「あの、姫君……?」
頭の頂点方向からおずおずとした声がかかり、♯はほんの僅かにそちらへ顔を向けた。はたから見れば身じろぎ程度にしか見えない動作ではあるが、今の♯の取りうる行動の中ではもっとも誠意ある動作と言える。
「……。」
無言の時間が過ぎる。
「……なんでしょう、エリンさん。」♯は不承不承声を出した。
「あ、その……。」その声は明らかに張りつめた緊張を滲ませていた。「失礼ながら、お聞きしたい事があるんですが。よろしいですか?」
それに対する♯の返事は少し遅れた。
♯はゆっくりと机から身を起こした。腕を組み、深く呼吸しながら目を閉じる。
「……なるほど。つまり、あなたは__というよりその
♯は閉じた口を開いた。「良いでしょう。エリンさん、質問して頂いて構いません。ただ……答えられない場合もあるので、それについてはご了承ください。」
女性騎士は、突然大きく印象を変えた主人に気圧された。かすかに戸惑いながらも口を開く。「その、姫君が蘇りを経験した人物というのは、本当の事ですか……?」
♯は目を閉じ、どう返答するべきかをしばし考えた。
「ですが……。」女性騎士は縋るような声を出す。「ですが……!
「それは、不可解な事象を説明できる根拠にはならない!」♯は荒げた声を、慎重に抑えた。「分かりませんか?現時点で私が断定できることは、
「それ、は……。」女性騎士は一瞬、口を噤んだ。直後に目を開いて続ける。「でも、姫君は言っていたではないですか!転生は技術だと!蘇生する方法があると!!」彼女は膝の上に置いた右手をきつく握りしめていた。「
ゆっくりと、二度まばたきをした♯は首をわずかに振った。「正確には、『
虚を突かれたように女性騎士は口を閉じた。「……なにが、違うのですか?」
♯は一瞬、息を喘がせかけた。彼女は
♯は、彼女に希望を失わせるであろう事に耐えられそうになかった。「それは……、その。」
やっとの思いで♯は声を出した。「……あまり気にしないでください。」
締め付けるような痛みを無視しながら、話題を変えるため♯は口を開いた。「あなたも、
♯の突然の話題転換に僅かな動揺を見せていた女性騎士だったが、一度咳ばらいをしてから口を開いた。
「……その、かなりプライベートな事です。姫君は知りたいですか?」
♯は口を閉じた。
率直に言って、♯は知りたかった。これは、エリンさんの苦しみと(逃避と呼ぶべきでない)救いの核の部分の話だ。彼女はなぜ苦しんでいるのか、今どうなっているのかを知ることは、現実的な解決策を検討するうえでほとんど必須に近い情報になる。
問題解決という舞台において、それぞれの情報にはそれぞれの
情報はそれを得るとき、同時にある程度のコストも引き受ける必要が生まれる。これは瞬間的なコストと継続的なコストとして切り分けられる。
例えば、情報を取得するために金銭、時間、機会のようなものを支払うことは瞬間的なコストといえる。また、人間どうしであればそれを尋ねることによって関係を変化させうる可能性や、そういった繊細な事を聞くことそのもののある種の加害性が、質問をするコストとして支払われる。もちろん「知りたがっている」という情報を相手に渡してしまうこともコストといえるだろう。
これらは能動的な行為とセットで発生し、行為が終われば発生も終わる。まさに瞬間的なコストだ。
そうでなく、情報を抱えていることによって持続的に発生するコストも存在する。知ってしまった事を忘れられない事や、その情報によって判断が歪むこと、不可逆的な精神的負担、そして知っている事という事実それ自体から生まれる義務や責任。知っている状態そのものがある種の負担になる形こそ、継続的なコストといえる。
極端な事を言えば、完璧な判断者__特定の文脈では、”理想的なベイズ行動者”と呼ばれる__にとって
とはいえ(
だから情報を取得した後に発生するコストは、♯にとって確かに実在する害として残る。それを承知の上で、♯はそれらを引き受けることに合意していた。
♯は、女性騎士エリン・ウリツカヤの
♯には、人には言えない秘密がたくさんある。隠すべき事の多い人間だ。
♯は今、エリンさんの最奥の部分を能動的に引き出そうとしていながら、自身の秘密については隠そうとしている。
♯は唾をのむことを辛うじて抑えた。
つまり。これは、彼女の誠実さに対する、真っ向からの裏切りだ。
結論を見つけられないまま、♯は閉ざされた視界のなかでこうして解のない問いを考え続けていた。
シンとした沈黙が広がる室内。陽は霞の先から細く部屋を照らし、強い赤と影のコントラストを生んでいる。
不意に女性騎士の声が響いた。向けた杖の先に設置された燭台に灯がともり、二人の顔に穏やかな暖かい光があたる。
「分かりました。」とその声は続けた。
「え?」と返すのは困惑の表情を浮かべた♯。♯はまだ、あの質問から一言も声を発していない。一体この女性騎士は何が分かったというのか?
「はい、分かりました。」と彼女はもう一度頷いた。「正直な所、そんなに悩ませてしまうとは思っていませんでした。なので、こうします。」
二の句が継げずにいる♯を置いて、女性騎士は続ける。「今からかなり……言いたくない事を言います。姫君には大変申し訳ないですが、出来れば聞いていただけますか?」
「は、はい。」♯は不随意的に言った。
彼女は頷いて、そうして口を開いた。
「父は、私が7歳の時に亡くなりました。妹は、私が8歳の時に亡くなりました。」
次話は来週中です。(遅れて申し訳ないです。難産だった……。)