つづら折りの階段を登り抜け、♯はようやく見慣れた紙の堆積場に戻ってきた。あの例の部屋から戻る階段を登り始めて5分ほどで、この部屋にほどこすべき改造の優先順位が塗り替わったのを♯ははっきりと自覚した。
広域結界の管理のためだけに、わざわざ毎日15分かけて足腰に無駄な疲労を与える理由はどこにもない。
「それで、
「もちろん。」と父親は真剣な顔で言う。「連絡を受けて騎士達は早車で向かってくれたんだ。遅れてとはいえ、僕も現地に向かうことにはちゃんと意味があるよ。」
♯はそれを聞いてなお、姿勢を崩さなかった。「でも、お父様は現地でなにも役に立たないじゃないですか。」
父親は衝動的に胸を抑えた。「最近、♯ちゃんは言葉が鋭くなってきたね。」
「最近、お父様は頭が
男はそれを受けて、椅子に腰掛けて腕を組んだ。表情には真剣さが戻っている。「確かに、♯ちゃんの言う事も筋が通っている。ただ……。」
男は目を伏せて片手の人差し指を立てた。指先がゆらゆらと揺れている。「ただ……。これは説明が難しい感覚なんだけど。その、今は現地に向かった方が成果がありそうだと思う。待つことを選ぶことは、少しタイミングが早すぎるというか……。」父親は肘掛けに埋もれるような体勢で、深く考え込んでいるように見えた。
♯もこれには口を噤んだ。非論理的だと断ずることも出来るが、実力者のこういう直感的な判断はある程度信頼しても良いように感じる。父親は曲がりなりにも当主として、十数年間この領地を運営してきた経験があるという事を忘れてはならない。
とはいえ、♯は分からない事を質問することを躊躇うようなたちではない。「タイミングが早い、というのは?」
「タイミング。つまり、今はより大きな出来事全体の始まりの部分なんじゃないか、というような……。」男は♯を見るつもりがないらしく、腕の隙間から見える口元がもぞもぞと動いた。いつもは背筋を伸ばして精力的な姿しか見ていなかった♯は、珍しい父親の反応を見て少し動揺していた。
♯も無意識に部屋の中を歩き、客椅子に腰掛けて腕を組んだ。父親の発言が脳内で再生される。
__今はより大きな出来事全体の始まりの部分なんじゃないか__
「ええと、つまり…。」目を細めながら、♯は思いつくままに口を開いた。「武道……ええと、身体訓練とかで、動作の
椅子の軋む音が聞こえ父親の方を向くと、男は人差し指を♯の方へ向けていた。「
そして父親は両手を机についてゆっくりと立ち上がり、直後に笑い始めた。
「それだよ、♯ちゃん!」父親は机を手ではたいた。「今ここで待つことは、出来事の全体が一番圧縮されている瞬間をみすみす逃すことになるんだ!凄い!そうだよ!!このタイミングがまさに一番重要なんだ!!」
♯は突然父親によって椅子からすくい取られ、胸元に抱きかかえられた。男は抱えている娘への配慮や人権といった諸々を完全に無視し、笑いながら胸に抱えた娘を振り回し始めた。
♯はそれに対応できず、咄嗟の防御反応によって悲鳴をあげてしまった。
「姫君!どうしました!?」
鋭い声と共に杖を構えた女性騎士が入ってきた事で、ついにこの部屋の
「わははははははは!!!」
「キャーーーーー!!」
「…………なんでここに当主が?」
早車(と呼ばれる高速移動用の荷車)で出発してしまった父親を見送った♯は、玄関の敷居ギリギリまで外へ寄せていた体を内側へ戻した。
この一件が片付くまで♯は
例えば、父親の要求したお出かけ前のハグを♯は強固に断った。理由はもちろん、父親が玄関の敷居を踏んで立っていたため、そのままでは背中に回した手が外へ出てしまう可能性があるからだ。外へ出てはならないというのがルールである以上、たとえ父親からの要求だとしても断固として断らなければならない。
とはいえ、♯もそこまで杓子定規な人間ではない。父親には、”ただし、例外として『他者からの要求を満たすため、仕方なくであれば外に出ても構わない』といったルールを設けるのであればハグに応じる事も可能だ”という折衷案を提案することさえしたのだ。
父親のその時の反応は、単に♯に近づき、腕を回してから頭を撫でて出ていくというものだった。♯としては釈然としない対応ではある。
♯は振り返り、いつものように後ろに控えている女性騎士を見上げた。「段々、あの男の当主としての器に疑問を覚えてきたりしませんか?」
「姫君の安全をいつでも優先しているのだと感嘆を覚えましたよ。」女性騎士は澄ました顔で言う。
「そうですか。」♯はそれだけ言い、上履き用に靴を履き替えた。「まだ夕食まで時間がありますよね?
女性騎士はきっぱりと首を振った。「治癒魔法の訓練は一日に3度までですよ、姫君。お母上様と約束したじゃないですか。」
「でも、3回連続で成功したし、体への負担も全くないんですよ?お母様も
「姫君の
♯は大きく息を吐いて玄関の内扉を開けた。最近、この女性騎士は少し小言が増えてきたように感じる。無言の抵抗として靴音を響かせながら廊下を歩き始めた♯は、直後に突き当りのホールに人影を見つけ、女性騎士の背後に素早く潜り込んだ。
「ひゃっ。姫君?どうしたんですか?」
♯は目の前の両腕を掴んだ。「エリンさん、このまま後ろ向きに歩いて玄関まで戻りましょう。出来るだけ正面から背中が見えないように気をつけてください。」そう言いながら、♯は彼女の両腕を掴んで後ろに引き始めた。
トコ、トコ、トコ。
「……ええと。」数歩進んだところで女性騎士が口を開いた。「それで、説明は…?」
トコ、トコ、トコ。
もう何歩か後ろに進んだところで♯は発言した。「このあいだ挨拶してしまった人を見かけたので。」
トコ、トコ、トコ、トコ、トコ、トコ。
「ん?」女性騎士はようやく音を出した。「つまり、姫君はいま、人見知りしているという事ですか?」
トコ。
「いえ、そういう訳ではないですね。」
トコ、トコ、トコ。
「……まあ、そう表現出来ない事もないです。」
その時、騎士エリンと♯の横を、商人とその付き人が通り過ぎた。商人の男性は口元に手をあて、面白いものを見たかのようにクツクツと肩を揺らしながら歩み去った。
♯はパッと手を離し、女性騎士の前に躍り出ると大股で歩き始めた。
まさか。♯は人見知りなんてしていないし、今後も一切するつもりはない。
もちろん、♯にはこんな事で無駄に出来る時間など一秒たりとも存在しないのだ。するべき事、書くべきもの、行うべき訓練が♯にはある。
「さて、エリンさん。第二執務室に行きましょう。治癒魔法でない訓練なら許可は下りますよね。」
女性騎士は両手で口元を抑えた。目元がころころと笑っているのが分かる。
♯はそれを睨みつけた。「なんですか?」
女性騎士は無言で、♯の頭を撫でた。
♯は隣に立つ女性騎士の顔を見た。
女性騎士は隣に立つ♯の顔を見た。
そして同時に首を振った。
若い使用人のマリリンは絶望の表情を浮かべた。
「その、お嬢様。」彼女は絞り出したように声を出した。「元は、御当主様からのご指示ですので……。」
♯はもう一度首を振った。「なら、『お父様は次期当主という立場の忙しさを忘れてしまったようですね』とお伝えしてもらえますか?」
冷や汗を垂らした彼女が口を開く。「お嬢様、そこをなんとか、後生ですからお願いできませんか……?御当主様は外出しておりますし、奥様は騎士団との会合中のため、その……。」
「別に、お爺様だけでいいじゃないですか。そんなにしつこい人なんですか?」
使用人さんは限界まで眉を下げていた。「その、上昇志向の強い方というか、人との繋がりを大事にしている方というか……。」
「言葉を選ぶのが上手いですね。」♯は深々とため息をついた。「その図々しい人のせいで使用人さんが拘束されるのは、確かに問題です。そうでなくとも今は人数が足りてないですもんね。」♯はもう一度ため息をついた。「しょうがないか、分かりました。」
角を曲がり、深々と頭を下げた使用人さんの姿が見えなくなったところで♯とともに歩いていた女性騎士が口を開いた。
「姫君がそれで納得しているのであれば、私は構いませんが……。」その声は珍しく、妙に不満気だった。
「なにが言いたいんですか?」♯は例の人物が待っているらしい客室へ歩きながら声を出した。「そんなに魔法訓練をしたかったんですか?」
「いえ、そうではなく……。」女性騎士はなにかを言いかけたが、肩を落とした。「姫君が気にしていないようなので、私からはなにも。」
♯は口元を抑えてクスクスと笑った。もしかすると♯は今、普段は抑制しているのであろうエリンさんの幼い部分を思いがけず見てしまっているのかもしれない。
「そんな顔をしながら言われても説得力に欠けますよ。ほら、怒らないので言ってみてください。」
女性騎士は幼い次期当主の顔をちらりと見た。「楽しそうですね。」
♯は空気を払うように手を振った。「はいはい。楽しいので、エリンさんの不満を聞かせてください。」
女性騎士ははっきりと渋顔を作った。「不満というか……。客も客ですが、使用人も使用人ですよ。姫君に頼るとは何事ですか。客のひとりくらい使用人だけで対処できなくてどうします。
姫君はまだ幼く、尊重されるべき立場ですよ。家老様も姫君のことを考えているとは言い難いですよ。当主様はこれも教育だと思っているのかもしれませんが、教育と放り出すことには大きな違いが__」
♯はもはや、笑顔を抑制する段階を通りすぎていた。声をあげて笑い始めないように気をつけなければならなくなっていた。
「次々と文句が飛び出てきますね。」♯は肩を震わせながら言った。「今の言葉だけで、使用人さんとおじい様とお父様にいっぺんに文句を言ったことになりましたけど。もう、立場とかはどうでも良くなったという事ですか?」
女性騎士は非常にはっきりと裏切られたという表情をした。「誰のせいだと……。」そして顔を伏せて頭を抱えた。「いえ、大変申し訳ありません。この内容は他言無用でお願いできますでしょうか……。」
♯は慌てて首を振った。「そんな、告げ口みたいなことしませんし、するつもりもありませんでしたよ!単純に、面白いと思っただけですから!!……なんでそんな疑り深い表情をしてるんですか?」
「いえ。」女性騎士は澄ました顔で廊下を再び歩き始めた。「姫君の性格の悪さを勘定にいれていなかったというだけです。お気になさらず。」
「……どういう意味ですか?」♯は立ち止まり、できる限り声を低くして言った。
「聞いたままではないでしょうか。」そういう女性騎士の声は、角を曲がった先の廊下から聞こえた。
次話は来週中です。