洪水のような雨の音に混ざる怒声によって♯は意識を取り戻した。同時に強い喉の痛みを覚え、発作的に咳き込んだ。どうやら数分間におよぶ連続詠唱は喉に深刻なダメージを与えたようで、♯はこれから何時間かはかすれ声で生活する必要があるらしい。
そういった緊急性の低いことを考えながら目を開いた♯は、その直後に生じた強烈な光によってあわてて目を閉じた。女性騎士のまとう防御に腕の太さほどもある光線が照射され、それは空中の水滴を蒸発させながら暗い雨雲へと向かい、夜空を切り裂いていく。
父親の背に抱えられた♯は身じろぎする事で自身の覚醒を父親に伝えた。一瞬足を止めて目を合わせた父親は純粋に心配の表情で♯を見てから、走る速度をあげた。どうやら一番近い建物である中庭の倉庫へ向かうらしい。
♯は父親の背の上で周囲を素早く見渡し、状況が想像より
♯の中で、何度目か分からない不安がみるみるうちに膨らんでくる。♯は漠然と、あの『
倉庫の軒下に飛び込んだ父親は女性騎士の方へ振り返った。同時に左手の人差し指をくわえ、甲高い口笛を鳴らした。
女性騎士はほとんど間髪置かずに『膨突』を唱え、強い水しぶきによって瞬間的に視界を遮ってから♯と父親に合流した。
彼女は視線をわずかに向けて父親の指示を促しながら、同時に5節以上の詠唱を唱え一時的な防御を構築していく。♯の魔法的知識では、それは
彼女は防御を構築し終えてもなお声を出さない当主を見上げた。
♯は父親の背から、女性騎士に見えるように屋敷の特定の部分をゆびさしていた。父親は、非常に申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「申し訳ないんだけど。ちょっと、空を飛ばなくちゃならなくて。」
驚くことに、女性騎士は屋敷地下へと通じる三階の当主私室への飛行を即座に受け入れた。屋敷地下については当主一族とその非常に狭い周囲にしか伝えられていないにも関わらず、彼女は当主の命令であるというだけで一切の疑問を上らせることなく同意した。『
けれど、それらの貢献は今回の問題にはまったく影響を与えられない。というより、女性騎士にとっては
女性騎士が即席で立てた計画は、即座にその他二名から否決された。二つ目の計画は説明を終える前に止められた。
♯は口を開いた。「合理性と自己犠牲を混同しないでください。」
当主も口を開いた。「二階級特進は名誉なことだが、受ける当人はそもそも壇上にいなければならない。」
「いや……。」女性騎士は眉を歪めた。「飛翔中の数秒間は本当に、完璧に無防備になるんです。視界を隠すものがなく、目立ち、軌道を予測できる。移動対象とそれを保護する地上支援は必要不可欠で、私がそれをするのは非常に理にかなって……。」
彼女の言葉は途中で途切れた。父親が険しい顔で首を振り、♯が父親の背の上でより一層険しい顔で首を振っていた。
女性騎士は困り切った表情で当主と♯を見つめた。「じゃあどうするんですか?」
♯は目を瞬き、それからニヤリと笑った。「もちろん、
つまり、言い換えれば霧の竜は彼らの持ち物であったということ。彼らは霧を使い、彼らにとって有利になるように立ち回っていた。
けれど、
♯は、女性騎士がどうしてもと要求した予備の防御魔法の構築を待っていた。♯はもう一度父親の背に乗せてもらい、杖を片手にもって構え周囲を警戒している。
父親は不安そうな表情で立っている。いつもはかき上げていた髪は雨で流れ、額に張り付いている。雨は当分止むことのないように見えるほど降っているが、数分以内に自然に止むことを♯は知っている。もとは♯の呼んだ水であることから即座に止ませることも出来るが、今はまだそのときではない。
突然、細い光線が暗闇を切り裂いて飛来した。それは正確に♯を狙っていたが、けれど目の前に展開されていた純粋鏡面の防御によって反射され、地面を浅く抉りやがて止まる。僅かに間を置いて二射目と三射目が到達し、同時に反射され城壁と屋敷の壁の一部を切り裂いて止まる。そこで照射型の光線は一拍したようで、次いで射撃魔法と思わしき魔力光が灯る。
女性騎士の最後の詠唱が終わり、♯を含む三人の周囲に全球状の青く色づいた防御がうまれた。
顔を上げた彼女と目の合った♯は、ひとこと唱えた。
雨は即座に止んだ。
同時に、女性騎士が小声で次の詠唱を始める。その時点ですでにきらめく閃光が正門方向から飛び立ち、三人を目掛けて疾走している。ほとんど間を置かずに城壁からも青緑の魔力光が灯り、一射目の飛翔音がうなりをともなって響き__
女性騎士の呪文が完成し、周囲の気温が体感できるほどに落ちた。
大気は気温によって内包できる水分量が決まり、過多になればその水分は水滴へと変わる。洪水のような雨の直後の大気には多くの水が含まれ、そして気温が下がれば大気の水分保持能力は一気に失われる。
女性騎士の魔法の完成によって、突如として宇宙の一区画で温度の項が書き換わり、周囲の宇宙はそれに影響され疑うことなく物理法則にしたがって周囲の環境を変化させる。
スティグマとの戦いの中で観測した事実のひとつに、興味深いものがあったことに♯は気づいていた。他の人であれば見逃してしまいそうな、けれど実際には非常におかしな出来事が起きていたことを♯は見過ごしてはいなかった。
__魔術師からの光弾は雨に叩き落とされて瞬時に消え__
水滴に、光弾を消し去る物理的な力は
けれど、あの高速で飛来する射撃魔法の光はなぜか、
これは直感と反する観察だ。
そして♯の観察は同時に起きた別の出来事へも向かう。洪水のような雨の中で光弾は消え去ったが、
父親の首に腕を回しながら、♯は生理的な反応から涙が浮かんでくることを感じた。周囲にはただ空気しかなく、恋しくなるほどの彼方に安息の地である大地が広がっている。
父親の胸に♯は抱かれ、その塊を女性騎士が横抱きに抱えた状態で三人は上空を飛んでいた。その飛行は魔法学上厳密には跳躍の魔法として区別されるものだが、起きている結果を見る限りその定義は率直な観察とは乖離したものであるらしい。♯たちは
上空からは、屋敷の二階ほどの高さまでを非常に濃い霧が覆いつくしていることを確認できる。地表や低木たちは完全に覆い隠され、同時に地表から飛行中のこちらに視線を通すこともまたできないだろう。
女性騎士の跳躍魔法の詠唱の間、結局光弾は一度も濃霧を抜ける事はできなかった。濃霧に突入した光弾は♯の仮説の通り、風も音も魔力光も発さず、即座に一切の跡形を残さずに消え去る。濃霧にのまれた光弾は、やはり周囲にどんな影響も与えることができないようだった。
♯はこの仮説実証のプロセスからなにか有用な一般則を導ける可能性を考えていたが、かろうじて窓枠に残っていたガラスを叩き割る音で現実へ戻された。
女性騎士はしなやかに三階の廊下へ着地し、同時に素早くかつ慎重に当主を床へ降ろした。
「当主、
「騎士エリン。」全員がそこへ入室したことを確認した父親は口を開き、同時に本棚の回転を始めた。「領家機密の一部を突然伝えられることは同情するが、受け入れてほしい。」
「えっと……。え?」と声を返すのは女性騎士。
「それと。」と、まるでその返答が聞こえなかったように父親は続ける。「申し訳ないが、床と全員の服を乾燥させてくれないか?」
遅くなり大変申し訳ございません!!難産だった。
最近かなり忙しく、次話は再来週になってしまうかもしれません。