「ノックノック。」
そう言いながら返事を待たずに扉を開いた♯は、そこで強烈な後悔を覚えた。この扉は領主の家庭用の私室兼執務室に繋がるものであり、扉の先にはもちろん
「それで、お父様。現状はどうなって__」扉を開きながら喋りだした♯は、無人の部屋を見渡して自然と口を閉じた。
執務机の上の書類はいつものごとく散らばっていて、棚からあふれだした書籍たちは各自思い思いの位置__日光浴に最適な窓際の棚や、使用人用の背もたれ付きの椅子、床に転がりたい本もあれば、背を伸ばすようにうつ伏せになっている物もある__で休んでいる。
来客用の椅子だけは紙達に嫌われているらしく、辛うじて人を座らせるという使命を全うできるよう、孤独に一人立っている。
♯はこの部屋の片づけを任された使用人見習いがノイローゼで辞めていく事に心から同情していた。ここを片づける事は賽の河原に似ているが、より悪い。積み上げた石を崩す鬼には悪意があるが、この部屋に住む怪物にはそれ
♯は斜め後ろに佇む女性騎士を見上げた。
「もしかして初めて見ましたか?」
彼女はかろうじて頬をひきつらせた。「……えっと、はい。」彼女は咳ばらいをした。「領主の私室を目にする機会は初めてなので、これも経験と感じています。」
♯はつぶらな瞳で彼女を見上げた。「この部屋、汚すぎだと思いませんか?」
彼女は穏やかな笑みを浮かべた。「姫君の私室とよく似ていると思いますね。」
♯は女性騎士のニコニコとした顔を細目で睨んだ。あれは全く
女性騎士の言葉を無視し、♯は部屋の中へ進んだ。元々ここへは、父親が慌ただしく去った件について報告を受けようと思って来たのだが……。
この部屋が完全に無人である事はとても珍しい。そして♯は今の所、自身の好奇心を抑えるつもりがなかった。
部屋の中は見た目通り、樹皮と金属の混じった匂いがした。慣れ親しんだ、揮発途中のインクの香り。♯はこの微かな刺激臭が嫌いではなかった。
客を座らせるために存在する椅子に♯は座り、目を閉じて深く息を吸った。午後の日差しが肩に当たり、心地よい落ち着いた気分へと自身が流れていくような気がした。わずかにかび臭さが漂っていたが、♯はほとんど気にも止めなかった。
少しの間目を閉じていた♯は、おもむろに椅子の上で女性騎士の方へ振り返った。
「エリンさん。ちょっと疲れちゃったので一休みします。部屋の外で待っていてもらっても良いですか?」
彼女は僅かに驚きの声を上げかけたが、礼儀正しく頷いて部屋の外へと出た。
♯はそのまま、しばらく椅子の上でゆらゆらと揺れていた。個人的な執務室と言いながらも客用の椅子の質はそれなりのものを使っているらしく、気を抜くとそのまま眠ってしまうような心地がする。いや、と♯は思考を切り替えた。エリンさんにも宣言してしまったのだし、こんなに良い心地なのだし、♯はまだ5歳なのだし、このままウトウトしてしまっても良いのかもしれない。
♯の腕はほとんど条件反射的に動作し、両手のひらを打った。強い破裂音が部屋の中に響き、その音とアドレナリンとで♯の脳は活性化を始めた。これは♯に備わったチート能力のひとつで、自力で気力を取り戻さなければならない場合に時折、脳に刻まれた反射回路が誘発して起きうるイベントのようなものだった。一定確率でしか動作しない事が欠点だが、単独で気力を取り戻す能力はチートと呼ぶに値するだろう。
そして活性化した♯の神経回路は、聴覚器官からもたらされた処理信号の一区画に【要調査マーカー】を貼り付ける事に成功した。マーカーの色は
♯はそれを認識して眉をひそめ、もう一度手をうち鳴らした。特におかしな音を感じたりはしない。今回は聴覚処理部からの特段の報告もなかった。
♯は腕を組んだ。ただの気のせいという可能性も考えられるが、一応……。
「お父様。そこに居るのは分かっているので、大人しく出て来てください。」
ゴドン、という鈍い音と共に、男性の呻き声が本棚の裏側から聞こえた。
部品の軋む音を響かせながら、磨かれた板で作られた本棚が左右に開いていく。♯としては拍子抜けなのだが、本棚の移動は全て手動、つまり人間の手によって動かされていた。こういう場面こそ魔法の出番であるはずなのだが、この隠し部屋の入り口を作った人間は
「それで、お父様。先程の説明では全く理解出来なかったんですが、どうして地下の隠し部屋と直接つながる部屋が三階のこの部屋なんですか?」
「え?」と声を上げるのは今まで重たい本棚を手作業で移動させていた男性。「♯ちゃん、それは安全のためだよ。もし賊に押し入られたとしても、三階まで移動するのは時間が掛かる。当主一族がこの非常に堅牢な隠し部屋で賊を迎撃する準備をするために、凄く分かりにくくかつ住居から近い場所に入り口を置いているんだ。」
「発想として理解できない事はないですが……。」と言いながら♯は腕を組んだ。「まともな現実の話をするのであれば、そもそも魔法には壁を消失させるものがありますよね。具体的な方法は分かりませんが、気配を探る魔法もあったはずです。内部探知の魔法も探せば見つかりそうですし、それをもし事前に使われていた場合、出入口を固められてから毒ガスで一網打尽ですね。」
♯はため息を吐いた。「それで、この部屋の設計はいつのものなんですか?100年前とか?」
「ふむ。」父親はひとつ頷き、♯の髪に優しげに手を触れた。「一応言っておくと、この屋敷の設計は大体120年前で、離れだけ75年前になる。よし、それじゃあ♯ちゃん。ひとつ問題です。」
♯は目を見開いて父親を見た。「はい!」
「あー、ごめん。これは解答が一意に定まるものではなくて、単に君の発想を聞いてみたいだけのものなんだけど、良い?」
♯の肩がほんの少し落ちた。「はい。」
「では。この屋敷にまともな現実の話として、♯ちゃんの思いつく最も実効性のある安全策はどんなもの?」
「
♯が見上げると、父親は壁に身を預け、渋い表情で顎に手を置いていた。
「……なにかまずかったですか?」
「確かにそうか……。いや、♯ちゃんの発想は、すぐさま出来るかどうかは別として、非常に画期的な逃走手段であるのは確かだよ。ただ……。」父親は顎を撫でた。「♯ちゃんはこの家の
「地下?えっと、隠し部屋の中身という意味ですか?」
男は納得という様子で頷いた。「そうか。
では、これから次期領主であるシャロンに、特別にこれから領地経営に関するある秘密を教えてあげよう。
この国にある各領地の地下には、
「建造物そのものが権力を保証するということですか。へえ。騎士団があるので、てっきり、この世界も独占武力によって権力を保証しているものだと思ってました。」♯はそこで首をかしげた。「となると、その結界はそもそもなぜ
「良いところに気が付いたね。」父親の返事はトーンが少し高かった。妙に嬉しそうな様子に見える。「この結界はおおよそ80年前、
また
彼(推定)は一体なにものなんだろうか。魔法を広め、杖作りの方法を広め、結界を広めた。それら全ては、おおよそ善の方向に向いていそうに見える。杖作りの方法を広める事を禁忌と置いたことも捉えようによっては善と見えない事もない。杖を渡すと同時に製造方法も(一部の)人間に伝えるというのは、利益の独占と捉えることも出来る。だが♯は、彼の行動の意図はそんな短絡的なものではないと確信していた。例えば、杖作りの知識が広まることによって生じるなんらかの悪影響を抑える、とか。♯の知る人類は、技術発達の代償になんらかの価値を失うことを繰り返し続ける歴史を歩んできていた。
もし、
つまり、彼は♯と同じく、天子なのではないか。ということ。
彼は♯と同じようにこの世界に生まれ、そしてこの世界を土台に
つまり、
♯は目の奥をつんざくような感情的刺激を散らすため、数度まばたきした。ようやく、ほんのわずかに事態が進展してきたような気がし始めた。
♯は二度、深呼吸をした。「じゃあ、下にあるものを見せてください。」
父親は眉を下げた。「そんなにお勉強は楽しくなかった?」
「いや、そういうわけでは無いですが……。」
「当主、並びにお嬢様。」と畏まった声で呼びかけるのは当主付き使用人さん。「本棚の開け閉めは、出来るだけ短く済ませたいのですが……。」
男性と少女は慌てて奥の小部屋に飛び込んだ。
「さて。」と口を開くのはウィッケンハイザー領現当主。場所は領内最高権力者の住む屋敷地下に広がる、隠された秘密の部屋。
もちろん、”秘密の部屋”だからといって排水管の先でもなければ、巨大生物の住処という訳でもないらしい。名前の由来は単に、一般には秘されている部屋というだけ。
小部屋からは非常に急な階段が続いており、5段ごとに折り返して下へ続いていた。20回ほど曲がると最下層へ辿り着いたため、雑な推定では恐らく30mほど降りてきたことになる。階段の先は廊下になっており、窓がない以外はあまり屋敷の廊下との差はなかった。恐らく、この廊下の設計者は兵器を隠すという
まあ、迎撃システムを
廊下の奥には堅牢な金属扉が設置されており、その奥には目算で10m四方の大部屋が広がっていた。大部屋の中央には、巨大な岩のようにも見える黒く光沢のある塊が設置され、そこから低い天井へ細長い棒状のものが伸びていた。岩の周囲の地面には円盤状の金属板が置かれ、そこに非常に微細な凹凸が刻まれている。その金属板の数mm上部を、一本の光の筋が岩の中央であろう場所を中心に、まるでコンパスの軌道を模式化したかのように一定間隔で回転し続けている。
そして、それらすべてが無音で動作していた。
♯は
「さて。」ともう一度声を出すのは父親。
♯はその声に完全な反射回路から振り返った。見ると、男は地面に固定された台座の前に立ち、こちらに手招きしていた。
「見てごらん。これが今の広域結界の様子だよ。」
無意識の動作でそちらに近づいた♯の目には、その台座は平らな面の上に半球状の仄かに青みがかった透明なドームが置かれているように見えた。
そこで♯はようやく目前の物体を意識する事に成功し、そして腕を組んだ。「つまり、これと広域結界は相互干渉するという事ですか?つまりこれを今なんらかの方法で破壊すると、領地の結界も壊れるんですか?」
「え?」と父親。「ああいや、これは領地の広域結界の今の形を再現しているものだよ。模型というのかな。」
「ああ、単にモニターしているだけですか。」♯は一時的に、原理の部分を一切検討しない方向へ脳を切り替えた。「それで、お父様達はなにに困っているんですか?」
父親は目を閉じて首を振った。「♯ちゃん。ここの赤い点が見える?これとか、これも。」父親が指を指し示す場所は地上周辺で、いくつかチラチラと赤く光が見えた。「この色は結界がなんらかの衝撃を逃がしているときの色なんだ。基本的に薄い青の結界だけど、衝撃を受けるとこうやって変色反応を起こす。まあ、この程度の衝撃は結界にとっては誤差みたいなものだからあまり深刻ではないんだけどね。本当に危険な時は空が真っ赤に染まるから。」
この一連の情報を受けて、♯の原理を一切検討しない部分の脳すらも原理の検討を始めてしまっていたことを♯はすんでの所で自覚した。あやうく欲求にのまれる所だった。危なかった。
気を取りなおした♯は首を傾けた。「なら、なんでお父様達はあんなに慌てていたんですか?」
「それはね。」父親が落ち着いた、しかし不安になる響きを乗せながら口を開く。「この反応は、もしかしたら、この領地が襲撃されているかもしれないという事だから。」
次話は来週中です。