道から来る振動が収まり、屋敷の家庭用玄関口が見えてきた。時刻は夕方、この世界では陽が沈む姿を直接観察することは出来ないが、徐々に薄暗くなり、茶褐色のような光が長い影を生んでいる。
突然、♯の隣で女性騎士が音を立てて立ち上がった。速度が完全には一定でない車内で腰を浮かすのは自殺行為で、実際彼女は少し体をふらつかせた。
女性騎士は書籍を読んでいた男性に向かって口を開いた。「現当主、申し訳ありませんが荷車の速度を緩め、ゆっくりと帰還していただけますか。」
♯はその動作と女性騎士の硬い口調に緊張感を覚えた。
男はそれを受けて御者台との連絡口を開き、速度を落とすよう伝えてから女性騎士に顔を向けた。
「なにがあった?」
女性騎士は♯の顔を見て僅かに逡巡し、男へと顔を寄せて口元を隠した。シンと静まり返った車内でさえ、♯には彼女が父親へ言った内容を聞き取れなかった。♯は、彼女は片手で指が白くなるほど強く杖を握っていることにこの瞬間気づいた。
耳打ちを受けた父親は反射的に腰を浮かしかけたように見え、すぐさま手を振った。
「こちらのことは構わんでいい、行きなさい。」
その言葉に彼女は逡巡したようだった。「……ですが。」
「行け!!!」突然の怒声に♯は体を震わせた。父親のこんな怒声は今まで聞いたことがなかった。「当主命令だ!早く!」
「出来ません!」女性騎士も声を荒げた。「
父親は突然、荷車の床を足で踏みつけた。強い音が響いたが、♯にはその音の響きに違和感を持った。固く密度のある木の音ではなく、妙に反響した響きがあった。
男は、その荒い動作にしては不自然なほど落ち着いた声を出した。「問題ない。行きなさい。」
女性騎士は瞬時に身をひるがえし、ほんの少し頭を下げてから戸を開けて駆けていった。
女性騎士の姿が見えなくなってから、♯は無意識のうちに止めていた息をはいた。今でも混乱は続いているが、緊張感はほんの少し和らいだ感覚がある。
♯は足元の床板を見つめた。靴で床板を叩くと、確かに音の響き方が鈍く、反響しているように感じる。♯は目を細めて床板をじっと見つめたが、その発見を今この場で口に出さない程度の良識はあった。
開いたままだった戸を閉めようと腰を浮かせた父親の服の裾を♯は掴んだ。「お父様、なにがあったんですか?」
父親は♯の顔をチラと見て、それから戸を閉めて座り直した。彼は妙に優しい声を出した。「……僕にもなにがあったかは分からないよ。実際に現場を見たわけじゃないんだから。」
♯は男の顔を睨みつけた。「誤魔化さないでください。エリンさんはなんて言っていたんですか?」
目の前の男は♯の顔をじっと見つめ、黙った。表情は優しげだが、眉間に寄ったしわが一段と深くなっていることに♯は気づいた。
「いや。」と、ついに父親は口を開いた。「まだ本当に詳しいことは分からないから、誤報の可能性も考えて、いたずらに♯を怖がらせないようにと思ったんだ。シャロン、君はどんな話でも取り乱さないと約束出来る?」
♯の脳はその瞬間に、想像しうる最悪の出来事を脳内で描いてしまった。まさか、
「
「落ち着け、シャロン!」父親は立ち上がりかけた♯の両肩を掴み、強引に椅子に座らせた。「
♯は正常な呼吸を取り戻すまでに数秒の時間を要した。
父親は立ち上がり、♯のすぐ隣に腰を降ろした。肩に手を回して、ゆっくりと一定の間隔で叩く。「大丈夫、大丈夫だから。屋敷には人もいるし、設備もちゃんとある。エリンさんは
♯は男の、その楽観的な事を言いはじめた顔を睨んだ。「それは
「もちろん気づいているとも。」父親も、ほんの少し硬い声を出した。「けれど、今ここで過剰に心配する必要はあるか?実際、今この瞬間に僕らに出来ることはある?」
「違う!それはただの
父親は口を開きかけたが、止まった。父親は揺らいでいるようだった。
「お父様、楽な方に逃げないでください。問題はそれじゃ解決しない。解決できないんです。能力がないなら、身につけなくちゃいけない。選択肢がないように見えるなら、考え続けなくちゃいけない。お父様、責任とはこういうものじゃないですか?」
現当主は、じっと♯の顔を見ていた。そしてゆっくりと首を振った。「そうじゃないよ、♯。」父親は少しだけ目を閉じて、開いた。「僕にとって責任とは、信頼し、諦めること。僕ひとりで出来る事の限界を知り、僕より能力のある人に任せること。僕が何かを頼んで、それが成功したらそれは頼まれてくれた人が頑張ってくれたという事。それがもしも失敗なら、とても悲しくて苦しいけど、でも仕方のない事なんだ。元はと言えば、僕がやるべき事を達成する能力がないことが原因なんだから。」
♯はその言葉を聞いて、立ち上がった。目を見開いて、その男の顔を凝視した。肩に置かれたままの手を強引に振り払い、震える口を噛み締めた。全身から湧き出る力が大きすぎて、叫ばないようにするのがやっとだった。
まばゆいほどの憤怒を巡らせながら、♯は吐き捨てた。「諦める理由を探すのは得意なんですね。」
そして♯は、すでに止まっていた荷車から飛び降りて、姿を消した。
騎士エリンの後ろについて屋敷の自室へ戻りながら、♯は息を吐いた。すでに窓の外は暗く、屋敷のあちこちには壁掛けの松明や蝋燭に火が灯っている。
結局、切りつけられ、血を流して倒れていたのは屋敷使用人のロレンツさんだった。腕と足を執拗に切りつけられていたという話だったが、屋敷付きの医師の見立てでは今のところ命に関わるような怪我ではないらしい。その点に関しては喜ばしいことと言えるだろう。
医師は、行動の迅速さや治癒魔法の行使判断を理由にエリンさんを簡潔に賞賛していたが、彼女はそれを首を横に振るだけで済ませていた。彼女もやはり、思うところがあるのだろうか。
廊下を先導し歩いていた女性騎士が立ち止まり、♯の方へ振り返った。無意識に歩いていたので気づかなかったが、すでに♯の自室の扉の前だった。
♯は振り返った女性騎士に向けて口を開いた。「エリンさん。その、話を聞いた限りだと、これは計画的な襲撃のように思えてしかたないんですが。」♯は目を擦った。「実際、どう思ってますか?」
女性騎士はわずかに目を見張った後、手の甲を親指で撫でた。「……確証はありませんが、私もその可能性は考えています。」
「そうですよね。」♯はうなずいた。「被害場所が屋敷の使用人入口であること。被害の与え方が恣意的であること。それから、タイミングが我々の帰宅とほとんど同時刻だった事……。」
騎士エリンは目を閉じてから、ゆっくりと首を振った。「推測の方向は支持しますが、それはいずれも推測でしかありません。ロレンツ氏の意識が戻れば状況は説明されますよ。」
女性騎士は背後の扉を開いた。「今はゆっくりお休みください、姫君。今日はお疲れでしょう。」
♯は息を吐いた。なにかを考えずにただ説明を待つ、という事を♯は出来る気がしなかった。なにかを考えることは♯にとってほとんど反射的な動作で、それを止めることはかなり難しい。
ただ……まあ、今は寝てしまうことも良いのかもしれない。確かにエリンさんの言うとおり、今日は疲れの溜まる一日だった。
♯は女性騎士を見上げた。重場訓練の移動について行った母が戻るまでの間、一旦の護衛として♯にはエリンさんが付けられることになっている。
♯は彼女の、松明の光の元ではオレンジがかった薄い黄色に見える髪を見た。最初に被害に気づき、それを最悪の状態から引き戻した人物。彼女はこの件について、なにを考えているんだろうか。
♯は緩く首を振った。体がずいぶんと重かった。
「……そうですね。おやすみなさい。」♯は目を擦ってから扉を閉めた。
結局、ロレンツさんは屋敷の簡易治療室ではなく領内の大型医療機関に移動することに決まった。手と足の腱への被害から、完治には高度な治癒魔法が必要になったためだ。意識の戻った本人はなぜか仕事に復帰する事を望んだが、それは本人以外の全員から却下された。彼が一時的に居なくなることで屋敷で食べる食事の質に多少の影響があることは事実だが、それは自力で歩けない人間を働かせる理由にはならない。
彼の意識が戻ったことで判明した事実はもう一つあった。両腕、両足を合わせ7箇所の切り傷を受けたロレンツさんだったが、この被害はやはり計画的なものだろうと思われるという事だった。買い出しから帰宅し、乗り合い荷車から降りたばかりのロレンツさんを、襲撃者は複数人で襲ったという。彼らは地味な色の綿の布を被って、一言も発する事無くロレンツさんを切りつけて去った。綿と呼ばれる布の素材は中流階級が一般的に使う服の素材であり、また彼らが残した痕跡は市販の靴跡程度で、それも広い草地によってかき消されていた。
これを計画性の無い、偶然の犯行と考えるのは
これを受けて急遽、屋敷では騎士団から複数名の信頼を置ける護衛が派遣された。ウィッケンハイザー家はこの事態を深刻なテロ行為として認識し、今後数週間、自衛能力を持たない人間は護衛を連れていなければ屋敷の外に出る事は許されないとされた。重場訓練に付き添っていた領内単騎最大戦力であるセレスティア・ウィッケンハイザーも、これを受けて早々に戻ることになった。重場訓練に参加している騎士団の約半数の予定には今の所変更はないが、それも今後の状況次第だという。
もちろん、♯にも影響はあった。♯は、
とはいえ、今の♯には屋内でしなければならない数々の問題を抱えているため、実務的な影響はあまりない。広い場所で風を全身に浴びることは出来なくなってしまったが、まあ、許容はできる。
という事で、♯はこれまで慎重に組み立ててきた
「エリンさん。申し訳ないんですが、そして拒否権もないんですが、今すぐ
次話は来週中です。