ということで、今までの仮説の連鎖はうち砕かれた。杖は複雑な機械でもなんでもないただの木と鉄の棒だったということらしい。
それでも、♯が諦めることなどあり得ない。まだひとつ目の仮説が反証されただけだ。一番ありそうな仮説だっただけに多少衝撃は受けたが、その程度だ。
魔法の解明という研究は1日目で成果が上がるものだとはもちろん思っていない。(杖を分解する直前に何を考えていたかなど♯は全く思い出せない。いつもは優秀なこの脳はなぜかこの時の記憶だけすっかり忘れてしまったようだ。不思議なこともあるらしい。♯はそう考え、それ以上気にしないことにした。)
次に♯が考える魔法の仮説は、やはり
それでも、この宇宙は魔法行使者にとって
つまり、思考は魔法を
魔法には上限が決められている。考えていることがそのまま叶うわけではなく、
思考は魔法そのものではなく、魔法という上限の存在する技術を操作するための
(こんなアナロジーを持ち出しはしたが、正直♯はなぜあれほど男子は乗り物に多大な興味を示すのか理解できたことがなかった。ただのおもちゃの車の所有権をかけて殴りあう彼らには一体どんな正義があるんだろうか。)
という仮説も、今の所はただの妄想だ。観察と推論と実験こそが科学的方法である。観察と、それによる推論を展開したところで満足していては全く意味がない。次にするべきこと、しなければならないことはあまりにも明白だ。
♯は一緒に寝ていた母の手を引いて昼食をとりにダイニングへ向かった。
午後、♯は父親を被験者とする実験を始めようとしていた。
「では、準備はいいですかお父様。」
「いいよ。まだ何をするのか全く聞かされていないけど。」
「はい。ではこれから私の指示したことをすべて行い、指示していないことを一切しないと誓ってください。」
「わかったよ。それでこれから何をするの?」
♯は聞き分けのない子供を見る表情を浮かべた。「質問しなさいという指示はしてないですよお父様。」
「もしかして、これから何をするかすら教えてくれないの?」
「そうですよ。」♯は当然のようにうなづいてそれ以上の問答に付き合う気はないという仕草でメモを取るために紙を広げた。
父親は眉を寄せた。「…なにか、説明できない
♯は驚いて父親を見た。てっきり実験の協力を盾に説明を要求されると思っていたが…。ややあって、♯は目の前の男が王国貴族の一角であるウィッケンハイザー家現当主その人であることを思い出した。
「その通りです。」♯は賞賛を声に滲ませながら言った。
「説明できない理由なら、教えられたりしないか?」
♯は眉を寄せて考えた。父親は科学的手法には無知だが賢い。これについて教えずに実験を始めてしまうと、説明をしなかった理由を途中で考え始めてしまう可能性がある。「お父様は
「いや。」男は多少考えてから言った。「知らないな。」
「盲検というのは、
「それ、どう答えても僕の負けになる質問だろ?」
「やっぱりそうだと思ってました。そんな嘘つきのお父様にもう一つ質問です。」
「どう答えても嘘になるからって答える前に進まないでよ。」父親は不満そうに言った。
「質問です。魔法をうまく使える人はどんな人ですか?」
「ふむ。それについては今までに色々考えていたから持論ならある。魔法をうまく使うためには多分、かなりの
♯は腕を組んでうなった。多少説得力のある仮説が出てきてしまい少し困ったのだ。この仮説を検証する方法がすぐに思いつくわけではないが…。
魔法をうまく使える人、のような曖昧で不明瞭な質問をしたとき、この世界のひとなら大抵それらしく思えるだけの
「ごめんなさいお父様。今の質問は忘れてください。というより今度、語学の適性と魔法行使の適性の相関関係を調べる計画について話をしましょう。」
「あーー、分かった。いや、あまり分かってないが分かった。」
「それで、話をもとに戻しますが。人はとてもよく勘違いや思い込みをおこします。それは分かりますか?」
父親はゆっくりと頷いた。「それについては理解できる。政治の場ではそれらをうまく使えない者から姿を消していく。」
♯は頷いた。「科学の場でもルールはあまり変わりません。勘違いをしていた者は
しかし、ひとつ政治の場との大きな違いとして、だれかを騙したり罠にかけることは非常に大きな罪にあたります。科学の場では、全員が全員に対して
父親は唾を飲んだ。「まさか、本当にそんな場所が…?」
「いや、かなりおおげさに言っているだけです。」
男は半目で睨みつけてきたが、その視線を♯は単に無視した。
「そんな科学の場においては、本人が嘘をついた
常温核融合の研究者は、自分が望んでいた実験結果が出た事に喜ぶあまり
「
「大体分かったような気がする。」父親は眉を指で揉みながら言った。「大枠の理解は出来たとは思うが…。」
「今までの話と、これからする事について僕に説明出来ない理由はどういう繋がりがあるんだ?」
「簡単な話ですよ。人は知っている時に
父親は不承不承頷いた。「まあ、分かった。」そして立ち上がる。「それじゃあ、ママを呼んでこようか。」
♯も椅子から飛びおり、妙に元気のない父親の機嫌を取るために手を握った。おそらくこの男は自分が♯から信用されていないとでも思っているのだろう。全然そういうことではないのだが、これだけ簡略的にした説明では意図が正しく伝わらないことはしょうがない。
♯は詳しい説明をする事を一旦後回しにしてこの男の機嫌を取ることにしたのだった。父親は驚いた様子だったが、すぐに気分を良くしたようで頭を撫でまわしてきた。
大人の機嫌を管理する事もこの家の次期当主としての役割だと♯は割り切り、特に抵抗はしなかった。
♯は、中庭に持ち出した机でメモを取っている母親の手元を見た。これで4回目の記録が取れたようだが、離れた所から見ている♯には内容までは読み取れない。もちろん近づいて内容を確認する事も出来るが、それはここまで苦労して母に説明した実験方法が台無しになることを意味する。実験の様子を自分で見ている時点で実験手続きとして
父親は5回目の詠唱を始めた。奇数回目なので発火呪文のほうのようだ。
♯は呪文が唱えきられる前に部屋に戻り、出来るだけ中庭の様子を知ることが出来ない位置まで移動した。二重盲検を維持するためであれば♯が見ていようが問題はないのだが、こちらの反応によって被験者や記録者に差が生じる可能性を加味して離れる事にした。それに、今の実験の様子を見ていても代わり映えはなかったし、♯には
♯は午後いっぱいを使って布に垂らされたインクと向き合い、♯の魔法力にすら抗うことが出来るこの
その頃には、この世界には魔法とかいう謎の能力なんて存在するはずがないと信じきれるまでになった。これは大人たちが♯をからかうために仕組んだ悪質な嘘だとさえ信じていた。
♯にとってなにかを信じるということはとんでもなく難しい事だと思っていたが、案外簡単だと気づけたことだけが午後の成果だった。
正直、♯は魔法を使えるようになる気がしなかった。
夕食後、♯は父親に命令を下した。
「お父様!中庭に行きましょう。これからお昼にやった実験の続きをやります。」
父親は明らかに顔をしかめた。忘れていたような面倒くさそうな顔だ。
しょうがないので♯は父親の手を掴んで引っ張った。近づくとお酒の匂いを感じた。夕食の最中に父親は色も香りもワインに似ているようなものを飲んでいたのだ。祭日にしかあまり飲まない父親だが、今日は♯の
「こっち来てください。」と♯は引っ張り、面倒くさそうな態度をしているが足取りは軽い父親と、メモを取る準備をしていた母親が後に続いた。
中庭。手をひっぱられることにまんざらでもなさそうな父親は従順に定位置についた。お母様も(わざわざ夕食前に使用人さんが一度片づけてくれた机を夕食後にもう一度外まで出してくれた)机の前でペンを握っている。まだ夕方だが几帳面な使用人さんはろうそくまで机の上に用意していたようで机の上の明るさに関する問題はなさそうだった。
父親は杖を構え、定位置から呪文を唱え始めた。聞き覚えのある発火魔法だ。詠唱は問題なく進んでいるように見えたが、母親の緊張が
父親が唱えきると同時に、中庭の中央に置かれた松明から
♯は直接炎を見てしまったことで目の奥に出来た焼けつきを抑えようとしながら、今この目で見た結果を出来るだけ忘れようとした。
♯は母親の驚異的な反応速度を認めながら、使用人さん達に協力をお願いしていて良かったと心の底から思った。実験の被疑者である父親と記録者である母親に実験の背後にある仮説を伝えることは出来ないが、実験に干渉しないように注意を受けた人間になら仮説を伝え安全についての協力を頼むことはもちろん出来る。♯は実験中に起こりそうな事故は
次の一時間、父親はさらに魔法を使うよう指示され、過度な運動をさせられ、単純な計算を短時間で大量にさせられ、強制的に気絶させられた。正直かなり罪悪感が湧いたので、♯は今度の休みには父親と遊んであげようと思った。
次話は明日の18時です。