♯は昨日の段階で、魔法について(現代日本で積み上げた知識をもとに)仮説を立てていた。
魔法は今のところ、極めて複雑なもののように見える。人間の脳を読み取り、人間の特定の声を聞き、人間が杖を持っているかどうか判断をしている。そうやって判断をしてから、どんな風に宇宙を書き換えるかを操作しているという。そういうことをしているのが、魔法だという。
そんなことは当然あり得ない。まあ、この世界が理屈の完全に通用しない物語に登場する異世界のような場所なら、魔法という名前の奇妙な法則が宇宙全体に広がっている可能性もないとは言えない。観測も出来ず物理法則にも支配されないマナという架空物質が広がっていて、それがたまたま人間の思考を読み言葉を理解するという構造になっていることもないとは言いきれない。物理定数すら信用出来ない宇宙の構造を考えるとき、どれだけ突飛な発想をしても実際の現実に追いつけるような想像すら出来ない。正直、♯は超弦理論や多次元宇宙についてあまり詳しくないが、この宇宙に関して言えば、どんな可能性であれ絶対にあり得ないと言い切ることは出来ないということは分かっていた。
しかしとはいえ、やはりありそうにない話ではある。この宇宙が偶然魔法という法則が最初から備わっていた宇宙である、という仮定はありそうにない。ありそうにないということは、可能性が限りなく低いということだ。仮説の信憑性を考えるのであれば、もっと確度の高い仮説はすぐに思いつく。可能性として当然考えられることは、意識あるなにかが魔法を作り出したという仮説だ。魔法は明らかに人間に対して有効的に働いている。というより、魔法行使者に対してのみ有効に働いている。水を出現させる魔法では、水はコップの内側に現れる。発火魔法を唱えると、狙った通りの場所が燃え上がる。汚れを落とす魔法は、布を構成する組織とその組織内に入り込んだ汚れと呼ばれる別の組織を判別出来るらしい。そこには、明らかに行使者に奉仕するという目的が存在する。これが宇宙の発生の過程で偶然出来た法則だとする仮説を支持する証拠など現れそうにない。
魔法は意識ある何かが作ったという多少マシな仮説を前提に進める。魔法を行使する上で必要なものは、杖と発声と思考だという。たったそれだけの部品の組み合わせで現実が書き変わるという。
呪文は、どれだけ大きな儀式魔法だとしても丸3分以上の長さの詠唱はないらしい。杖は手に持つだけでよく、構えや動きで魔法の結果が変わることはないらしい。思考は自身が魔法を使っている様子を思い浮かべる程度の思考の精度があれば十分らしい。
現実を書き換えるには、現実を書き換えられるほど複雑な仕組みをもつ機構がなければならない。数百万個もの非常に小さな三色のライトを高速で点滅させ続けることで板の表面に映像が流れているように錯覚させられるような複雑性や、そのライトひとつひとつを実際に光らせるために動作し続けている何十億もの部品が集まっているような複雑性が必要になる。これだけの複雑性でも、たった板一枚の表面の現実が書き換えられたように人間を錯覚させられるようにしかならない。
詠唱には、現実を書き換えるような複雑な仕組みをもつ機構を内包できない。知られている範囲での詠唱の役割は、声に出した言葉の意味を伝える事だという。つまり、詠唱は意味が伝わる程度の範囲であればそれでよく、音質や抑揚や強弱についての細かな制約は存在しないということだ。詠唱による最大の効果も、せいぜい書き換える現実のおおまかな方向性を決める程度しか出来そうにない。
次に、思考はどうだろうか。地球人の常識から照らし合わせると、800億個以上の神経細胞とそれらの相互通信を行うシナプス結合による複雑な機械になら、魔法を作り出せる機構が備わっていてもおかしくはなさそうだ。異世界人の脳は地球人とは違い、思考と同時に現実を書き換える能力が備わっていても仮定としておかしくはない。
しかし♯は、今まで生きてきたこの5年間の経験を振り返り、それはありそうにないと考えていた。思考そのものが世界を書き換えているということは、この世界の魔法は人間そのものだということだ。人が考える事はすべて起こすことが出来るということだ。
そんな世界で、果たして人は死を受け入れるだろうか。
2年前、国の反対側で疫病が流行った。当時は魔法について一切知らず、詳しい症状も知らなかったため媒介動物と思わしきものの駆除や公衆衛生について父親を通じて中央に伝えた程度しか動けなかった♯だったが、今考えるとあれは現実を端的に表した騒動だったと思う。
人の脳が魔法そのものであれば、病気が存在することなどできない。国の中枢はあの疫病による被害を極めて真剣に減らそうとしただろう。人道的な理由でなく単純な利益だけを追及する精神性だったとしても、疫病という被害が爆発的に膨らんでいく災害に見向きもせず放置することなどありえない。他国、領地間のパワーバランスという政治的闘争が存在する環境において、被害が拡大し続ける問題に真剣に向き合わない為政者などいない。
そして物事を真剣に考える人間は、かならず魔法を問題解決の手段として使うことも容易に想像がつく。というより、魔法の能力が及ぶ上限スレスレの臨界点まで問題解決に使おうと考える。少なくとも、♯と同じことを考える人間なら必ずそうする。
そして、もし問題解決の手段をあらゆる手を使って必死に探している人間の思考そのものが、現実を書き換えるものだとしたら。
この宇宙がそういう風に出来ているとしたら。
唱えるだけで病気が消え去る魔法が必ず作られている。そうでなければならない。
しかし♯が見たところ、世界はそういう風には運行していないようだった。
これこそが、♯が魔法が思考によって発生しているわけがないとする証拠だった。もしこの世界の人間の脳に魔法を発生させる器官が入っているのならという仮定でこの世界を俯瞰すると、次々と矛盾が現れてくる。その矛盾を解消するための限定的な別の法則が個別にあると考えるより、この仮説が単に間違っていると考える方がまともな考え方だろう。
つまり、♯の観察による推論では、思考は実際にはほとんど何もしていない。たんなる予想では、発現させる魔法の大まかな方向性を決める程度しか関与していないのではないか。
では、杖はどうだろう。
杖は魔法を行使する時、必ずもっていなければならないという。杖を持っていない状態では一切魔法は発現しないという。杖はただ手に持っているだけでよく、特定の法則で振らなければならなかったりする必要はない。
非常に単純なことに、杖を持てば魔法が使え、持たなければ魔法は使えない、ということらしかった。
ここから、当然思いつくべき発想が浮かぶ。
現代日本には制御機械(デバイス)と呼ぶべきものが存在した。テレビのリモコンやスマートフォン、マウスやキーボードなどのことだ。これらのほとんどは、人間の挙動の意味を機械がわかるように翻訳するためのものだ。文字を打ち込むためにキーボードのQというボタンを押すことの物体としての意味は、ただ大量に並んだボタンのうち特定の一つが押されたという意味しか持っていない。けれどキーボードという文字を入力するために特化された制御機械は「人間はQという文字を入力するつもりだ。」という情報を次のステップである処理機械が理解しやすい電気信号に翻訳して情報を送る。実際には電気信号の伝達による完全に機械的な動作だとしても、そこには人間と処理機械のコミュニケーションを成立させるという目的がある。
杖を持った状態なら、特定の詠唱を唱えながら特定の思考をすることで魔法を引き起こすことが出来るという。
特定の詠唱や特定の思考というのは、どんな魔法を使うかという方向性を決めるためだけに存在する。そして、杖がなんらかの方法でその思考を魔法に変換した結果、宇宙を書き換えているのではないか。♯は事前にそう仮説を立てていた。魔法は杖という制御機械が発生させているのではないか、という仮説だ。
♯は目の前の杖の残骸を見つめた。木の破片はどこと接続していたかがわかる様に杖の芯から放射状に綺麗に並べられている。破片そのものの形状は非常にバラバラで統一感がないが、原因となった男の行為について考えると気が滅入るので詳細は省く。
重要な事として、杖には芯が存在した。握りの飾りのような金属の部分は木の表面に彫り込まれていたわけではなく、中心まで金属で満たされているようだった。その、円柱状の金属の片側から鉛筆の芯ほどの太さの金属が杖先まで伸びていた。♯は今まで勘違いしていたが、杖は木に金属の飾りをつけていたわけではなく、金属の芯の周りに木を取り付けていたらしい。
杖の芯の金属の部分は、およそ1mm幅で均等に輪切りにされていた。国内最高峰の魔法使いの手にかかれば、よくある金属程度ならなんの苦もなくきゅうりのように輪切りに出来るらしい。
♯は椅子の肘掛けの上に倒れた。まるで意味がわからない時にする仕草だった。
もちろん、♯も杖の木の部分を割れば中から謎の宝石が現れたり虫の頭が出てきたりトランジスタが転がり落ちてくるなどとは思っていなかった。しかしこれはどうだ。杖の構成素材は2種類、木材と金属であり、木材の種類はだいたい何でもいいらしい。(大叔父様は古い杖と同時に書庫から図録も持ってきていた。あまりにも有能すぎる人間だ。)
杖の芯材として使われる金属は一種類、色々な特徴からおそらく地球でいう鉄の類似物質だろうと思われた。
芯の輪切りの断面をルーペで拡大しても、特徴的な掘り込みや穴や凹凸は一切見えない。図録によると杖の作り方はおおむね、杖芯の形成と木材加工の2行程だという。他の細々した装飾に関する部分もあったがどれも重要そうではない。(杖の作り方は秘法であり杖作りに携わるごく少数の人間にしか伝えてはならないと書かれている。すると自己矛盾を起こしているこの図録は一体なんだ?杖作り職人の秘伝書ではないか?と♯は思ったが言葉に出さない程度の良識はあった。)
♯は頭を抱えた。杖は一般的な鉄っぽい金属となんでもいい木材が組み合わされたものだという。非常に複雑で原理すら分からない謎の技術を起こすための制御機械にはまったく見えない。杖は単なる木と鉄の細工で、そこに世界を書き換えるような機能が備わるはずがない。
つまり、♯の一連の仮説はもれなく反証されてしまったということだ。
どの部分の仮説が間違っているのか見当もつかない。それが問題だった。
♯は事前に、杖を分解する意味とその背景にある♯の立てた仮説を伝えていた。全員が驚いた顔をしてこの実験を賞賛してくれた。♯はその時点で、この実験の結果など完璧に読めていると思っていた。午後にでもこの革新的な魔法研究の論文の執筆を始めようとすらしていた。
♯は顔を机に突っ伏した。行儀のいい態度ではないが、そんなことを考える余裕などとうに無くなっている。
父親は何事にも失敗はある、と伝えるように優しい顔をしている。母親は♯の肩に手を当て、気にすることなど何もないというように撫でている。大叔父様は奥のソファに座って昨日♯が書いた魔法研究計画を熱心に読んでは時折うなずいている。まるでその羊皮紙に書いてあることが正しいとでも思っているようだった。
「もう寝る!!」♯はそう叫び立ち上がった。
「ええ、久しぶりにお昼寝しましょうか。」という母親の提案は黙殺した。♯をなんだと思っているのか。そんな5歳児の子供のようなことなど絶対にしない。いくら母親に懇願されようと絶対にしない。
「寝ない!もう帰る!!」♯は椅子を立ち、苛立ち紛れに扉に向かった。セレスティアはそこに隠された表現にいち早く気づき、歩く♯を後ろから抱きしめて持ち上げた。そのまま彼女は部屋を出て、残された男性二人に手を振って扉を閉めた。いつも子供扱いされることを嫌う♯だったが、今回に限ってはいつもより嫌がり方が弱かった。