何度かの拒絶と応答から、何度かの拒絶と応答を挟み、そして更に何度かの拒絶と応答を重ねた結果、♯は最終的にこうして動きやすい服装で立っていた。
場所は例のごとく第二会議室だ。机は使用人さんによって片づけられ、人数分の椅子と小さな机だけが残されている。
目の前には♯の母であるセレスティア・ウィッケンハイザー。魔法教育の場ではいつもそうであるように、髪を結んでひとつに下げ、動きやすい服装をしている。その隣には女性騎士エリン・ウリツカヤ。軽装だが正式な騎士服を身に着け、感情を悟らせない表情で佇んでいる。彼女は♯からの治癒魔法の指導依頼をすぐさま上司に報告し、結局母親が教育を
部屋の端にはなぜかウィッケンハイザー領現当主である男も座っている。男の目の前の机には執務用の一式が揃って並んでいて、それを監視するように立つ当主付き使用人から無言の圧力を掛けられ続けている。♯は一度だけそちらに目を向けたが、父親がそれに気づいて笑みを返してきた事を、単に無視した。男との見解の相違はいまだに解決せず、あれから何も変わらずそのままの状態で置かれている。
「
目の前の教師はコツコツと木張りの床を叩き、♯の意識が向いたことを認識してから口を開いた。表情は硬く、鋭い。「これから♯が学ぶ魔法は、非常に危険であることをまず理解してください。この魔法は極めて危険です。
治癒魔法は、人間の傷を塞ぎ痛みを和らげる
この魔法の真に危険な部分は、魔法の対象への影響の有無に関わらず、
ある魔法使いは、頭を撃ち抜かれた仲間に対し、治癒魔法を休息を挟まずに
教師はそこで一瞬言葉を途切れさせた。
「二人とも私の同僚でした。私は戦場で、彼ら二人を
母親は強く目をつむり、深く息を吸った。
髪を振って呼吸を整えた母親は、平常に戻ったように見えた。明瞭で、丁寧で、快活。けれど♯は、母親のその姿に危うさを感じた。重心がほんのわずかに揺れているように見えた。
母親は何事もなかったかのように口を開いた。「なぜ連続行使が危険なのか、という問題はいまだに解明されていません。♯ちゃんのことだからこの問題に取り組もうとするかもしれないので先に宣言しますが、その場合、
教師は極めて真剣な目で♯をじっと見つめた。♯はそれをしばらく見つめ返し、それからほんの僅かに目を伏せた。目をあわせると、母が経験した過去を考えてしまいそうだった。
「分かりました、お母様。」♯は頷き、そして明るい表情で口を開いた。「それじゃあ、そろそろ実践してみても良いですか?といっても、治癒魔法ってどう練習するんですか?
3分後。
♯は不承不承ながら、今のこの場では、
「それで、私は教室のどこに立っていれば良いですか?もう一歩くらい右?左の方が良いですか?ああ、それと、今は呼吸しても良いですよね?」
「♯ちゃん、そんなに卑屈にならないで。ほら杖を出して頂戴。」
♯はその言葉に目を見開き、それから笑みを見せぬよう口元を手で抑えた。「お母様。実はですね、シャロン・P・ウィッケンハイザーは昨日の旅の中で成長し、なんと杖を持たずに魔法を行使する事が出来るようになったんですよ!」
母親はしばらく、首を傾げ沈黙した。
そして叫びだす寸前のような反応をしながら♯の方へ詰め寄った。「
そこで会議室の扉が音を立てて開かれ、外から騎士の一人が足早に侵入してきた。
彼は当主付き使用人へ何事かを言い、彼はそれを現当主へと伝えた。目を見開いた現当主は二人を引き連れその場を慌ただしく去った。
♯は一連の反応を二度まばたきする事で受け流したが、そのひとつ前の母親の単語が妙に気になった。
「『
「え?」と母親が反応した。「なんて言ったの?」
♯は腕を組んで目を閉じ、背後の椅子に腰を降ろした。♯は今、非常にはっきりとした違和感を感じていた。
思えば、
それが母親の言葉によって、今この瞬間、疑問の俎上に上がった。
♯は自身の脈が上がってきたことをはっきりと自覚した。この発想はゲームチェンジャーになりうる。
文化の発現は、基本的に極めてランダムに起こる。特定の地域に集まった人間集団は、元々ほとんど同じ生活様式だった場合でさえ、数世代のうちに特定の独自の文化を生み出す。例えば言語__同じ東アフリカ大陸の一集団から出発した人類が、数万年で7000以上もの独自の言語を生み出すに至った__は、その最たる例と言えるだろう。
もちろん、その言語のひとつひとつに、地政学的な見解からそれらが生まれた根拠を示すことが出来るのではないか、という反論をすることは出来る。つまり環境に適応する形で文化が育まれるのであれば、それは完全にランダムとはいえず、ほぼ同じ環境であれば同じような文化へ収束していくのではないか、と言えなくもない。
♯は自身の脳たちを緊急で集め、この発想を脳内に浮かばせた部分の脳を初期化するにはどうすれば良いのかしばし話し合った。
[監視リストNo.15]と名づけられた部分の脳がついに口を開いた。「懐疑的な部分の脳を排除しようとするのはもちろん、脳にとって最高の行動だと思うよ。」[監視リストNo.15]は♯の脳に向かって、優雅な動作で一度だけ拍手をした。
♯は脳たちを解散させ、議論へ戻った。
つまり地球文化とこの世界の文化が極めて似ているという観察は、環境による収束として説明できると?と♯は懐疑的な側の脳に言った。その主張にはひとつ重要な見落としがある。観察:この世界は常に薄雲に覆われ、重力の強さが局地的におかしく、そしてなにものかが作ったであろう魔法という技術がある。そしてそのどれも、地球にはない。
[監視リストNo.15]は顔をしかめる__そうとしか表現できない謎のイメージ__を返した。「とはいえ、なんらかの固有の原因はあるはずだ。ヒトと極めてよく似た生物が地上を支配している土地であり、
目という器官が脊椎動物、頭足類、節足動物のそれぞれでほぼ独立しながら、しかし電磁波を読み取る装置として収斂進化したという事実がある。ここには、光__電磁波__という物理現象の感応を持つことが生存にとって優位だった、という構造的な理由があった。
オッカムの剃刀的思考は眉唾と捉える必要があるのもまた事実だが、固有の原因が全くないと考えるのは愚かだ。」
♯のパッシブで働く部分の脳から【
「問題に戻ろう。」と[監視リストNo.15]が言い、♯と♯の脳は頭を悩ませた。
こういうのはどうだろう。と♯は♯の脳に声をかけた。天子という神話がある。あの話の内容が一片の事実を含んでいるとしたら?つまり、天にいるヒトが地上に降りてきて、この地に定着した。そして♯自身のような転生者が文化的な土台を作り上げた、というもの。
「は?」と♯の脳から一斉に非難の声があがった。「現実を説明しようとする気がないのなら、口を開かない方がいい」
♯はこの意見に思わず胸を抑えた。
「つまり。」と懐疑的な脳の部分は痛烈な声を出す。「この世界は地球と地続きの宇宙と仮定するという事で良いのか?」
脳のその意見に批判を向けようとした♯だったが、もうコンマ3秒考え、口を閉じた。
♯はおずおずと思考した。(自身の脳に向けて意見を表明する事を怖がるのはおかしい、と♯は一瞬考えたが、♯の脳がその思考を蹴とばした。♯は身を竦ませた。)
でも、現実をフラットに見た時に考えられる発想として、♯自身のような転生者が歴史上で他に一切居なかったとは、正直な所考えにくい。もちろん♯と同世代の天子が他にも居るという事は知っているが、この国の歴史ではそれ以前の天子については明確な記述はない。記録がないという部分を見て、単に天子が過去存在しなかったんだろうとする思考は、少し朴訥すぎる。
懐疑的な脳もこれには同意の反応を返した。そして咳払いのイメージを送った。「とはいえ、あえて避けたであろう残りの問題についてはまだなにもないが、良いのか?」
♯は肩を竦めるジェスチャーを脳に返した。まあ、その部分は後で考えれば良いんじゃない?
脳は大きく息を吐くジェスチャーを返し、口を噤んだ。
(セレスティアと女性騎士は、突然内容の全く理解できないなんらかの言葉を発してから数分間、椅子に座ってぶつぶつと独り言を言い続けている♯を見つめ、そして互いに目を合わせた。セレスティアは苦笑し、首を振った。)
「あの、♯ちゃん?」とセレスティアが声を掛けた。「考えは纏まった?」
♯は大きく頷いた。「そうですね。まあある程度は。それで結局
セレスティアは鼻筋を擦った。「説明しても良いけれど。まずは治癒魔法をお勉強しない?」
次話は来週中です。
(注釈機能を初めて使ったので、読みにくい等あれば仰ってください。)