次の日。
身支度を整えた♯は、リビングで朝食を取っていた父親に向かって突進していった。父親は♯に目ざとく気づき、椅子を引いて机から離れた。あの男はおそらく♯がおはようのハグをするために近づいてきていると思っているようだが、もちろん♯はそんな事をするつもりはない。♯は椅子から降りて立ち膝になった父親に飛びかかり、そのまま胸ポケットに入っていた父親の杖を奪い取った。
サッと離れて父親を見ると、男は両手を広げてハグを待つ格好をしながら傷ついた表情でこちらを見ていた。少し可哀想になってしまった♯はいやいやながら近づいて腕を回した。
「おはようシャロン。」と父親。
「おはようございますお父様。離してください。」
父親は不満そうに体を離し、椅子に座り直した。「それで、その杖は僕のものだけど。どうするつもり?」
「
「ひっ捕えろ!」という貴族家当主の命令がウィッケンハイザー家本館全体に広がり、1000人の追手が♯を狙い放たれた。
30年後、あるいは30秒後。
♯は緊張した面持ちで父親と対面していた。父親は扉の前に立ち両手を広げている。出ていく所を確保するつもりなのだろうが、♯は
「♯、そこから出てきなさい。」
「お父様こそ離れてください!」
「離れるわけないだろ!僕の杖をどうする気だ!」
「だから分解するんですよ!それよりここが
男は周りを見渡し、扉をくぐっていない事を確かめた。
「いや別に、それはどこだって良いだろう。」
「トイレですよここは!変態!」
男はその罵倒など意に介さないようだった。「杖を返しなさい!」
「変態!変態!変態!」
その30秒後。
♯は母に抱えられて廊下を移動していた。迂闊だった。盗みを働いた屋敷の中で大きな声を出してしまうなんて。初歩的な失敗にも程がある。それに、袋小路に自分から入ってしまったことも大きな失敗だった。計画段階では父親に気づかれることなく盗み出し、無警戒の屋敷の中を進んで安全な場所まで移動する予定だったのだが。
♯はダイニングテーブルに座らされた。確かにまだ朝食は取っていなかったが、この囚人のような仕打ちには抗議の申し立てを行いたい。隣に母が座り、スプーンで食事をとって♯の顔に近づけてくる。まるで5歳児に食事を与えるような仕草だ。
「ほら、アーン」
♯は不機嫌にスプーンを母から強奪し自分の手で口に運んだ。ニコニコとこちらを眺める母の事は極力無視して食事を取る。食べ物が美味しくなければ今の♯の感情と繋がるのだが、都合の悪いことにいつも通り美味しかった。
♯の戦利品である杖は父親に返却されていた。♯の持ち物なのだからと相応の金銭の支払いを要求をしたが、家庭内法により所有権は父親にあるとされた。逆に違反金の支払いをチラつかされたので♯は引き下がらざるを得なかった。
♯はミルクを飲み干し、ごちそうさまでしたと手を合わせた。
「それで、」母が口を開く。「♯は新しい杖が欲しいの?」
「いいえ、お母様。そんな事はありません。」
母は首をかしげ、父親を見た。
「いや、♯は杖を分解するつもりなんだ。」と男が答えた。
「分解。」母は言った。「分解。」そして眉をひそめた。「分解?」
「分解というのは、バラバラにするという意味ですよ、お母様。」♯は親切にそう説明した。
「ありがとう♯、でも心配しなくても、分解という言葉の意味は分かります。」
その返事で♯の方こそ困惑した。この魔女は一体
「その、シャロンちゃん。」母は確かめるように言う。「あなたは杖を分解しようとしていたのよね?一体なぜ?」
今度こそ♯は完全に困惑した。「なぜ?分解する意味なんて一つしかない!
「それはそうなんだけど。」思いもよらなかったという顔で母は♯の事を見ている。
「え…?杖の中身なんて知りたくなるに決まってますよね…?」♯は父親を見た。
父親は顎を撫でた。「いや、うーん、まあ、…そう、かもしれない。」明らかに見せかけの言葉で父は返事をした。
つまり…。驚きの表情で♯は周りを見渡した。少なくともここにいる人間の中で、魔法の仕組みに対する興味を持っているのは♯ただ一人ということらしい。母は魔法について♯と比べ数百倍の知識を持っている。国内でも魔法行使分野における最上位の実力者だという。そんな人物ですら、魔法という現象そのものを解明する気が一切ない。杖を分解し中身を確認するという方法を取ることもしない。本当に小さな労力で済むこんなことをすら、しようとしない。
「お母様、質問をいいですか?」♯は手を挙げた。
教師の顔となった母は頷いた。「どうぞ、♯さん。」
「杖はどんな構造になっているんですか?」
教師は母の顔に戻り、無意識にひたいを指で撫でた。「さあ、杖職人の方なら知っているんじゃないかしら。」
♯は頭を抑えた。「もう一つ質問しても良いですか?魔法はなんで頭で考えている事が一番重要な要素なんですか?魔法は人の考えを覗けるんですか?」
母は腕を組んだ。「確かに、なんでかしら。」
「やっぱり、魔法を起こせる特別な妖精がいるんじゃないのか?」と男が助け舟を出した。「僕はお祖父様にそう習ったよ。」
「妖精?」♯は反応した。聞き捨てならないセリフだ。「どんな話ですか?」
「いや、その。透明な妖精がいっぱいいて、彼らが人の考えている事を叶えてくれるんだ。」そこまで言って男は手を振った。「ただのおとぎ話だから、真に受けないで欲しい。」
「私は、天界の一族が耳をすませて呪文を待っているって聞いたけれど。」母が口を挟む。「でも、魔法は呪文だけじゃ使うことが出来ないものね。」
それについて男が憶測を返し、それにまた女性が曖昧な返答を返した。
♯は頭を抱えた。本当にこんな事があって良いのか?
この世界には魔法がある。杖と呪文と思考によって世界を書き換える方法だ。♯の知っている宇宙の常識と照らし合わせると、一番基礎の部分から覆るほどの衝撃的な現象だ。そんな世界に♯は偶然生まれ直した。
そして、魔法そのものについての研究はほとんど進んでおらず、未開拓の魔法という土地には溢れ出さんばかりの謎という鉱脈があるらしい。
♯は満面の笑みを浮かべた。これ以上ないほどの喜びを表す笑みだ。
こんな主張を引用しよう。__天才とは、人生で解くべき重要な問題を見つけた人間の事を言う。
♯は、自らが人生をかけて解くべき問題を見つけた。これこそが、♯が解くべき謎だ。
この瞬間から♯は、自分が神になれるかどうかという心配をしなくなった。
「ご機嫌ね。なにかあった?」と母が♯に聞いた。
「いえ、なんでもありませんよお母様。」♯は笑いながら顔を振った。「それより早くお父様の杖を分解しましょう。」
「それはダメだ!」父親が叫んだ。
結局、大叔父様が子供の頃に使っていた杖ならなにをしても構わないという話になった。
20cmほどの短杖であり、大半が木製だが握りの部分が金属製になっている。杖の後ろ側には紐かなにかを通せるような穴が空いている。
両親の説明では少し長めの飾り紐を付けることで、魔法行使で発生しがちな風にたなびいて綺麗に見えるという。
♯は正直、ただの杖の分解を両親に見物され続けているこの状況を俯瞰で見て、この親達は暇なのかと考えていた。
♯は杖をじっくりと眺めていた。木と握りの金属の継ぎ目は長年使っている様子を感じさせないほど頑丈なもので、大きな隙間も見当たらない。どうやってくっついているのだろうか。興味は尽きない。なんかしらの刃物を使えば木で出来た部分を割ることは出来そうだから、無理矢理繋ぎ目を切り落としてしまおうとすればそうすることは可能そうだ。
作業は父親の執務室で行っていた。一番道具が豊富に揃っているからだ。どうせ♯が分解している間は父親は仕事などする訳がないのだからここが一番適した場所だろうと判断した。
♯が机の中の小刀を取り出そうと引き出しを引いたと同時に父親の腕が伸びてきて小刀を奪い取っていった。
「ご命令をくださいませお嬢様。」男はふざけて言った。
「いやです。自分で出来ます。」
「刃物を5歳の子に渡すわけないだろ。」男は呆れた様子で言った。
「やだ!返してください。」
「これは元々僕のだから、所有権はこちらにある。」そう言って男は♯の向かっている机の反対側に椅子を持ってきた。
「お嬢様はそこから命令してください。お嬢様のお手を煩わせるわけにはいきません。わたくしめにお任せください。」
♯は男をキッと睨んだ。「自分で出来ます。」
「いーや、出来ない。もし出来たとしても、♯と僕は後でめちゃくちゃ怒られる。」
「怒られる?」♯は母親の方を見た。
「そりゃもうとても怒られますよ。」という母の顔は特段怒っているようには見えない。
「誰に?」
「使用人5人全員から別々に怒られる。」男が答えた。「どんな言い訳をしてもダメだ。みんながみんな、子供は刃物に触れた瞬間に悲鳴をあげて絶命すると思っているんだ。♯が小刀を使うところを放置していたら、♯は今後フォークすら持たせてもらえなくなるし、僕は中庭で磔にされる。」
♯は不満そうな顔をした。父親が磔にされるのは多少見たくもあるが、今後スプーンだけで食事を取るのは大変すぎる。「悩ましいところですね。」
「悩む余地なんてないだろ!僕にやらせれば良いんだよ!」
♯は口をひん曲げた。自分でやりたいのは山々だが、現当主の地位が今のタイミングで♯に移るのは望ましくない。とはいえ、父親を失脚させる方法は将来何かがあった時のために覚えておいて損はない。メモ:父親を蹴落とすなら、刃物を使え。
「では。」♯は厳格な命令口調で御用聞きとなった父親に言った。「今から言うように杖に刃傷をつけてください。」
「はっ。仰せのままに。」明らかに安心した様子で御用聞きは返事をした。
その1分後。
「違いますよ!どこに刃を当ててるんですか!」
「ここか?いやなるほど、さっき作った傷はこのためか。ということは…」
「何してるんですか!違う!それは間違えて勝手にやったやつ…ああ!」
「よし。それで、ここからどうするんだ?」
その3分後。
「これでよろしいですか?シャロンお嬢様。」
「はい!完璧です!」
「ごめんなさいねロレンツ。昼食の準備中に。」
「いえ、奥様。謝っていただくようなことではとてもございませんよ。…まあ、もう少し原型を留めている状態ならば、と思う気持ちがないと言えば嘘になりますが。」
「いえ、使用人さん。完璧な刃物捌きでしたよ!この刃物もまともに使えないなんたら家当主のなんたら氏とは違って。」
「恐れ入ります、お嬢様。」
「しょうがなかったんだよ、僕は細工職人として教育された訳じゃない。」
「お父様は少し黙っていてください。」
次話は明日の18時です。