セレスティアは砕いたばかりのガラス片を、指先を擦ることで払い落した。魔法光の残滓によって青く微発光しながらそれらは空へ落下していく。ガラス片の破壊を起動条件に決められていた罠魔法は完璧に効果を発揮し、砲弾は寸分の狂いなく射撃者へと返却された。
セレスティアの事前の予想とは違い、そこに居を構えていたのはたった一人だった。彼は左手を大きく振ることで反射されたその砲弾を逸らした。目を焼くようなペイルブルーの光が、点となって彼の背後の暗闇に消えていく。
暗色のローブが相手の背後ではためく。彼は反射された砲弾を顧みる事すらなく杖を構え、空に足をかけるセレスティアをはっきりと見た。
わずかな、一瞬の静寂が周囲を支配する。
「
そして、完璧なタイミングで鋭い声が周囲に響いた。
セレスティアは相手のその口元が動く様子を目で捉えることは出来なかったが、彼の細かな仕草からその詠唱の単語数と魔法の発現タイミングを正確に読み取ることは出来た。恐らく口元に偽装魔法をかけているのだろうが、直接目が合った人間の詠唱すら認識できないほどセレスティアは落ちぶれてはいない。
周囲には、漂うふわりとした香りのほかに起きる現象はない。魔法が
自身の唱えた『薫香』と同時に砕かれた足元の防御の感触を思考の片隅に僅かに残しながら、セレスティアは宙を鋭く蹴り抜いた。そして、そのまま3単語を口ずさみながら落雷のような速度で丘上に立つ彼へと落ちた。斜め下へと駆け抜ける軌道上に、砕かれた防御の作る足跡のような燐光が残る。
丘の上に、突風と共に土埃が舞った。
ひとつため息をついて、セレスティアはその身柄に目を向けた。全身に至る麻痺を与えたとはいえ、ここに放置したまま屋敷へと戻る訳にはいかない。単独で動くことの問題のひとつは、事後処理もこちらで行わなければならないこと。とはいえ、護衛が付く事のわずらわしさに比べればどうという事はない。
セレスティアは杖を頭上に高く掲げ、そして三語唱えた。口を閉じると同時に杖先は純白の光を放ち、水平方向に同心円状に波紋を広げていく。杖先に広がったその輪をセレスティアは運ぶべき肉体へと投げ、波紋は白色光を散らしながらそれを包んだ。
杖をその体に向けたセレスティアは、搬送用の魔法を唱えるため口を開いた。
そして、セレスティアの周囲を囲むような形で展開された複数の光線が、彼女の体を貫いた。
閃光は一瞬のラグもなく反射され、周囲の空間を貫いて消えていく。開いていた口は驚きを表現する事もなく冷静に詠唱を唱え始め、視線は丘から見下ろせる草原の特定の一点を凝視していた。
今の攻撃魔法は、長距離砲撃を反射した彼からのものではない。セレスティアは戦闘中の自身の直感に全幅の信頼を置いていた。セレスティアが相手を取ったと直感したのであれば、それを疑う事はありえない。実際に倒れた彼は一切動いておらず、杖を握ることすらしていない。疑うべきは直感ではなく、もちろんセレスティアの視覚や聴覚の方にある。
自走していた唇が詠唱を完成させ、草原の中にゆらめく人影が現れる。セレスティアは凝視していた一点に人影が現れると同時に地面を踏みしめ、5歩目でその人影を蹴りぬいた。
草原に鋭く硬質の音が響きわたる。城壁を蹴ったかのような強い反動と衝撃を足裏に感じたセレスティアは、その衝撃を逃がすように背後へと飛んだ。見ると、足草を染め上げるほど真っ赤に発光する防御魔法を纏った人間が、ゆっくりとした動作で身を起こすところだった。
その人物は、セレスティアには青年のように見えた。彼は言葉と共に杖を数度振り、赤く発光する防御を青へと染めなおす。ゆったりとした緩慢な動きは、彼の持つ余裕の表出のようだった。
そして彼は、セレスティアへ向けてニコリと、柔らかな微笑みを浮かべた。
「こんばんは。良い夜ですね。お散歩でしょ__」
その言葉は、直後に降ってきた大岩によってかき消された。
『次。』
セレスティアは内心で短くそう思考した。もちろん口に出すなどという愚かなまねはしない。真剣な戦闘中に詠唱ではない言葉を発してはならない、というのは当然守るべきルールだが、増長した魔法使いの多くはこの原則をなぜか完全に忘れてしまうらしい。魔法には詠唱が不可欠であり、発声器官はひとつしかなく、故に戦闘中に会話を試みるということは単に命を差し出すことと等しい。
そしてやはり、屋敷を離れる瞬間の直感の通り、この丘の上には複数の人間が潜んでいるらしい。砲撃手が一人しか見つけられなかった事で僅かに困惑していたが、単に散開し身を潜めていただけのようだった。
セレスティアは苦い顔を隠そうとしなかった。彼らはようやく、その真の目的を露わにした。セレスティアはそれを遅まきながら理解した。どちらもこれら全てを知っている以上、表情を隠すような努力はする必要すらない。
散開し潜み、個々が単独で奇襲するという戦略は、セレスティアを撃破する事を一切目的としていない。それはセレスティアを撃破するという目的に対して有効な戦略ではない。奇襲によってセレスティアの持つ防御のストックを僅かに減らすことは出来るが、物理的な成果にそれ以上のものは望めない。
ならば彼らの目的はなにか。
それはもちろん、この領地の単騎最高戦力の時間を浪費させることに他ならなかった。
岩の隙間から、クスクスと笑う青年の声が響いた。
そして、♯のもとに六度目の衝撃が訪れた。
それは、今までの爆発とは性質の違うもののようだった。大きいが、しかし体への影響はあまり大きくはない程度の揺れが辺りに伝わっていく。♯はパブロフ的反射による動作で、咄嗟に身を屈め音の出所を探った。感覚的には遠くでなにかが起きたような響きに感じたが、♯の認知論的知識をもとにした判断では、自身の直感ほど信頼できないものはない。
衝撃は二度、三度と続いていく。止まりそうな気配は今の所ない。
目の前の父親は立ち上がりかけていた。大きく、ザラついた息を吐いた父親はやはり口を開くことなく♯に両手を伸ばしてくる。その目はなぜか、非常に焦っているように見えた。
♯はその腕に抵抗することなく身を委ね、そのまま抱きかかえられた。同時に、非常に小声で父親が囁く。
「走るよ。」
父親は目の前の階段だったのであろう瓦礫の山を無視し、屋敷の中央に位置する階段へと向かうようだった。空を歩く技術があれば遠回りをする必要はないのだが、あいにく二人ともそんな
謎の衝撃はいまや異様な音と化していた。木材がたわみ、金属がひしゃげる音に混ざる、こだまする地響きのような音。揺れは瞬間的な爆発ではなく、何かが動くことで起きているもののように感じられた。そして、角を曲がったことで視界に入った屋敷の正門を見て、♯はようやくなにが起きているかを理解した。
ひときわ大きな衝撃が直後に走る。それは城門に致命的な亀裂を与え、巨体の重量によって城門は強引に押し広げられた。
荷車が並んで通れるような幅の城門も、それにとっては酷く窮屈な入り口だったようだ。その飛翼を折りたたみ、石造りの壁面を一歩ごとに砕きながら侵入してくる。
体の全てが眼前に現れたことで、♯はその巨体の異様さを観察することが出来た。それはゆらめく暗いもやに覆われている、というよりもやそのものがそれを形作っているように見えた。一部のゆらめきが鱗の一部や牙などを精緻に形作り、そして一瞬で崩壊しもとのゆらめきに戻る。
♯はその姿を見て、咄嗟に父親の服を掴んだ。息を呑むほどの異様な威容。♯の抑えることの出来ない本能的な恐怖心が、理性の部分を谷へ引き摺り込んでいく。♯は唇を強く噛んだ。ここで声をあげてはならない。ここで
虚を突かれた衝撃によって、もやのかかったような頭脳がようやくまともな思考を取り戻したことを♯は自覚した。つまり、父親の今までの行動__物音を立てず、♯を保護し、出来る限り急いで領地の核に向かう__は、城壁が破られ侵入者がああして入ってくる事を危惧していたということ。確かに、屋敷を襲った(おそらく何らかの攻撃である)連続爆発への対処をすることよりも遥かに重要なことであるというのは♯も積極的に同意できる。
父親はもう一度屋敷の角を曲がり、そしてその廊下の惨状を見て一瞬足を止めた。瓦礫が散乱し床や壁が撓んでいて、一部の床は崩落している。ゲーム的文脈であれば飛び石とでも呼びたくなるような地形だ。
頭の回り始めた♯はこの瞬間の状況を見渡し、俯瞰してみることにした。
屋敷は上空から見れば大体U字型をしている。♯の部屋と当主の私的な執務室はどちらも正面から見て右翼に位置し、上下階段は屋敷の真ん中と両翼に存在する。右翼の階段はほとんど崩壊し、登り降りが出来るような状態ではない。そのため、遠回りし中央階段から上階まで進まなければならない。現在地から中央階段までの道中は足場が悪く、城門が突破されたことから時間的猶予は一切ない。
♯の精神は♯の脳に、これを解決しろと命令した。
♯の脳は即座に答えを返した。その答えに♯の精神は文句を言い、♯の脳はそれを完全に棄却した。それらを監視していた♯はため息をついた。精神の懸念ももちろん分かるが、実際に脳の案は有用ではある。♯はそれを採用することを決めた。
父親は目の前の廊下の惨状を前に、意を決したように一歩踏みだした。その耳元に♯は囁く。
「お父様、そこの崩落した箇所から一階へ飛び降りましょう。」
父親はその言葉に動揺して蹴つまずき、一階へ勢いよく落下した。
「お二人とも、ご無事ですか……?」
反射的に衝撃緩和魔法を唱えたばかりの女性騎士の声が、父親に抱えられたままの♯の耳に届いた。
お待たせして申し訳ありません。次話は出来るだけ早く。