については♯も一般常識の範囲程度は知っていた。鉄は、その鉄に含まれる炭素含有量によって呼び名が変わり、適切な比率であれば純粋な鉄よりも遥かに硬度が増し、そして使用用途によって適切な鉄の種類が変わる。
ミッチ氏の説明では、原料の選別はかなり丁寧に慎重なようだった。熱し、冷やし、酸のようなものを使って選別していた。彼はただ産地や採り方などで区別してはいなかった。
ここから立てられる仮説は、つまり魔法を使える金属を作り出すには、特定の産地(例えば魔法が強く表れる場所のような土地)で採れた金属というような分類は必要なく、なんらかの
そしてこれは検証可能な仮説だ。
♯は不敵な笑みを浮かべてメモのこの部分をぐるぐると囲み、目立つようにした。
息を吐いて♯は窓の外を見た。それほど遠くない位置に大きな街が見える。そろそろ屋敷へ到着するようだった。
次話は来週中です。