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♯はこれまで、理論、実践を問わずあらゆる魔法についての知識を積み上げ続けてきた。♯の生活圏には本格的な書庫があり、また魔法に関する質問の多くに即座に回答出来るほどの熟練の魔術師がいた。♯はそれらを使う事で魔法の分野についてあらゆる範囲まで手を広げ調べることができた。あらゆる魔法の法則、経験則、その他制約について調べる事が出来た。
その中で、♯がもっとも疑わしく思いつつも、もっとも魅力的な法則があった。それはプロメテウスが書いたものではなく、先々代の王の側近の手記として書かれ、やがて定説として広まったものだった。その法則に固有の呼び名はなく、ただその文言だけが伝わっていた。
「魔法に行使限界はない。」
魔法は、なんらかを消費して動作する現象ではない。魔力切れ、魔素不足、マナ枯渇、詠唱疲労といった概念は、この世界の魔法学には存在しない。これまでの歴史上、なんらかの資源の枯渇によって魔法が止まったという記録はない。魔法は常に、詠唱に従順に反応しその効果を発揮する。
熟達した魔法使いであれば体の尽きるその瞬間まで詠唱を続けられるだろう。時折、自身に覚醒魔法を唱える事を忘れなければ、だが。
(♯はこの記述を見た時、計り知れないほどの興奮と同時に、強い疑念を抱いた。一方では、これによって宇宙の熱的死が完全に解決出来るという喜びを、他方では魔法がこの法則の通りなにも使っていない訳がないという冷静な指摘があった。確かに、♯は魔法がなんらかを消費しているという証拠を見つけたわけではないが、かといってこの法則を文字通り信じる事は能天気すぎる。)
しかし、♯の調べた限り(そして母の知る限り)ひとつだけ例外があった。治癒魔法は詠唱を唱える度に、行使者に頭痛をもたらす。成功失敗に関わらず頭痛を与え、連続行使によって身を焼き、やがて行使者本人を殺す。あらゆる魔法が呪文を唱えるという最小のコストだけで駆動する世界で、なぜか治癒魔法だけが対価を要求する。
治癒魔法の基礎教育のための本には、治癒魔法がなぜこれほど例外的なのかを説明する一文があった。
”治癒魔法は、天界にのぼろうとする人間を留めようとする魔法のため、上昇に対抗するための奈落への引力が必要になる。治癒魔法の行使者は天界へ引かれる力と奈落へ引き戻す力を同時に受けるため、強い負荷がかかる。一般的な症状のほとんどが頭痛から始まるのは、天界が頭上にあるため。”
……少なくとも、説明を試みようとする形跡のある文ではあった。♯はこの説明をそのまま素朴に受け入れ、それ以上の探究を諦める事を拒んだ。この説明は、まともな人間であれば単に「なにもわからない」と宣言しているだけのものだということはすぐに分かる。
法則に例外がひとつだけあるとき、取れる立場は二つしかない。法則が間違っているか、もしくは例外の記述が間違っているか。♯は前者をも疑っていたが、けれど治癒魔法を取り巻く例外性に関しては後者だと考えていた。
”限界”という概念は、系が正しく動作した結果突き当たる壁のことだ。そして”故障”とは、系のどこかが歪み働かなくなっていることだ。ここには明確な違いがある。治癒魔法を行使した時に起こる特有の頭痛は、どちらにみえるだろうか。全魔法が無限に行使可能であるという法則が真であるなら、治癒魔法の頭痛という対価は”限界”ではありえない。単に、故障を起こしているだけなのではないか?
♯の推論は続く。
魔法は明らかに、行使者のイメージによって出力を変える。発火魔法の例は言わずもがな、基礎防御魔法を巧妙に使った♯の固定魔法は、♯の思考によって実現していた。実際に杖先に石ころの一点を当てたり、空気中の粒子のひとつに杖を向け続けた訳ではなく。つまり、魔法はやはり行使者の思い描くものを認識し、それをもとに魔法として表現するということ。
脳内に描いたイメージが魔法の最終出力を決めるなら、イメージと実現内容のずれは全魔法にあるはずだ。ここに治癒魔法とほかのあらゆる魔法との差はない。けれど、なぜか治癒魔法だけが対価を要求する。
ここに、♯の発想力がこれを説明する回答の候補を立ち上げた。
炎をイメージすることはたやすい。水も、射撃魔法も、分身魔法ですら、それを想像することはたやすい。__炎は熱による物質の急速な酸化反応であり、熱によって切り離された粒子がその熱の上昇気流によって浮かび上がりながら特有の発色を示す__ということをイメージせずとも、ただ発火するほどの熱が対象に与えられることを想像できれば、魔法にとって十分な解像度となる。けれど、治っていく肉体の内側__体組織が周囲の組織と結びつき、あらゆる循環系管が吻合していく実際の工程__を正確な解像度で思い描ける人間はいない。この世界のほとんどの人間(とあらゆる書物)は、人体の治癒の仕組みをただ”魔法”であるという理解をしている。魔法が実現しなければならない水準と、行使者が魔法に与えるイメージ水準との間には、大きな溝がある。そして、魔法はそのイメージの不足分をどこかから補填しなければならない。
つまり、治癒魔法が要求する解像度の高さにくらべ、人間が渡すイメージの解像度が極端に低い事が原因なのではないか、ということ。
したがって、仮説が立てられる。治癒の失敗率も、行使の度に起きる頭痛も、連続行使による死さえも、魔法の限界ではなくイメージ解像度の不足を補填するためのコストではないか。そして、魔法に渡す解像度が高ければ高いほどこの差は縮まり、失敗せず、頭痛や身体的負担も少なくなるのではないか。
そして、都合のいいことに♯は人体構造について詳しかった。
検証結果は、控えめに表現しても上手くいった。いや、控えめに表現してもものすごく上手くいった。母親から治癒魔法についての講義から三日間のうちに行った治癒魔法は完全に成功し、ほんのわずかな頭痛を感じることもなかった。4日目の夜には自室で隠れて治癒魔法の練習をしたが、やはり体への負担はなかった。(治癒魔法を隠れて練習する方法は簡単だ。指先をろうそくでわずかに焦がし、それを治癒魔法で治療するだけでよかった。小さな火傷はほとんど気づかれることもないし、仮に気づかれたとしても溶けた蝋に触れてしまったと言うだけでよかった。それに、実際には火傷が残るようなこともなかった。)
いまのところ誰にも言うつもりはないが、♯は連続で20回の治癒魔法を完全成功させることに成功していた。頭痛も、吐き気も、めまいも感じず、治癒魔法はほかのあらゆる魔法と同様に、その詠唱に従順に応え効果を発揮した。
♯は、地球現代における人体構造と自己修復機能について非常に豊富な知識を持っていた。ほかの分野とは違い、♯にとって専門と呼べる分野だった。♯がもう一方の両親から教わったものの中で、医学や人体構造がとりわけ興味を持った分野のひとつだった。
地球現代の理解では、肉体の治癒は主に4つの工程からなる。
まず、傷の発生から数分で止血が始まる。血管が縮み、血小板が傷口に張り付き、タンパク質の連鎖反応によってフィブリン線維網が張られる。線維網は血球を絡めとり、小さな構造物を組み上げる。
数時間から数日で、炎症が発生する。白血球が細菌と破壊された組織を片づける。血流と体液が損傷部分に集中し、腫れて熱を帯びる。白血球__とくにマクロファージ__は除去と同時にPDGF、TGF-β、VEGFなどを放出して次の相を指令し、工程を開始させる。
数日から数週ほどで、命令によって増殖が始まる。新しい毛細血管が伸び酸素と物質の補給路を構築し、線維芽細胞がコラーゲンⅢ型を分泌し仮設の足場を組み上げ、皮膚細胞が創面を這いすすみ、対向する縁と出会ったところで止まり、傷そのものが引き寄せられて縮んでいく。
そして、最後に再構築が始まる。仮設されたコラーゲンⅢ型がⅠ型に置換され、線維が張力方向にそって再配列され、血管密度が下がり赤い瘢痕が白く平坦なものへ変わっていく。
治癒は状態変化ではなく、工程である。工程には順序があり、命令者が存在し、指令系統がある。複数の段階が存在し、数十種類の細胞が相互に補完しあいながら時間をかけて進んでいく、指令の連鎖である。地球現代の理解では、人体は非常に高度なタンパク質機械であり、適切な指令を与えなければ適切な挙動をはじめることはない。ただ「魔法である」という程度の理解で治癒魔法を行使することは、誤っているばかりか愚かしいとさえ言えるだろう。
そして、話は『仮想:刻印霧』へと戻る。
霧を組み上げている仕組みがなんであれ、それは特定のサイクルを循環しているはずだ。なんらかによって形が指示され、その図に従い霧が体を構築し、体が思考(少なくともそれに類するもの)を作り上げ、思考が形を指示する。霧の竜が常に揺らぎ、変化を続け、瞬時に再生することがその証拠といえる。
ここで重要な部分は、再生が自己参照をするという点にある。
♯は、精密な治癒魔法によって霧そのものを変貌させようとしていた。それは瞬間的に見れば、放水魔法による霧の削剥と大きな差はないように思える。霧の総量を削り、縮め、ゆっくりと弱らせていく戦い。♯が治癒魔法を行使するたびに霧はその身体を構成する霧の総量を減らしていく、消耗と再生の戦いだった。けれど、♯の狙いはもう一段深いところにあった。
大きな傷を癒した記録に被行使者が空腹感を覚えたという記述はなかった。♯が治癒魔法のために用意したイメージも、治癒機構の働きを促進させるために特定の化学物質を与えるイメージより、単に分子ー細胞小器官の解像度で治癒に必要なタンパク質を配置するイメージの方が治癒速度が高かった。そして、通常の人体に備わる自然治癒は完全には元に戻らない事で知られているが、魔法による治癒にはその制約はないようだった。
このことから、治癒魔法は人体の治癒機構を加速させるものではなく、体組織そのものを生み出す魔法だと♯は判断した。
体組織の材料がどこから来ているのかは正確には分からないが、けれど患者の体内から供給されていないことは分かる。つまり治癒魔法は、対象の外側から材料を調達して、対象の位置に組織を構築する魔法である。
そして、♯が指定している位置には『仮想:刻印霧』を構成する霧が存在する。治癒魔法は竜の体の内部に人体組織を出現させる。霧の総量が減る正確なメカニズムは__人体組織が占位して霧が場所を奪われているからなのか、それとも霧そのものが人体組織の材料として流用されるからか__分からないが、この場合重要な要素ではない。観測結果はその差に頓着せず、その領域は単に「霧ではないもの」に置き換わる。
__首を喪失した竜は、瞬時にその頭蓋を蘇らせ♯を睥睨した。警戒したように竜は動きを止め、♯はその隙に父親に抱きかかえられた。女性騎士もようやく衝撃から回復し、滝の壁を作るために詠唱を始める。魔術師からの光弾は雨に叩き落とされて瞬時に消えるが、雨はゆっくりと弱まってきていた。__
竜は瞬時に再生する。だがそれは、局所的な再生に留まる。修復は全体設計図の一括再展開ではなく、欠損部の周囲を参照して埋める局所処理にみえる。
ならば人体組織に置き換えられた領域の隣の霧は、修復のときなにを参照するか。
__『仮想:刻印霧』がもう一度首を空へ伸ばし、喉奥へ光を集中させる。♯はそこに短縮治癒魔法を行使し、首から上を吹き飛ばす。一瞬後に修復された頭はなにごともなかったかのように光を蓄え続け、そして♯の二度目の治癒魔法が効果を発揮する。三度、四度、五度と繰り返されたそれは、長い首のその根元から消し飛ぶことで蓄積を中断する。暴発した光は周囲を強烈な可視光によって照らし、まばゆい熱で中心から数メートル圏の地面を発火させ、瞬く間に蒸発させた。父親は体を伏せて自身と胸に抱えた♯を守り、女性騎士は4重の基礎防御魔法によって光弾と可視光から自身を守る。__
霧の持つ自己修復サイクルは、破損した部分の近傍の情報から次の形を組み立てる。「人体組織」という汚染を含んだ形を参照元として選んだ修復サイクルは、複製される形にもその汚染を伝える。誤りは訂正されず、複製される。
校正機能を持たない自己複製系は、複製のたびに誤差を蓄積する。そして『仮想:刻印霧』のサイクルは♯が治癒魔法を打たずとも回り続ける。つまり、♯が魔法行使をせずとも、竜は自身の再生サイクルによって自身を破壊し続ける。
__♯は一度も目を逸らさず、一度も躊躇うことをしなかった。回避と防御は完全に父親と女性騎士に任せ、ただひたすらに短縮治癒魔法を行使し続けた。飛翼の付け根、片足の関節、胴の中心、首の付け根、前頭部、首全体、その他ありとあらゆる所を対象に治癒を行使し続けた。驚愕と恐れの混じる表情で女性騎士が♯のことを見ていることは分かっていたが、それに頓着しようとは思わなかった。身を案じて制止しようとする声を♯は単に無視した。最速であの竜をしとめる事が目的だったはずだ。何の問題がある?__
必要なことは、霧すべてを人体組織へ置き換えることではない。誤りが訂正されるより早く複製されるだけの汚染密度を、サイクルの中に埋め込むこと。閾値を踏み越えるための密度を、『仮想:刻印霧』へ蓄積させること。
『仮想:刻印霧』そのものを無敵たらしめていた自己複製機構を、『仮想:刻印霧』自身の破壊機構へと変貌させること。
あらゆる外的要因から無敵なのであれば、自己による攻撃ではどうだろうか?♯はそう発想したのだ。
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20秒後。
霧は忽然と搔き消えた。
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