「あの……。」♯は完全な混乱状態のまま、
男性は、彼が置かれた状況にしてはかなり落ち着いた、低いバリトンの声を響かせた。「ええ。お願いをひとつしたいのですが、よろしいですかな?」
♯は視線を天井から女性騎士に向けたが、混乱した♯の脳と口はぴくりとも動こうとしない。
女性騎士は目の合った幼い主人からの命令がないことを悟ると、自己判断で一歩前へ踏み出した。「……なにをすれば良いでしょう?」
髪や服の裾までが天井に押し付けられているように見える男性は、返事を受けて厳かに頷いた。そのまま、ゆったりとした動作で右腕を下へ伸ばしてくる。
「すまないが、手をとっていただきたい。」
「それは構いませんが……。」
女性騎士は恐る恐る、非常に慎重に手を伸ばした。
ゆっくりと手同士が近づいていく。
女性騎士の手が男性と触れ合った瞬間、パチッという音と共に男性が床へ落下し、轟音が響いた。
♯は激しい動悸を必死に抑えようと、何度も深呼吸を繰り返した。あの言葉が♯の脳裏に蘇る。
♯は必死に、必死になってあの若い使用人の事を
物理的に上へ飛んでいくような人物のことを上昇志向の強い方と表現してはならないし、人との繋がりという表現は主に精神的なものを表すものとしてしか使ってはならない、というのは♯の中では常識だったのだが、世間的にはあまり一般的でないのかもしれない。
壮年の男性はエリンさんの甲斐甲斐しい働きによって、ようやくその身を起こしたところだった。この世界はメートル法とはまた別の(
男性は弱々しい動きで椅子に座り、♯と騎士エリンの方へ向き頭を下げた。「お手数をかけたようで申し訳ない。まさか、衝撃緩和の魔法に時間の制限があるとは……。」
衝撃による動悸がわずかに落ち着いてきた♯が口を開いた。「あの、それで……。」
「ああ。」男性は苦笑をこぼし、直後に痛みで顔をしかめた。「そういう体質でして。学者からは、
「まさか、お一人でいらっしゃったんですか!?」隣に座る女性騎士が珍しい声を出した。「何かあったらどう……。__いえ、失礼いたしました。」
♯は男性への心配と新規概念への好奇心との間で揺れていた。そしてわずかに好奇心が勝利した。「なにが起きているか、詳しいことは分からないんですか?」
「おや。」壮年の男性は興味深げに目を細めた。「姫は魔法にご興味がおありか。でしたら王立の研究機関に一度足を運ばれるとよろしい。あなた様のお母上も一時期在籍していたと聞く。」男性はバリトンの声を滲ませながら、付箋のような紙に何かを書き綴っていく。「一応ですが、これを。ジレンホールという男に渡して頂ければ。」
♯は受け取った厚手の紙を手に取り、僅かに目を細めた。「どちら様ですか?」
「彼についてなら、一角の魔法研究者と紹介しましょう。……私についてであるのなら。」
彼は言葉を切り、両肘を机に突いた。顔の前に置いた両手の指先を合わせ、もう一呼吸の間黙り、そして。
「『ジョンレン』とでもお呼びください。
と、深く沈むような声で言った。
ピリ、とした舌の上の刺激を感じながら、♯はわずかに女性騎士の方へ体重を移動させた。今すぐなにかあることは考えにくいが、それは警戒を緩める理由にはならない。
一般に、♯が天子であるという事は強い情報統制によって広まらないようになっている。世間では♯がウィッケンハイザー家の一人娘であるという事と、5年前に生まれた本物の天子との間に繋がりは一切ない。これはほとんど全ての天子で同じような措置が取られており、♯も他の天子については、国営の広報誌などによってとある天子が起こした出来事、という文脈で語られる情報以上のことは一切知らなかった。付近でそれらしい話も聞かない以上、この街には恐らく居ないのだろう、と判断出来る程度の知識しか持っていない。
♯は内心の警戒心を混ぜないよう注意深く声を整えた。「……ジョンレンとは、珍しいお名前ですね。生まれた地域の響きですか?」
彼はそれを受けて、ほんのわずかに口角を上げ口を開いた。「警戒させてしまったようだ。」
そしてそのまま、黙って自身の指を見つめている。
♯は彼の腕に細い光沢のある輪が付いている事を無意識に認めた。細く、主張のない大人しいアクセサリーに見える。
「一応聞きますが、偽名ですか?」♯はそう問いかけながら、彼と相対する位置の椅子を引き、座った。
彼は目だけを♯へ向けた。「その通り。しかし申し訳ないですが、由来は秘密です。」バリトンの声がわずかにからかいの香りを帯びる。
「そうですか。」
♯は肘を立て、椅子の肘置きに体を預けた。傾いだ首を左手の二本の指で支え、男を下から見つめる。
「それで、天子についてはどこでお知りになられたんですか?」
「
ここまでは計算されていた。ここまでは動作が思想と同期していた。ここまでは、真に圧力があった。」男は口を閉じ、開いた。「だがその言葉ではいけない。」
男はもう一度首を振った。「それは、圧力をかけた相手から情報を引き出すという目的にとって、最適な言葉でない事はあなたも分かっているはずだ。しかしあなたは私からの圧力に屈したか、単に経験のなさからか全力を投じなかった。だからそれほどまでに半端な質問を口にしてしまった。これは愚行ですよ。シャロン・ウィッケンハイザー様。」
♯は、同じ体勢のまま、目を細めた。「ご指摘ありがとうございます。それで__」
「いえ。まだ私の番とさせていただきたい。」男はそう言って、袖から取り出した杖で数言唱え、グラスと水を取り出した。二人分のそれは、片方が♯の前の机に音を立てて置かれた。
「失礼。」彼は丁重にそう言って水を含み、ゆっくりと嚥下した。そして口を開いた。「あなたが天子である、という事実を私が
男はグラスを僅かに傾け、縁の一点から、音もなくテーブルに下ろした。
「あなたは私に対して行う初めての意義のある質問を、意義のある情報を得る手段とすることが出来なかった。そして一度目の質問に失敗すれば、警戒されもう二度と質問の機会は訪れないかもしれない。」
男は言葉を切り、そして身を起こしてニコリと笑った。「とはいえ、姫の知りたい事へも答えよう。私は国家の管理下にある、とある宗教の運営をしています。福祉支援も行っているので、関連にあたる天子についても色々と。__あなたの脅威に関しては、今の所、直接危害を加える予定はない、という解答にしておくべきか。それとも、もう少しはっきりした物言いを好まれるかな。」
♯は非常に強烈に喉の渇きを感じた。置かれた水を飲んでしまいたい衝動に駆られるが、この瞬間に目の前の男に渡されたものに口をつけるほど危険な行動もない。
♯は唾を飲む動作を誤魔化すために、左腕から右腕へ体勢を反対方向へ倒した。恐らくこの動作の意図すら暴かれているだろうが、♯はその観察をかいくぐることのできそうな方法を持っていなかった。
♯はあの瞬間、目の前の男に完全に
ここから、なにをすれば♯の失った尊厳を取り戻せるのかすら分からない。そもそも、失ったものが尊厳という名前なのかすら自信がなかった。あるいは、喪失感すらも施しとして与えられたものなのだろうか。
目を細めて♯は目の前の男を観察した。彼は気楽に上体を起こし、口元をかすかに緩めてロックグラスを持つようにただの水を揺らしている。
♯は次の一手を見つけられずにいた。あらゆる駒の動きを把握されるという制約のもとで、自身の望む方向へ状況を進める手段はあまりにも少ない。態度を咎め罰を与えるというのも一つの手ではあるが、♯にはそれが最適な行動だとは到底思えなかった。
♯は口をつぐみ、ゆっくりと個々の選択肢の重みづけを進めようと努力した。ようやくアドレナリンが抜け始めたようで、動悸が落ち着きを取り戻してくる。♯は目の前の男がこちらに視線を向けている事に意識を割きながらも、浅く息を吐いて目を閉じた。
(客室は沈黙に満たされていた。♯の浅い呼吸音だけが、シンとした空気の中に落ちていく。)
「時に、ミス・ウィッケンハイザー。ひとつ質問を良いだろうか。」突然、低いバリトンの声が空気を破り、♯は体を硬直させた。その声は質問の形を成しながらも、拒否を許さない響きをしていた。
その地を這うような低い声は続ける。
「転生を経験するとやはり、考え方に変化はあるのですかな。」
部屋に、唾を飲む音がやけに大きく響いた。
次話は数日中には。(遅くとも来週中には。)